第17話
「篠田さーん!お昼ご一緒しませんか!」
「えー?やめとこうかな」
「なんでですか!」
「気が乗らなくて。あ、八千代さん一緒にお昼どうですか?」
「ちょっと!」
「あらあら、二人とも喧嘩はダメよ?篠田くん?小春さんに意地悪しないの」
「意地悪じゃなくて教育ですよ。杉野さんはまだ俺とご飯に行くような役者じゃないので」
「素直にショックです」
「じゃあ芝居中に余計なこと考えるのやめなよ。さっきも集中できてなかった」
「うっ...次こそはです。必ずやってみせます」
本格的に冷え始めてきたに連れて稽古場には熱気が漂っていた。芝居もだが、何よりもキャスト間の交流が俄然増えていた。もちろん小春と篠田も同様である。よそよそしさが消え、残ったのは小春の熱さに毒を吐く篠田の図だった。
「小春ちゃんと蒼介、あれ大丈夫なの?はたから見てる分には面白いけど」
小春の周りで起こっている喧騒を遠くから眺めながら佐伯が黒木にこぼした。
「別にいいんじゃねえか。空気は悪くないし」
表情を変えることなく言った黒木に佐伯は呆れた。
「でも、小春ちゃんは恋します宣言したのよ?二人は恋人役!今の小春ちゃんと蒼介は、どっちかっていうと親戚のお兄ちゃんに構ってもらえない小ちゃい女の子って感じ...それか飼い主に振り回されてる子犬よ!全く心がときめかない!」
佐伯は拳を握って黒木に力説してみせた。その様子に今度は黒木が呆れる。どうやら佐伯は同期が可愛い後輩に迫られて動揺する姿が見たかったようだ。しかし、篠田の方が幾分か上手だったらしい。
「それに、いつまでたっても小春ちゃんはスランプから抜け出せてない。私とのシーンはまだ大丈夫だけど、守とのシーンになるとほとんどうまく動けてない。役者間の関係性を作ることで解決を図ろうっていうのに、あれじゃむしろ意味がないんじゃないの?」
佐伯の顔に少しだけ不安が滲んだのがわかった。彼女自身、杉野小春という一人の人間のことを気にかけている。そしてこの舞台のことも大切だと考えているのだ。
「まあなんとかなるだろ。仲は悪くないんだ」
「もー、黒木さんってば、興味ないの?」
「んなわけないだろ。自分が監督する舞台だぞ」
「はいはい。ご飯行ってきまーす。八千代さーん!ご飯行きましょ!二人分のクーポン持ってるので!」
「ええもちろんよ。じゃあ、私たちはお先に」
そう言って八千代は足早に稽古場を出て行った。
残されたのは小春と篠田、そしてそれを遠巻きに見る黒木。
なんとなく気まずくて黒木はそっと立ち上がり部屋を出る。背後に恐ろしいほどの重圧を感じたのは気のせいであったと必死に思い込んだ。
遠くなる黒木の背中に篠田は怒りを飛ばした。おかげで稽古場には数人のスタッフと篠田と杉野小春のみが佇む図が出来上がった。
「あの...そんなに嫌なら無理強いはしないので...そこまで露骨に嫌われてる人と一緒にご飯っていうのも、こちらとしても辛いので...」
杉野は細い声で呟いた。
「また今度...」
「いや、いいよ。飯行こう」
「え?」
「ほら、早く」
「あ...はい!」
正直気乗りはしなかったが、致し方なかった。
彼女を連れて行きつけの店へ向かった。稽古場の近く、しかし表通りは避けた場所にある店は佐伯にすら教えたことがない場所だった。
店の前まで来た時、異変に気付いた。
「冗談だろ...臨時休業?」
紙に手書きの文字で記されていたのは店主がぎっくり腰になったためという知らせだった。
「大丈夫ですかね、店主さん」
杉野が呑気にそんなことを呟いた。篠田は予想外の出来事に髪をかきあげる。
「じゃあ別の場所に...」
言いかけてふと思い出した。
ここから残りの昼休憩の間に行ける店は限られている。あって二、三軒だ。だが杉野はともかく、こちらは目立つタイプの芸能人だ。それなりのプライベート空間がなければ入れる店は一軒のみだ。しかし、先ほど佐伯はその店のクーポンを持っていた。ここで合流すれば杉野との食事から逃げたように思われる。佐伯のことだ、きっとそれで今後もいじってくるだろう。
ピンチだ。紛れもなく。
「コンビニに行こう。それしかない」
「え?ああ、はい...」
篠田がその身を守るためにとった手段はそのイメージとは真逆のものだった。
コンビニに入ると篠田はカゴを杉野に持たせた。
「なんでも買っていいよ。お兄さんが払ってあげるから。なるべく早くね?」
「わかりました。篠田さんは何食べます?」
「適当に見繕ってよ。基本的になんでも食べられるから」
正直もう考えるのが面倒になっていた篠田は杉野の後ろを歩きながら舞台が終わった後のビールのことを考えていた。
杉野はおにぎりとパンをいくつかとペットボトルを何本か入れて篠田の方を振り返った。どうやら商品を選び終えたらしい。
「じゃあ会計してくるから、先に出るなり帰るなりしてていいよ」
「ありがとうございます。じゃあ、屋上で待ってます」
「屋上?」
聞き返すと杉野は頷いた。
「稽古場の屋上です。今日は暖かいので、外で食べるのも平気だと思いますよ?」
あまりにも自信ありげにそう言ったので、篠田は曖昧に返事をしてしまった。それを了承と捉えた杉野は頭を下げてコンビニを出て行った。
杉野小春の行動は自分と真逆すぎて全く理解できないというのが篠田の紛れもない本心だった。
コンビニのレジ袋を片手に稽古場へ戻った篠田は杉野がいると思われる屋上を目指した。エレベーターで行こうとも思ったのだが、ちょうど出発したところだったので階段を選んだ。
階段に自分の足音だけが響く。人がいることが当たり前の場所でこうした音を聞くのは少々怖いような気もした。
ぼんやりと胸の中で騒ぐ気持ちに意識を向けながら登り続けていると大きな扉が眼前に現れた。続く階段が見当たらないのでおそらくここが頂上、屋上だろう。
ドアのノブに手をかけるとゆっくり回った。そのまま開けようとしてみたが、思ったよりも重量感のある扉だったため、ぐっと力を込めて扉を押した。
世界の青を切り取った世界に一つの後ろ姿があった。風にわずかに揺れる長い髪が太陽の光に触れるたびにきらきらと輝いている。思わず目を奪われるようなその画像のような映像に篠田は肌がざらつくのを感じた。
物語が始まる。そう本能的に思わせるように彼女はそこに立っていた。
「あ、篠田さん!見てください、今日はこんなにお天気なんですよ!」
くるりと振り返った杉野に篠田は現実へと連れ戻された。頭の中を直接かき混ぜるように額を擦り彼女に左手に持っていたレジ袋を渡した。
「よくこんな場所知ってたね」
絞り出した問いを杉野は簡単に打ち返した。
「前に八千代さんに教えてもらったんです。その時からお気に入りの場所になりました」
「ああ...そう...」
(俺は教えてもらったことないけど)
先ほどの感動にも似た感情が一瞬のうちに醜い感情に変わった。何度か共演をしてきた自分は教えてもらえなかったにも関わらず、素人の彼女には教えたという事実が受け入れがたいことこの上なかった。
篠田はため息をつき屋上へ踏み出した。風は少し吹いてはいるものの、日光がある分暗い階段よりは暖かく感じた。篠田が手頃な場所で座ると、杉野は当然のように隣に腰を下ろした。
「...めげないね、君」
「何がですか?」
「何もかもが」
「だって、そうしないと舞台に立てないですもん。それくらいやりますよ」
「ああそう。ご苦労様」
二人の間に置かれたレジ袋をガサガサとほじくり返して飯にありつく。なんだかとても腹が減っていた。
「...篠田さんって、思ってたよりも普通の人ですよね」
パンにかぶりつこうとした篠田を静止させたのはそんな言葉だった。
「...喧嘩売ってる?」
「そんなことするわけないじゃないですか。というか、これはむしろポジティブな意見です」
「華がないって言われてるようで腹が立つね」
「気に触ることを言ってしまったのなら謝ります。けど、そんな意図で言ったわけじゃないです。華は十分あるじゃないですか。ないのは私です」
「どの口が言うんだか...」
パンを頬張りながら篠田は青空に目を向けた。彼女と面とむかって話をするのは疲れる。
ゴクリと噛み潰したパンを飲み込み、篠田は続けた。
「華があるかどうかはこの際どうだっていいけど、そんなこと気にして舞台に立たれるのは迷惑だからやめてくれない?たとえ考えてなくても、深層心理にそういう思い込みがあるから芝居に集中できないんじゃないの?」
冷たく言い放って杉野に攻撃を仕掛けた。
しかし、杉野から帰ってきたのは篠田を余計に呆れさせた。
「もしかして...アドバイスですか?ありがとうございます!」
「君、やっぱり俺のこと舐めてるでしょ?」
「なんでですか!私、ちゃんと尊敬してますよ?だって、篠田蒼介ですよ?ミュージカル界のスターですよ?しないわけないじゃないですか!」
きらきらと目を輝かせた杉野の言葉に篠田はとても静かな目をした。
「あの...どうかしました?」
篠田の様子を不審に思ったのか、杉野が横顔に向けて声をかけた。それを篠田は静かに拒む。
「なんでもない。...それあげるよ。好きに食べて」
「あ、ちょっと!」
篠田は立ち上がろうとした。それを杉野の細い指が彼の手首を掴んで静止する。
「...離してくれない?」
「そっちこそ、話してくれませんか」
同音で返された答えだか問いだかわからない言葉に篠田は思わず顔を杉野の方に向けた。
まっすぐな目でこちらを見つめる彼女にはどこか確信めいたものが感じられた。見透かされているようで、とても嫌だった。
「話すって、何をだよ」
「本心です。人当たりの良い笑顔じゃなくて、私は篠田さんの本心が知りたいです」
「はっ、何のために?君、本気で俺のこと好きになったりしてない?そこまでされたら流石に...」
「芝居のためです。何度も言いますけど、私、そこは変わりませんから」
冗談めかしてやろうと思ったのに、それも簡単に振り払われてしまった。決して強い力で掴まれていないその指は振りほどけないままだった。
「篠田さんと芝居をしてて私、思うんです。この人、何を考えているんだろうって。お芝居の時はもちろん、お芝居のことを考えてるんだと思います...けど、それ以外の時、あなたは一体何を考えてるんですか?誰にでも人当たりがよくて、求めてることを言ってくれるような人は、あなたの『本当』ですか?」
杉野の言葉が自分の中にばらばらと音を立てながら注ぎ込まれていくのを感じた。
自分の『本当』。
「私、あなたの話が聞きたいです。どんなに毒が強くても、何とか耐えてみせますから」
きゅっと掴まれていた指が静かに離れた。ここから先はおまえの意志に任せるという意味だろう。
正直、気が進まない。なぜよりにもよって相手が杉野小春なのだろうか。せめて他の人だったらと考えた。帰りたいとただただ感じた。
けれど、だからこそ、だったのかもしれない。
篠田は浮かせていた腰をもう一度地面に下ろす。
「...君のこと嫌いだ」
手首に残ったわずかな彼女の温かさをさすりながら呟いた。
「ありがとうございます!」
篠田は広い空に向けて、かき消されるような声で話し始めた。
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