第15話

 稽古場に戻った小春の体は不思議と重くは感じなかった。抱えている問題はあるけれど、肩の力は抜けている感覚だ。

 午後は守と桜のシーンだ。つまり、篠田と二人で芝居対決をすることになる。彼へのリベンジをここで果たす又とない機会だ。昨日のように無様に喰われるわけにはいかない。

「頑張ってね小春さん。大丈夫、あなたならきっとできるわ」

 八千代がエールを送った。彼女の大きな優しさに小春は素直に勇気付けられた。

「はい。なんとかやってみます」

 正直、いまだに篠田に対する芝居の在り方はわからないままだった。けれど、八千代や佐伯という二人の先輩から貰ったエネルギーをそのまま放置するなんてことはできる訳が無い。だからこそ、やれるだけやるしかないのだ。

 自分の中にある空気を一度全て入れ替えるように、一つ大きく呼吸をしてから舞台に向かう。そこにはすでに篠田の姿があった。

 私は桜。呑まれるくらい、桜を演じるなら本望だ。桜になれたのなら、きっと彼も越えていける。

 決戦に挑むように、幕が上がった。


「そこまで」

 黒木の声がかかると、小春はその場に倒れこんだ。

「小春ちゃん!大丈夫?」

 佐伯の声が聞こえて小さく手を挙げる。

「大丈夫です...具合が悪いわけじゃないので...」

 小春が倒れこんだのは酸欠になったわけでも頭が痛くなったわけでもない。あまりの悔しさと不甲斐なさにその場に立っていられなくなったからだ。

 また負けた。昨日と同じく篠田蒼介に喰われたのである。

 小春も先ほどの佐伯と八千代のアドバイスを受けて桜にこれまで以上に呑まれながら演じていた。自分でもいい芝居ができた自信はあったのだ。しかし、それ以上に篠田の演じる守に圧倒された。

「うっ...どうしてうまくいかないの...」

 呟いた小春の顔を人影が覆った。

「それは残念だね?でも、今の君には当然の結果なんじゃないかな」

 顔を上げずともわかるその声の主、篠田蒼介は笑顔と軽快な口調で小春に告げた。

 そんな篠田の様子に小春は苛立ちを覚えた。その苛立ちを隠しきれることなく彼に問うた。

「当然、ってどういう意味ですか」

「そのままの意味だよ。今の君が演じる桜には、桜の一番大事なものが欠けてるんだよ」

「一番大事なもの...?」

 小春が聞き返すと、篠田は嫌な笑顔を浮かべたまま舞台を降りた。

 篠田の言葉を反芻しながら、小春も体を起こし舞台から降りる。けれど、何度繰り返してみてもその答えにはたどり着けなかった。

 自分が演じる桜に、一番足りていないもの。

「小春ちゃん大丈夫?」

 佐伯が小春に近寄って心配そうに声を掛けた。

「大丈夫です。ちょっと悔しくて倒れただけなので」

「それはそれで心配よ。でも、午前よりは動けてたわよ?」

 佐伯の目に嘘はない。実際、昨日と午前よりは動けていた自覚がある。アドバイスは無駄にはならなかったということだ。けれど。

「でも駄目でした。静香さん、私の桜に足りないものってなんですか?」

「足りない?んー、そうねぇ」

 思い切って聞いてみたことを佐伯は眉間に皺を刻んでまで真剣に考えてくれた。彼女はやはりとても優しい人だ。

「八千代さんはどう思います?」

「え?何かしら」

 佐伯は近くにいた八千代に説明し、八千代も佐伯同様真剣に考えてくれた。しばしの間考えたあと、八千代は一つの答えに行き着いた。

「ああ、でも小春さんの桜はあれがないわね」

「あれ、とはなんですか」

 八千代の言葉を待つ小春は少し不安だった。もし、これでカリスマ性や圧倒的存在感といった今の自分では到底獲得できないようなものだったとしたらと考えると、胸の内にぐるぐると重たいものが蠢いた。

 しかし、その心配は杞憂だった。

「愛、かしら」

 八千代から出た言葉はこれだった。

「ああ...確かに、愛ですね。分かります、小春ちゃんの桜には愛が足りない」

「でしょう?愛が足りないのよ!」

 きゃっきゃとはしゃぐ二人の大物女優たちを前に、小春は声も出せずその場に立ち尽くした。

 愛が足りない?

「ど、どういう意味でしょう...?私、桜への愛は誰にも負けないつもりなんですけど...」

 やっとの思いで出た言葉はふらついていた。それに八千代と佐伯は揃って首を振った。

「違うわ小春さん。愛が足りないっていうのは、桜にじゃなくてね?」

「守、ないしは蒼介に、かな?」

 小春の体がもう一度硬直する。それは驚きだけではなく、核心を突かれたからだった。

「守、篠田さんに...愛がない?」

「そうそう。なんか、あんまり恋してないっていう感じ」

「ええ。あの時の桜は芝居じゃないものに意識が行っているはずなのに、小春さんのはその逆ね。自分の状況が桜にのしかかって芝居主導の桜になってしまっていると思うわ」

 小春はそこでようやく理解した。自分は桜を演じているようで、桜を自分に合わせてしまっていたのだ。役の人生に寄り添わなければならないのに、役を自分に寄り添わせてしまっていた。あれほど鏡になろうと言っていたのに、鏡である自分が勝手に動いてしまっていたのだ。

「私...」

 不甲斐ない。誰かに芝居で負けることよりも、自分の決意を自分で曲げてしまったことが何よりも不甲斐なく悔しい。小春はぎゅっと拳を強く握った。

「まあ、役者同士の関係が芝居に影響することはあることだし...それに、まだ舞台は始まってないから大丈夫。稽古中に気付けて良かったじゃない」

「その通りよ。ここからまた作りあげればいいの。だから、そんな悲しい顔をしないで?」

 八千代の優しい声に促され、小春は強い眼差しで二人を見た。信頼し導いてくれる仲間がいることがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。だからこそ、最高の舞台を作り上げなければならない。彼らに恩返しをするためには、舞台で示すしかないのだ。

「よし。私、やります。愛のある桜」

「お、その意気だよ小春ちゃん。で、何か作戦は?」

「篠田さんに恋をしようと思います」

 小春はドヤ顔で二人に告げた。

「ん?」

「はい」

「恋?」

「はい。今は大嫌いなので難しいですけど、頑張ります。必ず好きになってみようと思います。あ、もしかして何か勘違いされてます?私が好きになるっていうのは桜のためにであって、売れっ子俳優の篠田蒼介さんに本気で惚れるつもりは微塵もないですよ」

 小春は誤解のないように丁寧に説明を試みる。すると佐伯は安心したように笑った。

「そうよね!そんなリスキーなこといきなりしない子だものね小春ちゃんは!もう、びっくりしたわ、いきなりそんなこと言うから!」

「小春さんは意外とその辺はわきまえている子よ?静香さんが想像するようなことにはならないわ。第一、そんなことになったら舞台にも影響が出るだろうし」

「ですよね!小春ちゃんったら言葉を選ばないから...でも、一番いいかもしれないわね。桜のためには」

 小春は深く頷いた。

「よし、じゃあ今から宣言してきます」

「うんうん...って誰に?」

「篠田さんに。篠田さーん!ちょっとお話しいいですか?」

 小春は離れたところで休憩する篠田に駆け寄った。

「何か?」

 絶やさない笑顔に向けて小春は高らかに宣言した。

「私、あなたに恋をします」

 これは私の、宣戦布告だ。

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