第14話

 せかせかと足を動かして家へ帰った。とにかく湧き上がる感情をそのままにしておくことができなかったからである。吹き付ける風の冷たさなどは今の小春にはむしろ心地いいくらいだった。体の裏側で燃える炎で体は火照りに似た感覚を覚えていた。

 小春は駆け足にも似た早歩きで帰路を急ぐ。途中、頭にあった顔はただ一人だった。

 篠田蒼介。優しそうな青年に見えたし、何度か話してみて実際そう思っていた。けれどそれは間違いだった。大間違いだ。その実情は優しさなんてありはしない、失敗した人をけらけらと笑ってみせる悪魔のような男だった。

 そして何よりも悔しかった。篠田の芝居に悪い意味で引っ張られ自分の芝居がもつれた。彼の圧倒的な役とのシンクロ率に小春も桜と同調していた。

 小春はぴたりと足を止めた。心臓がきりりと痛む。

 篠田の芝居に引っ張られたことで小春は気づいた。自分がどれほど桜に呑まれていたのか、自分の生活が桜に乗っ取られていたのかということにやっと気づいたのである。それまでは全く気にかけたりなんかしなかった。なにしろ芝居は小春にとって一番大切なことだ、やっと手にしたものを手放すことなんかできるわけがない。だからこそ丁寧にじっくりと手をかけてきた。

 けれど、気づけば自分の全てが桜になっていたのだ。桜は家族でも友達でも恋人でもない。けれど小春にとってとても大切な存在になっていた。もし、今後彼女を失ってしまったら、自分は一体どうなってしまうのだろうか。自分の価値は、なくなってしまうのではないだろうか。

 心臓が鼓動を速める。小春はそれを紛らわすためにもう一度せかせかと歩を進めるしかできなかった。


家に着くとどっと疲労を感じた。どうしようもない悩みがあるといくら体の疲労が抜けようが精神が休まらない。

「おかえり小春」

「ただいまー...げっ」

 母がリビングで見ていたテレビには『ミュージカル特集』と映されていた。その文字とともに篠田蒼介の映像が流れていた。

「げってなによ。いつもこういう特集は見てたでしょ?それに見てよ!今篠田蒼介のインタビューよ!かっこいいわ...!」

「世の中顔じゃないと思うよ」

 どんなに顔が良くても性格が悪い人間がいるということを今日改めて小春は知ったのだ。

「どうしたのよ小春。いつもと違うわ、何かあったの?」

「なんでもない」

 真実を言えば、きっと母は落ち込んで明日のご飯を作ってくれなくなる。小春は自分の部屋へ戻った。


 翌日もまた小春の調子は戻らなかった。もちろん、体調の話ではなく芝居の話である。

「はあ....」

「小春ちゃん大丈夫...ではなさそうだね」

「あらあら」

 休憩中、小春が稽古場から離れることがなんとなくできずに壁にもたれていると、佐伯と八千代が声をかけてきた。

「何をやってもダメ...」

「これは完全にはまってますね。いけない沼に」

「底なしではないといいけれど...」

 佐伯の冷静な分析と八千代の純粋な優しさに色々な感情が小春の中で渦巻く。彼らの優しさは嬉しいけれど焦りが消えるわけではない。崖の淵ギリギリに立ちながら最愛の人に告白されている気分だ。

「小春ちゃん、とりあえずご飯食べない?スランプでもなんでも栄養は大切よ?」

「そうよ。午後だって小春さんはずっと出続けるんだから、ご飯食べないと倒れちゃうわ」

「でも... 」

 小春はのんびりご飯を食べる時間があるのなら芝居に打ち込みたかった。しかしそれを佐伯は遮った。

「でもじゃない。今日は私が奢ってあげるから、近くの喫茶店に食べに行きましょ!あ、八千代さんもどうですか?」

「本当?ぜひご一緒したいわ」

「よし、それじゃ行くよー!早く行かないと休憩終わっちゃうから」

 佐伯に腕をぐいと引かれ小春はなくなくその場を後にすることになった。


 佐伯が案内した喫茶店は稽古場から少し歩いた場所にひっそりと佇んでいた。その風貌は喫茶店というには少し洒落ている雰囲気だ。お洒落な美術家のアトリエといった感じで、どことなく入りにくさを持った。

 奥に案内された小春たちはソファ席と椅子のある席に座った。佐伯に言われソファ席に小春、椅子に佐伯と八千代が座った。

 佐伯がナポリタン、八千代がサンドイッチ、小春はオムライスを頼んだ。メニューは意外と昔ながらの喫茶店なのは意外だった。

 注文したメニューを待つ間、話題はもちろん小春の芝居についてになった。

「まあ、小春ちゃんはよくやってる方だと思うよ」

「ええ。立派だと思うわ」

「そんなことないです...」

 小春は不甲斐なさを感じた。先に運ばれてきた水滴のついたお冷やを口に含み、努めて冷静になろうとする。

「じゃあ、小春ちゃんはどうして調子が出ないと思う?」

 佐伯が丁寧に質問を作る。小春は少し考えてから答えた。

「...篠田さんの演技が素晴らしくて、それに引っ張られて自分の芝居ができていない、といった感じでしょうか。それに」

「それに?」

 佐伯が聞き漏らすことなく聞き返す。八千代は静かに聞くだけだった。

「それに、桜がなんていうか、私の生活の中心になっているといいますか...いつも桜のことを考えているというか...桜に呑まれている、みたいな」

 言い終わり顔を上げると、佐伯と八千代は首を縦に振っていた。

「あー、なるほど。そうかそうか」

「そういうことだったのね。なるほどね」

 わかったような顔をしている二人に小春は少しムッとした。自分の悩みはそれほどまでに典型的な悩みなのだろうか。こんなにも深刻な問題であるのに、そのように流されるのはいい気がしない。

「ってごめんごめん。流してるわけじゃないから、そんな顔しないで?大丈夫、それは解決策があるから」

「ええ。それにそっちが解決したら、篠田くんの問題だって解決するわ。いつも通りの小春さんなら、きっと篠田くんの演技にも引っ張られないようになるわ」

「ほんとですか!?教えてくださ...」

「お待たせしましたー。オムライスのお客様?」

 小春の言葉を遮ったのは店員だった。

「話の続きは食べながら、ね?」


「まず最初に、桜に呑まれてる小春ちゃん自体は、むしろ良い状態だと思うよ」

「ええ、私もそう思うわ。決して悪いことじゃない」

「でも...」

 小春はオムライスをちまちまと食べながら二人の話に相槌を打った。

「私、桜に呑まれたから守である篠田さんに引っ張られて自分の芝居が出せないと思うんですけど...」

「それもあるわね。蒼介の高い演技力があなたをそうしているっていうのもあるわ。でもどうかしら?篠田蒼介が守に見えて、その人を素敵だって思えるほどあなたは桜になってる。それって、そんなに悪いこと?」

 佐伯はナポリタンをくるくる巻くのをやめて小春の方をじっと見つめた。

「そんなに役にのめり込めるのは悪いことじゃない。だって、役者は役を生きるのが仕事なんだから」

 まっすぐな言葉がずっしりと小春の心に突き刺さる。

「ですよね、八千代さん」

「ええ。それに、今のあなたの状況は二幕の桜によく似ているわ」

「二幕の桜、ですか」

 八千代はこくりと頷き慎重に言葉を綴る。

「女優をやりすぎて自分を失った桜、桜にのめり込みすぎて自分の芝居を見失った小春さん。今のモヤモヤを芝居で昇華するっていうのも一つの策ね」

「芝居で昇華...」

「ええ。小春さんが一番好きなものは何?お芝居でしょう。そういう人は芝居で募った問題はやっぱり芝居でしか返せないのよ」

 静かに丁寧に紡がれた言葉でも、佐伯と同じ、あるいはそれ以上に小春の心に大きなものを遺した。きっとそれは彼女が橘八千代だからだ、その実体験による考察が言葉に信憑性を持たせているのだろう。

 芝居には芝居で返す。きっと今後小春を導いてくれる言葉になるような気がした。

「だから今はひたすら芝居にのめり込みなさい。桜に呑まれるなんてむしろ光栄なことよ。初めて貰った役に呑まれるなんて、少し羨ましいわ」

「ほんとほんと」

 佐伯が深く深く頷いた。

「小春ちゃんさ、うまくやろうなんて考えなくて良いんだよ。だって、これは君の初舞台なんだよ?楽しまなくちゃ」

「そうよ!初舞台は人生で一度しかないのよ?今後のこととかは後回しにして良いんだからね?目の前の舞台のことだけ、考えれば良いのよ」

 小春はその言葉にはっとした。そうか、自分は余計なことばかりを考えていたのだ。今まで経験したことがなかった感情や不安に襲われて、目の前の舞台のことよりも未来のことばかり考えていた。そして自分がぶれて底なしの沼にずっぽりとはまってしまっていた。

「そうですよね...私、いろいろ考えすぎていたみたいです」

 自分が立つ舞台は自分にとって初舞台。楽しまなくては、嘘になってしまう。

「でしょー?よし、これで解決!」

「頑張ってね、小春さん」

 偉大な先輩たちからの激励に胸が熱くなる。

「はい!頑張ります!」

「その調子で蒼介にもギャフンと言わせちゃいなさい!その内本性出すだろうし」

 そう言った佐伯はナポリタンの最後の一口を口に入れて完食を果たした。

「...というか、もう出されましたね。散々言われました」

「!?あ、ああそう...早かったわね...」

「そうねえ。いつもならもう少し経ってからなのに....小春さん、気に入られたのかもしれないわ」

 ふふふと笑う八千代と笑いをこらえる佐伯に小春は言い放つ。

「あんな気に入られかた嫌です」

「あらあら、小春さんったら」

「頑張れー小春ちゃん。なにせ二人は恋人役なんだから」

 仲良くしなよ?と言った佐伯の顔にはもう笑いだけがあった。

 どうしよう、篠田蒼介の問題は解決できないかもしれない。

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