第13話

 第二幕の稽古が始まる日、小春は午後から稽古に出る予定になっていた。大事な舞台の稽古に出られないのは苦しくはあるのだが、どうしても休まなければならなかった。なにせ、小春は大学四年である。卒業論文を仕上げなければならない日頃だった。

「そういえば杉野さん、オーディション受かったんだってね?おめでとう」

 研究室を出る際、担当の先生からかけられたのはそんな言葉だった。

「ありがとうございます」

「杉野さんの熱意も実力も知ってたから、こうして報われる日が来て良かったよ。めでたく結果が出たから夢を追い続けるのか...頑張ってね」

 小春は一度開きかけた扉をもう一度閉じて研究室に留まる。どうやら先生はまだ喋りたいようだ。

「はい。でも...少し不安です」

 研究室には二人しかいない。閉じられた空間だからこそ、小春はついそんなことを漏らした。

「卒業までに結果が出て役者をこれから続けられるのは嬉しいけど、いつまで続くかわからないじゃないですか。もしかしたら、最初の舞台が最後になるかもしれない...そう考えたら、今度の舞台は一生の記念としておいたほうがいいんじゃないかって、ちょっとだけ思います」

 現代では役者はあくまでも仕事に過ぎない。もちろん役者を続けたい、その気持ちに嘘はないのだ。けれど、この先ずっと舞台に立ち続けることができるかどうかは小春の意志では如何しようも無い。判断する人間は別にいるのだ。

 小春は無意識のうちに俯いていた顔を慌ててあげる。

「なんて、ダメですよね!まだまだ始まったばっかりなのに、弱気でいたら。フレッシュじゃない新人なんてらしくないですもん。すみません先生、変なこと言っちゃって。それじゃあ稽古があるので、私はこれで」

 小春は今度こそ扉を強く押して研究室を出ようとした。

「杉野さん」

 先生に呼ばれ、小春は直前で踏みとどまった。

「今は楽しい?」

 簡潔に聞いた彼女に小春は顔を向けて答える。

「人生の中で一番、今が楽しいです」

 小さく礼をして小春は部屋を出る。大学を出ると、雲間から太陽が顔を出し煌々と世界を照らしていた。


 篠田蒼介がなりたかったのは、紛れもなく役者だった。なりたかったのは、役者だけだった。


 杉野小春が合流し、午後からは二幕の稽古が始まった。午前中、杉野がいなかったために稽古ができたのは八千代の部分だけだった。この舞台における杉野の立ち位置というものが重要なのだということがよくわかる。けれど、彼女は卒業論文のために休んだのだ。むしろ、ほとんど休むことなく稽古に励んでいる姿は少々卒業が心配になるくらいである。彼女を責めるような人は誰一人いなかった。

 それはもちろん、篠田蒼介も同様である。

「こんにちは!遅れてすみません」

 杉野は少し息を切らしながら稽古場に登場した。遅れたとはいえ事前に聞かされていた午後からの参加には十分に間に合う時間だ。まだ昼休憩は終わっていない。

「遅れてなんかないわよ。今日は大学だったんでしょう?大丈夫、誰も責めたりなんかしないわ」

 八千代が駆け寄り優しく杉野に告げた。それを受けて杉野の顔は少し解れる。

「お、小春ちゃんお疲れー」

 コートに身を包んだ静香が杉野に近づく。

「いえ、静香さんこそお疲れ様です。これから別のお仕事ですか?」

「うん。本当は今日午前は休みの予定だったんだけど知世に呼ばれて、作曲の手伝いさせられてた。そんでこれから別の仕事」

「頑張ってください。私も頑張ります!」

「うんうん。じゃ、また明日ね」

 静香が稽古場を後にする。彼女はこれからテレビの音楽番組の打ち合わせが入っているらしい。最近の佐伯静香はこうした仕事で度々声がかかる。

 杉野は八千代との会話を終えると、稽古場を見渡して篠田を見つけ駆け寄った。

「篠田さん。午後はよろしくお願いします」

「よろしく。でも、そんなに気負わないで大丈夫だよ」

 律儀な彼女に篠田はにこやかな笑顔で返す。それを受けてもなお杉野の顔はやや硬直していた。

(期待の新人、って感じ)

 内側に眠る羨望を冷ややかな視線に乗せて彼女へ向けた。


 今の小春はとても調子がいい。舞台への集中力がかなり高まった状態で、かつ役者やスタッフの動きなどの色々なものがよく見える。加えて卒業論文の方も順調に進んでいる。本当に何もかもいい調子でことが進んでいる実感がある。

 だからこそ第二幕もうまくいくものだと思っていた。

『もう限界よ。舞台には立てないわ』

 苦悩する桜。芝居への熱意を失ってしまった桜の心情を身体に写す。小春自身はまだ芝居に対してここまでの気持ちを持ったことはない。オーディションに受からない日々は辛かったけれど、不思議と辞めたいと思ったことは一度もなかった。だからこの時の桜の心情はわからない。けれど、咀嚼し消化して自分の一部にすることは可能なはずだ。

『早く帰らないと...でも、道がわからないわ』

 小春の台詞が終わる。するとどこからともなく声が響く。

『「カオウ劇場」の桜?』

 桜は顔を仮設舞台の上部へ向ける。そこには篠田蒼介演じる守の姿がある。それを桜は不安げに見上げる。

 はずだった。

 下から見上げると、篠田蒼介の顔立ちの良さを再認識した。光に透けた長い睫毛や茶色の瞳、色だってあんなにも白かった。そんな彼が隠しきれない興奮を疑念の顔に忍ばせながらこちらを見下ろしていた。きっと守自体はこれほどまでに整った顔をしていたわけではないだろう。想像の世界ではもう少し純朴そうな青年で、内側から彼女を引っ張るような人間だったと小春は考えていた。けれど、イメージと現実の役者の間にギャップはあるはずなのに、小春の目に篠田は守にしか見えなかった。

 桜はきっと突然叫ばれた自分の名前に怯えたことだろう。そしてその声が聞こえた方向を向くのはきっととても勇気のいることだったはず。けれど、今の小春にはその中のどれも当てはまらなかった。

 小春の心にあったのは数段階先の桜の心情だった。

 この気持ちは恋だ。理由も根拠もないけれど、きっと桜はこの時にすでにわかっていたのではないだろうか。これが運命の出会いだったことに、彼女はきっとどこかでわかっていたはずだ。

『やっぱりそうだ、本物!』

 篠田が台詞を続けた。小春は一気に我に帰る。

 次の台詞、確か自分だった。しかし小春の頭の中は真っ白になっていた。

「あ...っと...」

 思えば台詞がとんだのは今回が初めてだった。

 稽古が中断する。黒木が頬を掻いた。篠田が笑みにならない笑みを浮かべた。小春は立ち尽くした。

「ごめんなさい、でももう大丈夫です」

 一瞬とんだ台詞は簡単に戻ってきた。簡単に思い出せるくせにどうしてとんだりするのか不思議だ。小春は自分の脳みそをひどく憎んだ。

 稽古が再開する。場面は続きからだった。

『人違いです。それじゃあ私はこれで...』

『いいや間違いないよ。桜さんでしょ。あんたみたいなすごい女優さんが、どうしてこんな寂れた路地にいんの?』

 再び篠田の声が小春の耳に入ってくる。小春はまた台詞がとびそうになった。篠田の台詞が始まるたびに、地盤が揺らいだような衝撃に襲われる。足元が揺らぐせいで立っていられなくなるのが怖くて心臓がばくばくと鳴った。

『それは...ちょっと道に迷ってしまって』

 やっとの想いで台詞を吐き出す。けれどそれもすぐに篠田の台詞に絡め取られてしまう。

『おお、やっぱり本物だ』

 ここは会話の場面だ。テンポが重要になる。けれど、小春にはそれがすっかりできなくなっていた。

『あ、あなた、さっき間違いないって...!』

 変に声が上ずる、変なところでアクセントがつく、声量が安定しない。この経験は初めてだ。けれど、すぐにわかった。

 篠田に呑まれている。

 そして桜にもだ。

 なんとか台詞をとばす事なく第二幕の前半を終えた。正直、終わった瞬間から黒木の評価を聞くのが怖くてしょうがなかった。それが顔に出ていたのか、黒木から言われたのはたった一言、

「まあ...自分でわかってるだろうから...うん」

 変に優しくされたのが小春の心に大きな傷を残した。

 肩を落としながらとぼとぼと舞台を離れる小春に八千代が心配そうに声をかけた。

「小春さん大丈夫...そうじゃないわね。元気出して、大丈夫よ、あれぐらい誰にでもあるわ」

「...ありがとうございます。でもそうじゃないっていうか...」

 台詞がとんだこともテンポが悪くなったのも全ては篠田が原因だ。しかしそれは篠田の外見ではない。思わずそんな風に錯覚してしまうが、あれは篠田の高い演技力がそうさせていることに小春は気づいていた。突然現れた青年との運命の出会いをその確かに高度な演技力で完璧に演じたことで小春を恋に落とさせた。あの整った顔面はそのおまけにすぎないと言ってもいい。

 小春は自分の手を目の前に広げる。そこにあるのは自分の手だ。指があまり長くないのがコンプレックスだった手。それがなぜかとても他人のもののように見えた。

 小春の芝居がぶれたことにはもう一つ理由があった。小春は桜に呑み込まれている自覚がようやく出てきた。台本をもらった瞬間から小春はずっと桜のことを考えていた。稽古中はもちろん、家に帰ってからも卒業論文のための調べ物をしている時でさえ頭の片隅には桜がいた。さながら彼女に恋をしているようじゃないか。けれど、そんな淡いものなんかではない。これはもっと危機迫る問題である。

 調子はすこぶる良かった。役の解釈も完璧にこなせていた。なんて演劇とは残酷なものなんだろうか。たった一人の役者、たっと一つの芝居でこんなにも全てが崩壊していく。

 もし、こんな状況が続いてしまうのなら。今後、この舞台以降も舞台に立ち続ける時、素晴らしい役者に出会った時にこうなってしまうなら、自分に未来はないのではないだろうか。冗談抜きで、これが最初で最後の舞台になってしまうかもしれない。

「惜しかったねぇ杉野さん」

 稽古場の壁にもたれながらしゃがみこんでいた小春にそんな言葉をかけたのは篠田蒼介だった。その顔にはいつも通りの笑顔が湛えられているが、どこかとても冷たい。

「...え?」

「うん。惜しかったよね。途中まではほどほど良かったけど、途中からドミノみたいに倒れちゃって...」

 笑顔と軽快な口調で語ってはいるが、その言葉の節々にはどこか引っかかる部分がある。小春は視覚と聴覚から入ってくる情報のギャップに耐えきれずとうとう言葉が出なかった。

「俺の芝居に呑まれちゃった?」

 篠田の顔には変わらず笑顔がある。けれどそれは表面だけだ。とても気持ちのいいものではない。小春は目の奥が笑っていないという言葉の本当の意味を二十二年の人生でようやく理解した。

「この前の静香は余裕がなかったから君でもどうにかなったけど、大抵はああいう役者が君みたいな経験のない子と同じ位置に立たせられるはずがない。だって、力の差は歴然なんだからね。君より静香の方がずっと芝居が上手い」

 すると篠田は急にしゃがみ目線を小春に合わせて、囁くように言った。

「よくここまで順調に稽古してきたね。でも、ここからが本番だよ。八千代さんや静香、それに黒木さんも君に優しくしてくれるかもしれないけど、俺はそうじゃない。一切妥協はしないし、主役だって食ってやる。優しくなんてしてやるつもりもない」

 小春は篠田の整った顔を見ながら絶句していた。こんなにも王子のような見た目をしているのに、その中身は物語中盤で主人公を恐怖と絶望のどん底に突き落とす悪役そのものじゃないか。

「どう?俺、なかなか性格悪いでしょ?」

 じゃあねと言い放った篠田は颯爽と小春の目の前を去っていった。

 小春は一人呆然とその場にしゃがみこんでいた。しばらくしてようやく心の中に感情が点り始めた。

(あいつ...絶対見返してやる!!!)

 それは業火のように燃える怒りの感情だった。

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