第12話
小春は不思議な感覚を覚えた。桜を自分に写しているのに、意識はしっかりと自分の中にある。そして目の前にいるのは国塚はるひでありながらも紛れもなく佐伯静香だった。だが佐伯は国塚を真に演じている。
これまで小春は役を生きることだけを徹底してきた。けれど今は自分の中に桜と小春の二人が立っているように感じる。舞台に立っているのは国塚と桜の二人なのに、その隣で佐伯と国塚も一緒にいる感覚だ。
これほどまでに芝居に飲み込まれたことは今までになかった。だからこそ小さな拍手が聞こえるまで小春と佐伯は舞台の上に立ち続けていた。
パチパチという音が二人を現実に引き戻す。音の方を辿ると笑顔の八千代が拍手をしていた。
「二人とも良かったわ!」
小春は佐伯と顔を見合わせた。お互い未だに現実感をつかめていない様子でぽかんとした顔をしていた。
「タケちゃんも良かったわよね?今の!」
八千代に問いかけに黒木は表情を変えず、小さく手を挙げた。これは問題ないという彼独特の合図だった。
「...小春ちゃん!」
「はい!」
「「やったー!」」
二人は抱き合ってそれぞれの芝居を称えあった。良い芝居をできたことが嬉しくて、そして何よりも二人での芝居が楽しかった。芝居ができる毎日というだけで飛び跳ねるほど嬉しかったけれど、今回のはそれ以上のものだった。じんわりと心の内側から実感するような感情は初めてだ。
「盛り上がってるところ悪いけど、杉野さんこのまま第一幕の最後までやっときたいから準備お願いします」
変わらない黒木の声色に小春は佐伯から慌てて離れ返事をする。
「はい!よろしくお願いします!」
佐伯は舞台から離れた。国塚はるひの出番は一応これで終了になる。
「静香お疲れ。さっきのよかったよ」
出番を待つ篠田が名演を労った。佐伯は隣に腰掛けながらこうして彼に褒められるのは随分久しぶりだと思い出していた。
「休憩中に何話したの?」
「何って...教えない。乙女の秘密よ」
「余計聴きたくなるなー」
視線は舞台を作っている小春の方に向けながら語る。先ほどまで自分はあそこにいたのにそんな気がしないのが不思議だ。さっきまで自分は本物の舞台に立っていたような感覚がする。
舞台の方を見ているとあることに気がついた。
「あれ、知世はどこ行ったの?」
今日は稽古場に来る日のはずだ。昨日も確かそう言っていたのを聞いた。
「ああ、知世ならさっきキーボード抱えてどっか行ったよ。さっきまで居たんだけど、二人の出番が終わったあと血相変えてどこかへ」
「ああ、てことは...」
「うん。多分、最初に出来上がる曲は二人のだろうね」
墨田知世の作曲スタイルはまさに自由そのものだ。作る時間も場所も方法も全く制限がない。それが彼女の持ち味で評価されるところであるのだが、制作側からすれば彼女を使うのは少々憚られることもまちまちである。
「よかったよ、さっきの」
篠田がしみじみつぶやく。
「二回め。そんなに褒めたら逆に嘘くさいよ」
佐伯は同期から褒められるのに慣れていない。照れ臭くてしょうがなく、制止しようとした。しかし篠田は称賛を止めようとはしなかった。
「本当によかったよ。ここ最近の中で...いや今までの佐伯静香の中でもかなりよかった。俺たちが見たかった佐伯静香って感じがした」
篠田の目は舞台の方に向けられている。しかしその目線には奥から滲んだものが見えた。
「ありがと。でも、あれは小春ちゃんだから良かったのかも」
「どうして?」
「だって、小春ちゃんと桜の境遇が似てるから重なって見えたんだと思う。そこに嘘がなかったから、私も国塚はるひも彼女に手を差し伸べられたんじゃないかな」
彼女と桜の姿が重なって見えた。それはただ役を模倣したからではなく、それぞれがその人生を生きたからである。だからこそ佐伯も国塚の人生を生きることができたのだ。
「そう...そりゃあすごいね」
篠田が軽く流してみせた。佐伯はその様子に無性に腹が立った。
「ちょっとあんた、そんなんでいいわけ?余裕ぶっこいてると、小春ちゃんに呑まれるわよ?」
佐伯がいたずらっぽく言ってみると、篠田は一瞬不思議そうな顔をした後、吹き出して笑い始めた。
「ちょ、何よ急に!そんなに変なこと言ってないでしょ!?」
佐伯は舞台の邪魔にならないようになるべく小声で言い返した。それすらも篠田は笑いに変えてしまった。
ひとしきり笑った後、篠田は視線をもう一度舞台の方へ向けて言った。
「そうだね。確かに杉野さんは第一幕の桜を立派に演じてみせてるよ。でも、二幕でも同じことが起こるっていうのは、早計すぎるんじゃないかな」
篠田の物腰は非常に柔らかかったが、その言葉の奥に非常に冷たいものを佐伯は感じた。
確かに二幕の桜は成長し地位と名誉を獲得した女優になり、現在の小春とは別人に近い存在になる。けれど、あれほどまでの情熱を持つ彼女だ。そこの違いを演じられないほど素人ではない。
「一幕終了したので、午後からは二幕に入ります」
時刻は正午。一時間後、彼女はどんな世界を見せるのだろうか。きっと素敵のものに仕上げているはずだろう、彼女の実力ならそれくらいはやり遂げるはずだ。そう信じているはずなのに、佐伯の胸には期待とごく僅かの不安が流れた。
休憩に入ると八千代は黒木の元へ向かった。
「休まなくていいのかい?」
「大丈夫。それより、さっきの二人のお芝居素敵だったわね!本当に舞台の上にいるみたいだったわ」
八千代は黒木の隣に置いてあった椅子に腰掛けて言った。黒木は台本に目を通しながらそれに答える。
「その前が酷かっただけだよ。あの二人ならあのぐらいできて当然なんだ」
棘のある言い方だけれど、その言葉には彼らへの信頼が滲んでいた。黒木の指導は基本的に役者任せだ。それは役者の意志を尊重しているからである。そして何よりもその役者たちのことを信じているからである。
今回もあの二人のことを信じていたからこそ、余裕のなさに気づいた。
「二人ともせっかくの芝居が余裕が無いせいで台無しになってた。杉野さんはともかく、佐伯まであのザマじゃあな。中断するしかない」
「あら、経歴なんて関係ないわ。誰だってそういう時はあるものよ」
八千代が反論すると黒木は肩をすくめた。どうやら納得はできていない様子だ。
「二幕はどうなるかしらね」
「さあ。本人たち次第だな」
黒木は座りながら大きく伸びをする。役者たちだけではなく、彼もまた連日の稽古で疲れが溜まってきたところだろうか。
「でもまあ、一つだけ言えるとしたら」
伸びをしたあとの雑に椅子に腰掛けた状態のまま黒木がどこへともなく呟く。
「篠田は杉野さんにとって壁になるだろうな」
そう言った黒木は部屋を出ていってしまった。
八千代は黒木の発言に驚きはしなかった。八千代自身もそう感じていたからだ。八千代も何度か篠田と共演し、彼の人となり、そして表現を知っているからである。
きっと小春は今回以上に悩むことだろう。それに次は佐伯のように彼女に寄り添ってくれる人もいない。彼女の人としての強さが問われることになるはずだ。
(応援してるわ、小春さん)
こういう時、いつだって八千代には祈ることしかできない。なぜなら当時の桜を背負っているのは小春だけだからだ。進化し、真価を見せつけなければならない。
心の中でできるだけ小春にエールを送ったあと、八千代は休憩に入ろうとして椅子から立ち上がった。いつも通り立ったにも関わらず、急に視界がぼやけて揺れた。
(...立ちくらみ?)
幸いそれはすぐに治まった。しかし、立ちくらみなんてここ最近は経験していなかった。最後に症状が出たのはかなり若いときだったはずだ。
(...疲れが溜まってたのね。今日は早めに休みましょう)
八千代は足早にその場を去った。
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