第11話
翌日の稽古は桜と国塚が語り合う場面から始まった。ここで桜は初めて舞台に立つ重要なシーンである。
『ステージが少し汚れてきてるのよ。ここだけはあなたが掃除しないものだから』
『...すみません』
『あなた、劇場中を掃除してるじゃない?」
『はい』
『言われてないところまで必要以上に綺麗にするのに、ここだけは触ろうともしなかったのは、どうして?』
『舞台は、役者が立つところですから』
『清掃員が立たなきゃ、舞台はずっと汚いままよ?それでもいいの?』
『オーディション、あなた応募してたでしょう』
あのオーディション、私が審査したのよ。気づかないとでも思った?』
『...はい、受けて、落ちました』
『ええ。知ってるわ。でもね、それはあなただけじゃないのよ。というより、全員がそうなの』
『全員?』
『あのオーディションに受かったのは誰もいないのよ。あのオーディションは才能を見つけるためのものだったの。でも、今回その才能が見つからなかった。だから合格者はゼロ...でも、やっぱりこの舞台には必要なのよね』
佐伯が小春に顔を向ける。
『新しい風よ。それは才能なんかじゃなくて、役者や芝居への情熱に溢れた人じゃなきゃいけない。私だってそうだったんだから。どんなに芝居が上手くて、歌が上手くても舞台になんのプレッシャーも持たずに登るような人間、信用できないものね?桜さん』
『はい』
『もう一度、舞台に立ってみたくはないかしら?』
『私...私!この街の生まれで現在中学生兼劇場の清掃員をやっています!だけど...女優を目指しています!精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします!』
黒木が静かに手を挙げ無言のカットがかかった。
稽古が中断されたと思いきや、しかしそれはすぐに再開された。
「じゃあ今のシーンの続きから」
不思議に思いつつも佐伯と小春は仮舞台に立つ。小春は桜をその身に写し、佐伯は国塚になった。舞台は問題なく進む。それはお互いがそれぞれの動きを全うしているからだ。小春は桜の一挙手一投足を完璧にその身に写し、佐伯は国塚を内側から表現する。それぞれの役は完璧に成立していた。
はずだった。
「だめだな。二人ともだめ」
シーンが終わり、黒木から告げられたのは誤魔化しようのないダメ出しだった。
「具体的にはどこがですか」
佐伯が聞いた。小春はその横で答えを待つことしかできない。
「一つ挙げるとすれば、余裕がない」
淡々と答える黒木に背筋が冷える。これまで黒木は明確な駄目出しをしてこなかった。けれど、今回小春と佐伯に向けられたものは最低限で最上級の駄目出しだ。相当なミスである。
「二人とも...とくに杉野さんは連日の稽古で疲れが回ってるんだろう。そうだな、先に老年桜の稽古をしておくから、二人は先に休憩に入りな」
「でも...」
佐伯の言葉を遮り黒木が稽古を進める。
「それじゃ、八千代ちゃんお願いできるか?」
「ええ」
あっという間に八千代の稽古が始まり、小春と佐伯は稽古場を精神的に追い出された。
その場にいることもできず、小春と佐伯は言葉もなく稽古場を出た。しかしどこにもいくあてなんかなく、すぐに立ち止まってしまった。
数秒の間立ち尽くしたあと、小春は肩を落とした佐伯に提案をした。
「あの、屋上行きませんか?」
屋上は本日も例のごとく青空を切り裂いたように存在し、街を見下ろせる形をしていた。
「八千代さんが言ってたのってここだったんだ。私、なんだかんだで来るの初めて」
青空を眩しそうに目を細めて見ながら佐伯が言った。少しだけその顔に笑顔が見えて小春は安心した。
「この前八千代さんに連れてきてもらったんです。それ以降気に入っちゃって」
「八千代さん直々に!?いいなー、羨ましいよ」
ちょうど屋上の真ん中まで歩いたところで二人は立ち止まった。 顔を見合わせても何も言葉が出ず、しゃがみこむようにその場に座った。
「今頃八千代さんが完璧に演ってんのかな」
佐伯がやや低い声で呟いた。
「図星でした」
小春は呼応するようにつぶやく。佐伯が小春に顔を向ける。
「余裕がないって。初めての舞台でやることなすこと全部初めてで、正直余裕なんて持てませんでした」
「そりゃそうだよ。しかもこんな大きな舞台で、それも主役。杉野さんは上手くやれてた方だと私は思うよ。だめだったのは、私の方」
佐伯はその場にごろりと寝そべった。なんとなく小春も同じ目線になる。
目の前には青だけが広がっていた。今日は雲ひとつない晴天で陽の光を遮るものは何もなかった。
「国塚はるひって、凄いと思わない?」
突然佐伯が言った。小春からすれば国塚もそうだが、それを再現する佐伯もすごいと思う。
「若いときから最前線で活躍し続けて、若いのに国民的女優なんて言われてさ。正直、私がやれる人じゃないのよ」
佐伯が目を閉じる。その横顔が少し辛そうに見えたのは小春の気のせいだったのだろうか。
「私さ、二十代のときは結構端役が多かったのよ。むしろほぼ端役だった。だから、国塚はるひみたいな役者には憧れたし、嫉妬もした。嫉妬してる暇があるなら自分を磨けって、今なら言えるけど当時はね...必死だったから」
佐伯静香が評価されるようになったのはここ数年のことだ。今でこそ主演を張るような素晴らしい役者だが、彼女にも灰色の時代があったのである。
「だからさ、今回の話を聞いたとき、私できるかな?って思ったのよ。もちろん、仕事だしそれ以上にやってみたいって気持ちはあったんだけどね。でも、国塚はるひになるのは怖かった。だって、若いときから称賛され続けた経験がない人が演ったら説得力が出ないんじゃないかって、国塚はるひを殺してしまうんじゃないかって思ったのよ」
小春は驚いた。佐伯ほどの役者でも役に対する引け目を感じることがあるとは思いもしなかった。
役者は役の人生を背負う。人生を背負い、そして寄り添っていなければならない。だからこそ、佐伯は国塚はるひという人生のプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのだ。
「杉野さんはどうだった?私の国塚はるひ」
「かっこよかったです。本当に存在してるみたいで」
佐伯は苦笑を浮かべた。
「じゃあ質問を変える。国塚はるひは、杉野さんに話しかけてた?」
「...どういう意味ですか?」
「杉野さんは国塚はるひから何か感じられた?あ、この人今悲しいなーとか嬉しいんだなとか」
小春は首をかしげる。
「役の解釈としては理解できたと思いますけど」
「だとしたら失敗だな。私の国塚はるひは、杉野さんに話しかけてなかったのよ」
小春は一層理解に苦しむ。その様子を見て佐伯はくすりと笑った。
「確かに役者は役の人生を生きてる。でも、ただ役の人生を演技するだけなら役者って何人もいらないと思わない?やっぱり私たちは役そのものにはなりきれない部分があるのよ。それが良いか悪いかは置いといてね?役の中に自分だけの色を出すっていうのも芝居だと思うのよ。遊びっていうのかもしれないわね。多分、私が演ってた国塚はるひにはそこが足りなかったのよ」
佐伯が大きなため息をつき、息を胸いっぱいに吸い込む。
「黒木さんが余裕がないって言ったのは、そういうことだと思う。私も杉野さんも。舞台っていうのはどうしてもナマモノだから、そういう役者間での気持ちの掛け合いとか関係性とかがダイレクトに観客に伝わる。私たちの国塚はるひと桜は、個人としては存在してたけどそこにはなんの関係性もなかった」
小春は胸に重いものを感じた。自分の芝居に集中するあまり、周りの状況が見えていなかった。これはどこで誰に見せるための芝居なのかを一切無視してしまっていたのだ。国塚はるひのことは見えていたのに、その奥にいる佐伯静香のことは眼中のどこにも入っていなかった。
「私、次は佐伯さんのことちゃんと見ます。そしたら、国塚さんの声も聞こえると思います」
「そうね。私も杉野さんに話しかるわ。じゃなきゃ桜と一緒に舞台に立てないもの」
言い終えると佐伯ががばっと起き上がった。そのまま大きく伸びをして彼女は、太陽の光を浴びて輝いていた。
「そろそろ八千代さんの出番終わったところじゃないかな?戻ろうか」
「はい!」
佐伯と小春は立ち上がり屋上を後にしようとした。しかし扉の前で佐伯がふと小春の方を振り返る。小春は何かと思いその顔をじっと見つめた。
「あのさ、私も小春ちゃんって呼んでもいい?実は昨日知世が呼んでるの見てちょっと羨ましいなって思ってたの」
そう言った佐伯の顔には真っ直ぐな笑みが浮かんでいた。その顔を見た小春も笑顔になって答えた。
「ぜひ!私も静香さんって呼んでもいいですか?」
「ええ、もちろん!」
すっとした風が吹き込む。その風の冷たさに二人は急いで階段を駆け下りた。
「あら、おかえり二人とも」
小春たちが稽古場に戻ると佐伯の読み通り八千代の場面が終わったところだった。
「ただいまです」
「おさわがせしました」
軽く謝罪の挨拶をしながら黒木の元へ向かう。
「黒木さん」
佐伯に呼びかけられた黒木はゆっくりと振り返る。
「もう一回、さっきの場面やらせてもらえませんか」
佐伯の強い目に小春も続く。
「やらせてください。お願いします」
頭を下げたことで黒木の顔が見えなくなる。彼は一体いまどんな顔をしているだろうか。普段からあまり表情は見えないが、物理的に見えなくなると不安が募る。
「ん。じゃあすぐに始めよう」
あっさりとした返事は佐伯と小春の顔を見合わせた。
『ステージが少し汚れてきてるのよ。ここだけはあなたが掃除しないものだから』
『...すみません』
『あなた、劇場中を掃除してるじゃない?」
『はい』
『言われてないところまで必要以上に綺麗にするのに、ここだけは触ろうともしなかったのは、どうして?』
小春が演じる桜は完璧だ。桜として完璧にそこに存在している。とても新人とは思えないほどの演技力だと思う。ここまでたどり着くのはどれほどの努力を重ねたのだろう。それがこの舞台でようやく花開くのだ。
『舞台は、役者が立つところですから』
『清掃員が立たなきゃ、舞台はずっと汚いままよ?それでもいいの?』
桜は黙る。それを見た国塚は話題を変える。
『オーディション、あなた応募してたでしょう。あのオーディション、私が審査したのよ。気づかないとでも思った?』
『...はい、受けて、落ちました』
『ええ。知ってるわ。でもね、それはあなただけじゃないのよ。というより、全員がそうなの』
『全員?』
『あのオーディションに受かったのは誰もいないのよ。あのオーディションは才能を見つけるためのものだったの。でも、今回その才能が見つからなかった。だから合格者はゼロ』
『でも、やっぱりこの舞台には必要なのよね。新しい風が。それは才能なんかじゃなくて、役者や芝居への情熱に溢れた人じゃなきゃいけない。私だってそうだったんだから。どんなに芝居が上手くて、歌が上手くても舞台になんのプレッシャーも持たずに登るような人間、信用できないものね?』
佐伯が演じる国塚は理想だ。誰もが想像する国民的女優のその姿。正直とても憧れる。けれど、その重圧はきっととてつもないものだ。そのプレッシャーを彼女はその体で支えている。そして、佐伯自身もそれを背負っている。国塚を背負うことで彼女自身のプレッシャーも増していく。彼女が国塚はるひでよかった。桜にとっての国塚のように、小春にとっても佐伯が導いてくれる存在だ。
『桜さん』
『はい』
『もう一度、舞台に立ってみたくはないかしら?』
『私...私!この街の生まれで現在中学生兼劇場の清掃員をやっています!だけど...女優を目指しています!精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします!』
これまでずっと女優になりたくて、でもなれなかった。けれど今回やっとその手前まできたしがない大学生だ。けれど芝居と歌への情熱は誰よりもある。誰にも負けない自信がある。経験なんて微塵もないけれど、それでもこの舞台に立ちたい。桜は私で、私は桜。そして目の前には佐伯と国塚はるひがいる。舞台の上で一番光を放つ存在がいてくれる。だから、見失わないでここまでこられた。
私は舞台に立ちたい。そこには、この人もいてほしい。
『初舞台の時、私、直前まで足が震えてた』
同業者に弱音を吐くのは久々だった。それも年下にだ、来るはずもないと思っていた。
『何をしても全然緊張がほぐれなくて、こんな状態で舞台に立てるはずないって思ってたの。お客さんの前に出たら、きっと私セリフを言えない、声も出ない、歌なんて絶対に歌えないって本気で思ったわ』
嘘。自分の初舞台は台詞もないような日の当たらない役だった。舞台上で発した言葉なんて誰にも届きはしないほど。声が出なくてもなんら問題はなかった。ずるいな、国塚はるひ。私が持ってないものを持っていて。誰よりも光る美貌も輝かしい経歴も私にはない。不安がってる後輩を導くことだってできはしない。
『でも時間は進むものだから、出番が来ちゃったのよ。袖に来た時ももう無理って思ってたんだけど、舞台上の光を浴びた瞬間に全身の震えが全部止まったの』
『どうしてですか?』
『だって私、お芝居が好きなんだもの。世界で一番好き。お芝居をやってる時は何にも怖くないの。あなたもそうじゃない?』
でもこれだけは言える。私も、芝居は大好き。じゃなきゃここまで続けられるわけない。何よりも好きだ、この世界にあるどんなものよりも芝居が好き。それは、きっとあなたも。
『一番好きなことをやってる時が一番自由よ。それは誰であっても変わらないわ』
『私もですか?』
『もちろんよ。だから、きっと明日の舞台は素敵なものになるわ。だって、私とあなたが出る舞台ですもの。芝居を愛してる私たちが出る舞台が、失敗するわけないわ』
よくここまで続けてきてくれた。あなたがいるから、私も舞台に立ちたい。才能とか見た目の秀麗さではなく、芝居が好きなあなたと芝居がしたい。
あなたは目標。暗く狭い闇の中をまっすぐ進んでいくために必要な光。あなたがいてくれさえすれば、きっとそこに辿り着いてみせるから。
『明日の舞台、楽しみです』
あなたが舞台に立つところが見たい。
あなたと舞台に立てることを誇りに思う。
小さな拍手が稽古場に鳴った。
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