第10話

『き、きみ!ダメだろここまで入ってきちゃ!』

『お掃除にきました!』

『ここまでやれとは言ってない!』

「杉野さん、順調そうですね」

 篠田が隣にいる八千代にだけ聞こえる声で呟いた。

「ええ。とってもいいわ」

 先日小春と話してから彼女の調子はとてもいい。それは彼女が無意識のうちに抱えていた緊張や恐れ、先輩たちへの不必要な意識が消えたからだろう。より純化された芝居への意識が如実に表れている。

「多分、この頃の桜と似ている部分を感じるんでしょうね」

「彼女も確かオーディション落選続きでって聞きました。誤解を招くような言い方になるかもしれないですけど、よくそんな人を選びましたね」

 八千代は篠田を横目で見る。篠田はそれを防御するように両手を胸の前に掲げた。

「怒らないでくださいよ八千代さん。悪意はないんです」

「そういうところは何年経っても変わらないわね。そうねぇ、一言で言うなら彼女は桜の人生を生きる覚悟と見込みがあったからかしら」

「覚悟と見込み?」

 篠田が不思議そうに聞き返す。それに八千代はこくりと頷いた。

「他の候補者になかったのはそこね。小春さんにはあったけど、彼女たちにはそれがなかった」

「存在感...みたいなものですか?」

「違うわ。そんなものより、もっとずっと純粋なものよ」

 篠田は首を傾げたかが、数秒後にはその整った顔に笑みを浮かべた。

「楽しみです。彼女と演じるのが」

「私も楽しみだわ。多分、二幕は一幕みたいにはいかないでしょうから」

 立ち稽古に励む小春の姿は鈍く輝いている。きっと本物の舞台に立てばそれは最高の輝きになるだろう。彼女が無事に舞台に立つことで彼女の桜は完成するのだ。


『国塚さん!私あなたの大ファンなんです!ってちょっと、おじさん何するんですか!やめてください!』

『いいから早く出て行ってくれ!ああごめんなさい国塚さん、ちょっと変な人が入り込んでしまって...』

 桜と支配人が織りなす軽快なやり取りにメスを入れるように声のトーンも言葉のペースも落として切り込む。

『別にいいじゃない。掃除に来たんでしょう、その子。神聖な劇場を汚したままにしておくのはできないわ。お嬢さん、しっかり掃除してちょうだいね?』

 佐伯が演じる国塚はるひはまさに本物だった。仕草も表情、息遣いまでもがオリジナルが無いにも関わらず再現されていると感じるほどだった。本物の国塚はるひはここにいた。それほどまでに佐伯の芝居は完成されていた。

 小春は自分の目線が桜と同じになっていることを感じた。今、彼女を見つめる視線は完全に桜とシンクロしている。桜が国塚に、小春が佐伯に向ける視線の心情は完全に一致した。

「んじゃ今日はここまで。明日はここの続きからやるのでよろしくお願いします。お疲れ様」

 黒木が端的にまとめて締める。本日の稽古は終了した。

 帰り支度をしていた小春を呼び止めたのは佐伯だった。

「杉野さん、今から空いてる?」

「はい、空いてますけど」

「じゃあこれからみんなでご飯行かない?私と篠田くんと知世で」

 小春は一瞬固まった。大物たちと食事ができるという事実と誘ってくれた興奮で動けなかった。

「い、行きます!行かせてください!」

「うんうん。じゃあ、出口のとこで待っててくれる?ちょっと用があるから」

 何時間でも待つ覚悟で頷き、佐伯とは一旦そこで別れた。

 外に出るとすでにあたりは暗くなり、11月の寒さが小春の肌を突き刺した。夜はもうすっかり寒く、冬はもう目の前まで迫っている。季節が進むにつれて舞台の本番が迫ってくる。楽しみでありながらも焦りはいつまで経っても消えはしなかった。

 憧れた舞台が近づいている。いくらカーブを曲がっても見えなかったゴールが薄靄の中であっても確実に見え始めたのだ。心が逸る。踊る。その興奮を必死に抑えて、落ち着かせる。今はまだその時では無い。夢を目一杯楽しむために、今はひたすら走るだけだ。


 佐伯が来たのはそれから10分後のことだった。

「ごめんごめん、待たせたね。んじゃ行こうか」

 帽子とマスクを身につけている姿を見ると、やはり芸能人なんだなと実感する。最近はあまりにも身近に存在しているからその感覚を小春は忘れてしまっていた。

「知世は他の現場にいたから、後から合流するって」

 稽古場の近くの店に向かって歩いている途中、佐伯が言った。知世とは今回のミュージカルの楽曲を担当する墨田知世のことである。しかしその実態は一曲も出来上がっていないと聞き驚いたものである。小春は恐る恐る気になっていたことを聞いた。

「あの...佐伯さんって墨田さんと仲良いんですか?えっと、顔合わせの時とか、休憩中とかもよく話してるのを見かけたもので」

 小春の質問に佐伯はうーんと唸ってからなんとか答えをひねり出した。

「仲が良いっていうか、付き合いが長いのよね。まあ腐れ縁ってやつ」

「はあ」

「黒木さんが良く現場に連れてきてたのよ。それで年も近かったから話すようになって...もうかれこれ十年以上の付き合いになるなー」

 感慨深そうに言った佐伯が軽く伸びをした。小春はそれを目で追いながら言葉を辿った。しかし、一つ疑問が残った。

「黒木さんと墨田さんはお知り合いなんですか?」

「親子よ。あれ、もしかして杉野さん知らなかった?結構有名な話だと思ってたけど、世間一般はそうでもないのかな」

 静かに小春は固まった。まさかの事実に体が硬直した。もし漫画だったら空いた口が一メートルくらい空いていたことだろう。

「お、親子なんですか!?」

「うんうん。知世は結婚して苗字変わってるけど、ちゃんと血の繋がった親子だよ」

 黒木威仁に子供がいることは知っていた。けれど、同じ業界で活躍する作曲家ということは知りもしなかった。

「そうだったんですか...私知りませんでした」

「まあ業界内では有名な話ってことなんだろうね。今は苗字が違うから判別もつきにくいし...お、そんなことを話してたら着いたみたいだよ?」

 佐伯が指で店を示す。そこには居酒屋が暖かい光を放ちながら建っていた。

「こ、ここですか」

 見た所大衆居酒屋だ。こんなところに佐伯や篠田が入っても大丈夫なのだろうか。

「うん。篠田くんが先に入ってるから早く合流しよう」

 佐伯は小春の腕を引いて勢いよく店の中へ入っていった。


「遅いよー」

「ごめんごめん。知世は後から合流するって」

「お、お邪魔します」

「おー、杉野さん。さっきぶり」

 篠田がいた場所は個室で表の居酒屋らしい雰囲気は多少抑えられていた。佐伯や篠田のことを案じていた小春は少しほっとした。むしろ余計なお世話であった。

「静香はいつもの?」

「うん。お願い」

「杉野さんは何飲む?ビール?」

「私お酒は苦手なのでウーロン茶で」

「了解。すみませーん、注文お願いしまーす」

 どうやらここは店員に直に注文するタイプらしい。佐伯が個室から顔を出して店員を呼んだ。近くにいた50代くらいの女性の店員が小走りで篠田に向かった。

「あ、篠田くん!久しぶりねー、あ、もしかしてまたあそこのスタジオで稽古?」

「おーおかみさん久しぶりです。今度の舞台の稽古で来てまして」

 どうやらここは行きつけの店らしい、かなり親しげだ。

「注文は?」

「ウーロン茶三つお願いします。あと適当につまめるもの4人分」

「あいよ。ちょっと待っててね」

 店員が去ったあと、篠田が顔を引っ込めた。微妙な時間が流れたためせっかくの機会と思い小春は聞いた。

「あの、皆さんお酒は飲まないんですか?」

「舞台が終わるまでは飲まないって決めてるの。稽古と本番に支障が出るのが嫌だから」

「俺も飲まないって決めてる。大好きなものはとっておきたいんだよね。それに、大仕事終わったあとの酒は格別だから」

 普段から酒は飲まない小春にとっては考えもしなかったが、何か好きなものを長期間我慢するというのはいいプレッシャーになって集中できるかもしれない。小春も好物を我慢するものを考えてみたが、大したものは浮かばなかった。

 小春が思案に耽るうちに先ほどの店員が個室に入ってきた。

「とりあえず飲み物だけ先に」

「ありがとうございます」

 店員が去りそれぞれに飲み物が渡された。

「それじゃ、かんぱ〜い」

「かんぱーい」

「か、乾杯!」

 ウーロン茶が入ったグラスが三つカンと音をたてて揺れた。


「杉野さん知世ちゃんのこと知らなかったんだ!へー、意外と知られてるもんだと思ってたよ」

「でしょー?私てっきりウィキペディアとかに載ってるもんだと思ったから、びっくりしたわ」

 食事が届き段々と会話に花が咲き始めてきた。こうしていると二人が有名な役者であることが嘘みたいだ。

「まあでもあれもあるんじゃない?」

 篠田が唐揚げを自分の皿によそいながら言った。

「あれって何よ?」

「黒木さん最近役者やらないだろ?監督とか演出ばっかりであんまり表に出てこないから、結局娘の存在にも触れられてないんじゃない?」

「あー...それはあるかもね」

 佐伯がしみじみと頷いた。

 黒木威仁はここ十数年監督業に従事している。初期は監督業とともに役者業を両立していた時もあったが、ここ最近で芝居をしている姿を見たことはない。小春よりももう少し下の世代は彼が役者だということを知らないのではないだろうか。

「あの、何で黒木さんは芝居をしないんでしょうか」

 小春は失礼かもしれないと思いながらも恐る恐る聞いてみた。佐伯がウーロン茶を飲み干してから答えた。

「なんか、火が消えてるんだって。今は役者よりも監督業に火がついてて、役者はあんまりなんだって前聞いた時言ってた」

「そうなんですか...残念です。私、黒木さんのお芝居好きだったので」

「だよねー。だから私たちも何とか火をつけられるようにって頑張ってるけど、なかなか」

 佐伯が無力そうに言った。そして個室から顔を出し二杯目のウーロン茶を流れるように注文した。

「何か策でもあるんですか?」

「ええ。その時ついでに聞いといたのよ。『若い世代にいい芝居見せられたらもう一度火がつくかも』だって」

 呆れちゃうわ、と佐伯は呟いた。篠田もそれに首を縦に振っている。

「若い世代のいい芝居なんて、これまでにいろんな人がたくさん見せてきたってば!」

「でも黒木さんの求めるものには足りなかったってことなんだけど...なかなか受け止められないよね。それが悔しくてこっちの着火剤にはなるけど」

「それもなんか腹立つわよね。もしかしたら私たちは黒木さんの手のひらの上でころころ転がされてるんじゃないかって思うわ。結局役者に戻ってくるなんて微塵も考えてなくて、若い役者を育成するために言ってるんじゃない?」

「だとしたら辛いなー。いつかは黒木さんと芝居してみたいのに」

 確かにその可能性も十分にあり得る。実は役者への気持ちはすっかりなくなっていて、若い世代を育てることが彼の目的になっているのだとしたらそれは大きな起爆剤になる。自分という大きな役者を動かすために自分の芝居を磨け、それは黒木にしかできないことだろう。

「杉野さんも他人事じゃないからね?」

「え?」

「だって、あなただってもう若い世代の役者だもの。チャンスは大アリよ?」

 佐伯の目はいたって真面目だった。飲みの場での冗談やお世辞なんかではない。一人の役者として小春のことを見てくれているのだ。

「でも、私みたいな新人にできることなんてないですよ」

「いいや。それは違うよ杉野さん。新人の子のほうがむしろいいかもね」

 篠田の目も静かに燃えていた。小春は胸の内に逸るものを感じた。

「新人という立場がいつも不憫なわけじゃない。経験がないってことは、逆に言えばなんのしがらみも先入観もなく演れるってことなんだから。そういう他とは確実に違うものを見せられたら、黒木さんもどう動くかはわからないよ?」

「でも、そう簡単には譲らないわ。そんな美味しい役どころ、新人だからって理由であげたりはしない」

 佐伯が食事をする手を止め、ずいと身を乗り出す。篠田の様子もどこかびりびりとしたものを肌に感じる空気を醸し出していた。

「これは黒木さんのことに限ってっていうわけじゃない。役者そのものについての話よ。杉野さんはもう舞台の上に立ったの。役者っていう闘技場の上にね。そこには年齢も実績も関係ない。周りの人がどう言おうかなんて知ったこっちゃないわ。ここからはもういい芝居をしたもん勝ち、誰にだってチャンスはあるし、敗けることだって誰にでもある」

 佐伯静香の目にあったのは闘志だった。この世界に必要なのは熱意だけではなく、戦う意志も必要不可欠なのだ。それはそうだ、でなければ一つの役を奪い合うことなんかできるはずがない。

「杉野さんはこの舞台を戦う覚悟、ある?」

 小春は佐伯に圧倒された。けれど、答えを返す頃には自然と口元に笑みを浮かべていた。

「むしろ楽しみです。私、そのためにここに来ましたから」

 オーディションを重ねたのはここに来るためだ。芝居が好きでここに来た。その芝居で殴りあえるのならそれは本望だ。

 小春の答えを聞いた佐伯はニヤリと笑い身を引っ込め食事を再開した。どうやらお目当の答えを提供できたらしい、佐伯は届いた二杯目のウーロン茶を今度は少しだけ飲み込んだ。

 しばし歓談が進み賑やかな時間が流れてきたところに、ある人物が入ってきた。

「遅れてごめーん...ってあ!杉野さんだ!」

 到着早々小春の名を呼んだのは墨田知世だった。赤みがかった髪をそのままに、かけていた眼鏡をコートの胸ポケットへひっかけた。

「遅いぞ知世ー。お疲れ」

 佐伯が労うのをよそに墨田はずかずかと小春の目の前へやってきた。

「こんばんは杉野さん!私墨田ね、墨田知世!知世って呼んでくれていいよ!あ、じゃあ私も小春ちゃんって呼ばせてもらうね!」

「え!?あ、はい!?」

 隣に座るやいなやずいと顔を近づけた墨田に小春はたじろぐ。正面にいた佐伯が静かにため息をつくのが小さく聞こえた。

「こら知世。杉野さん困ってるでしょう、離れなさい」

「ああごめんごめん。初めてみた時から小春ちゃんとは話してみたくてさー」

 そう言って墨田はコートを脱ぎ、店員にビールを注文した。

「ごめんね私だけお酒飲んで」

「別にいいわよ。気にしないから」

 注文し終えた墨田はもう一度意識を小春へ向けた。

「小春ちゃん歌上手だね!私オーディションの映像見たときびっくりしたよ!」

「あ、ありがとうございます。嬉しいです」

 目をキラキラと輝かせながら言う墨田に小春は照れくささを覚えた。磨いてきたものだけれど、改めて褒められると少し恥ずかしいものである。

「実際に聞いてみたいと思ったんだけれど、如何せん曲ができてなくてねー!」

「それあんたのせいでしょ」

「そろそろ曲聴きたいよね」

 墨田は佐伯と篠田に見向きもせずに小春に向けて話を続けた。

「オーディションの最終候補三人いたでしょ?実は私、あの中で最初から君が良いって言ってたうちの一人なんだよ!だから実際に会えたときとっても嬉しくてねー!」

 ここまで褒められると逆に怪しくなってくる。彼女の表情を見る限り嘘ではないのだろうが、褒められ慣れていない小春にとっては少々胸焼けを起こしてしまいそうだ。

「オーディションの映像?」

 佐伯が墨田に問いかけた。墨田は顔を一瞬佐伯の方に向けて答える。

「ああ、演者のみんなは見てないのかな。私は作曲を担当するから選考員の一人だったんだよ。その時に見たの」

「へー、そうなんだ。ねえ、他の子ってどんな感じだった?」

 篠田が問いかけ、墨田は小春に向けかけた顔をもう一度逸らす。小春は内心ほっとして目の前のサラダに手を伸ばした。

「まあ、悪くはないよね。最終選考にまで残るくらいだから。けどまあ、この舞台には必要ないかなって私は感じたけどね」

「必要ない?」

 佐伯が出汁巻卵を食みながら聞き返す。

「私個人の意見だけど、なんていうか他の二人は音が多そうでさ」

「音が...多い?」

 小春はサラダを食べる手を止めて墨田の方を見た。その表情は先ほどとは違い真剣な瞳になっていた。

「今回の主人公には音はいくつも必要じゃないんだよ。でも彼女たちは表現する上でいろんな音を奏でてしまった。でも小春ちゃんはちゃんと桜の音を出してたんだよ。だから私は小春ちゃんを推したんだ」

 小春は墨田の言っていることを100パーセント理解はできない。それはまさに芸術家的な表現の仕方で凡人の小春には理解ができなかった。けれど、彼女のような人が自分の演技から桜を感じ取ったというのならばそれは小春にとって紛れもなく賞賛の言葉だ。

「へー、なんとなくわかったかも」

「俺も」

 佐伯と篠田が頷いた。小春は思わず聞き返す。

「どうしてですか?」

「杉野さんの芝居を見れば納得かなって。だって、すごい桜なんだもん」

「そうそう!ああ、桜ってこういう動きしそうだなーとか、喋り方とかが俺の頭の中で想像した通りの桜でさ。こんなに順調に進むとは思わなかったよ」

 小春の頭はパンク寸前だ。こんなに褒められてしまってはのちに痛い目に合うに決まっている。それに今は順調だが、次はそうはいかないだろうということを小春はなんとなく感じとっていた。

 今は明確な壁があるわけではない。むしろ順調で、自分の調子もすこぶる良いと言える。けれど、舞台というものがそんなに簡単にいくはずがないだろうということは経験がなくてもわかっていた。

 夜は更けていく。時間は止めようがなく、進み続けるしかないのだ。

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