第9話

 翌日、舞台制作は動きを持ち始めた。立ち稽古が始まったのである。

『ああ、ごめんなさいごめんなさい!...ちょっと通してください!』

 小春は群衆役の間に肩をねじ込むようにして前へ行こうとする。ようやく前列へ出た小春はしかし今度は押される側にまわった。

『人の数すごいな...わ!ちょっと押さないでってば!』

 小春は押してきた人に向かって言う。

『おい見ろ、国塚はるひだ!』

『本物!?本物だ...!本物の国塚はるひだ!』

『きゃー!素敵だわ!はるひさーん!』

 佐伯が舞台の端に現れる。腕を組み微かに笑んだ佇まいはまさに女優だった。佐伯自身が持つ華やかさと強さがカチリとはまっている。

 小春はその姿を見て台詞を続ける。

『本物だ...本物の国塚はるひ...憧れの大女優...!』

 佐伯を捉える瞳が輝きに満ちる。これは演技というよりも素に近いだろう。彼女自身、佐伯や八千代に会った時は桜のように思ったはずだ。

 小春以外の役者たちがはけ、場面には小春一人が残った。帰りの電車の中でのシーンで現実では桜の心の中で呟く台詞だ。

『いつか私もあの劇場に立つ...!その劇場の舞台で、一番光る輝きに私もなるの!』

 目線は遠く二階席、まっすぐに手を伸ばす。自然と顔が観客に見えるようになり、その瞳が夢に光り輝く様子が観客に伝わる。

 杉野小春の演技は一重に上手いと言える。それは単にその時の人物の心情を言葉や動きで表現できるということには限らない。黒木と八千代が彼女を見出したのはそれ以外の部分が他の候補者にはなかったからで、彼女にとってそれが演技の中枢に存在していたからである。あの時台詞をわざわざ変えたのはそれが見えていたからなのだ。

 夢を語った一呼吸後、その顔は憂いに満ちる。同級生役が舞台に入り、場面は学校へ切り替わる。

『桜この前「ヒノワ劇場」行ったんでしょー!どうだった?』

『国塚はるひには会えた?やっぱり美人だったー?』

『会った...ていうか、まあ見ることはできたよ。すっごい美人だった!それになんていうか、雰囲気が違うのよ、もうなんていうか、すっごいのよ!』

 徐々に小春の顔色は明るくなっていく。現実を知りながらも演劇への純粋な熱意は抑えることはできないのだ。

『やっぱりそうなんだー!一緒に行けば良かったなー!』

『ほんとほんと!こんな田舎にいる限り、あんな美人には絶対に会えないんだから、行っておけば良かったなー』

 一呼吸後、友人が肩を落としながら言う。

『はー、この街にも誰かこないかなー』

『無理無理。こんな寂れた街には美人も男前も来ないし、生まれもしないわよ』

『そんなことないわよ!隣のクラスの進藤くんかっこいいじゃない、彼だってこの街の生まれよ?』

『でも、顔がいいだけでは役者にはなれないわ。ね、桜もそう思うでしょ?』

『え!?...ああ、うん。そうだね...』

 密かに抱える自分の夢に迫られた小春は形だけの肯定をする。俯いた小春の姿は台詞を語ることなく桜の心情をよく捉えていた。今は観客にあえて顔を見せることはせず、自分だけの感情を抱える様を見せる。

『あ、でもこの前私面白いことを聞いたのよ』

『面白いこと?』

『新しい劇場がこの街にできるって噂よ!』

『劇場?』

『この前お父さんが言ってたのを聞いたのよ。なんでも、隣町にできる予定だったんだけど、それが上手くいかなくなってうちにできるんだって!』

『嘘、もしそれがほんとだとしたら、本物の俳優女優に会えるってこと?きゃー!すごいわね、桜!』

『う、うん。すごい...』

 友人たちが盛り上がる。それを桜は眺めていた。その視線に込められたのは純粋な期待。

『楽しみだね、桜!』

『....そうだね』

 今度は俯かずにその表情をしっかりと観客側へ向ける。

「よし、とりあえずここまで。まずは...」

 今回の舞台で演出も担当する黒木は役者たちに演技指導をしていく。とはいえ、黒木はよっぽどのこと以外は役者への指導をほとんどしない。役者たちが感じたように演じればいいと思っているからだ。役者たちがその体で咀嚼し飲み込んだ演技こそが洗練された演技だと思うからだ。誰かの芝居を模倣することがこの世界での正解ではない。その人にしか出せない人物の表現を緻密に、あるいは大胆に描いていくことが大切なのだ。

 だから今回も立ち位置等の指摘をするのみで芝居自体には手を出さない。役者たちが表現したものを舞台に組み立てていくことが黒木の仕事である。

「じゃあ続きは午後から。もう12時だ」

 この仕事にも随分と慣れてしまったものだ。


 桜は夢を持っていた。夢を抱えていた。誰にも言えないけれど、いくら押さえつけても溢れてしまうほどの大きな夢。小さいコップには入るはずもないとても多くて大きい夢。手を伸ばそうと思っても、歩いてみようと思っても周りは暗すぎてどこに向かえばいいのかわからない。どんなやり方で、どんな努力でそこにたどり着けるのかすら何もわからない。

 桜が見ていたのはそんな夢だった。

 そしてそれは小春が夢を追いかけていた時ととても似ている。努力はした。文字通り汗と涙に塗れた努力を、精魂尽きるまでやり抜いた。けれど届かなかった。一番求めたその夢の舞台には届きはしなかった。

 どうして。なんで。何が足りなかったの。最初はそう思っていた。悔しくて辛くて、自分の努力はどうして実らなかったのか。他の人が選ばれたのはどうしてなのかを問う日々だった。自分は決して劣っていたわけではない。芝居も歌唱も彼らに負けることはなかったと自分でもわかった。けれど選ばれなかった。それはどうして。なぜ。なぜ。なぜ。問い続けた。

 答えが返ってこない質問を繰り返すうち、段々とあたりは暗くなっていた。自分以外真っ黒な世界では、あれほど憧れていた夢の姿さえも見失ってしまった。夢が見えない、見えないと嘆いて闇雲に進み続けた。近づいているのか遠ざかっているのかさえも自分ではわからなかった。

 あの時の自分は桜そのものだった。

「あら、小春さんもここでお昼?」

 声がしたのでパチリと目を開ける。そこには太陽の光を背にした八千代が小春の顔を覗き込んでいた。

「うわぁ!びっくりした...」

「あらあら驚かせちゃったかしら?ごめんなさいね」

 小春は慌てて起き上がる。いくら休憩時間とはいえ、大先輩の前で寝転んだままはいい筈がない。

「小春さんもここ気に入ってくれた?」

「はい。景色がいいので」

 小春は以前八千代に連れてきてもらった屋上へ来ていた。青空で広がる景色は心地が良いものだし、八千代以外の人間が来ることも滅多にない。集中するにはもってこいな場所だった。

「小春さんご飯はもう食べた?」

「はい」

「あらそうなの。一緒に食べられると思ってたわ」

 そう言って八千代は当然のように小春の隣に座った。憧れの女優にこうして接してもらえるのは光栄だし、何よりも彼女のような人に嫌われていないというのはとても嬉しい。

「さっき寝転んでいたけど、もしかしてお昼寝したかった?だとしたら起こしてしまって申し訳ないわ」

 八千代はタッパーを開けて中からおにぎりを取り出した。今日の昼食らしい。

「いえ、ちょっと考え事を」

「そう。でも、あんまりオススメしないわね。もう随分寒くなってきたわ、お昼は日があるからまだ大丈夫だけど、体を冷やしちゃうわよ?」

 小春は小さく頷く。確かに、主要人物を演じる役者が舞台稽古中に風邪なんかひけば迷惑極まりない。体調管理だって立派な仕事だ。

 八千代はおにぎりを頬張った。改めてその姿を見ると何だか現実感がなくて不思議な感じだった。

「小春さんの演技良かったわ」

 突然八千代がしみじみと呟いた。お世辞かもしれないと思いながらも小春は顔が熱くなっていくのを感じる。

「ありがとうございます。でも、まだまだなんです。まだ、桜を写せていないっていうか」

「写す?」

 八千代がおにぎりを食べる手を止めて小春の方を見た。小春は頷き、傍に置いてある台本を見やる。

「私、桜になることはできないんです」

 小春はきっぱりと言い切った。それを八千代は静かに見つめた。

「だって私は物語の人物じゃないし、名前も違う。私は杉野小春で、桜じゃない。それは絶対的な事実です。舞台に上がるときに桜の衣装を着て、桜の髪型をしても、やっぱりそれは桜の格好をした杉野小春で桜じゃない」

 どう足掻いても舞台上にいるのは役を演じる杉野小春。

「私は結局なれなかったんです、物語の中のヒロインに。誰かを魅了できるほどの美貌もないし、誰かを救うような強さもない。オーディションに受かる子達は、物語みたいな人生を歩んでいける子達だった」

 舞台に立つ人生という舞台を歩んでいくために必要な何かが自分には欠けていた。だからこそ、一つの答えを見つけた。

「だから私は鏡になるんです。本物ではないけれど、本物を写すことはできるんじゃないかって。一挙手一投足、瞬きまで桜の姿を写すことは物語の中にいない私にもできる。そうすれば、桜の姿をみんなに届けることができると思うんです」

 鏡の中の人物には絶対に触れることができない。けれど限りなく近づくことはできる筈だ。真似て、考えて、観察して、極限までその人物を詳細に写し出す。それが物語のヒロインになれなかった小春がたどり着いた場所だった。

「まあ全部持論ですけど。結局役そのものになりきれているわけではないし...やっぱり、間違ってますかね」

 長年女優をやっている八千代から見れば馬鹿馬鹿しいと笑われるだろうか。そんなの間違っている、役に入り込めないのはお前の落ち度だと言われてしまうだろうか。

「八千代さんは、私とは違いますもんね。天才っていうか、本当に女優こそが人生っていう感じ...って、失礼ですよねこんなの。すみません」

「そうね。違うわ」

 それまで黙って聞いていた八千代がようやく口を開いた。いつもよりも強い口調に小春は身を強張らせた。

「あの...私...」

 小春は慌てて謝ろうとする。彼女のような人を怒らせるのは二重の意味で恐ろしい。

「何も違わないわ。私とあなたは」

「え?」

 予想の斜め上の回答に小春は困惑した。八千代は真っ直ぐに小春の方を捉えていた。

「確かに、私はあなたの歳の頃すでに女優として名を馳せていたわ。それから年を重ねて国民的女優として今も広く知られている。私とあなた、何もかも違うのよ」

 編まれていく言葉に小春はじわりと胸が痛む。改めてこうして本人の口から聞かされると心に来るものだ。

「もちろん天才と言われる役者はいる。けれど、その人たちが一滴の汗も流さずにここまでこれたわけではないでしょう。あなたのように、それぞれの苦悩を抱えて舞台に立ち続けてきたのよ」

 八千代の言葉はひどく穏やかだった。けれどずっしりと響くように真っ直ぐだ。

「どんなに天才でも、稽古をしないで舞台に上がるようなことはしないでしょう。それは舞台に対して尊敬の心を持っているからよ。役者をやっている限り、その心を忘れては行けないわ。それを失ってしまっては、その人はもう役者ではないとも思うくらいよ」

 八千代の言葉も瞳も何もかもが真っ直ぐで小春を何本もの矢が貫いていく。けれど不思議と痛みはなく、むしろ心が逸った。

「小春さんは芝居に対して自分のやり方を持っている。それは芝居を本当に愛しているからよ。その気持ちはキャリアも年齢も関係なく役者たちの中に普遍的にある筈だわ」

 するとそこで八千代は真剣な顔に笑顔を湛えた。それはいつものあの穏やかな笑みよエイも随分と挑発的なものに見えた。

「あなたはもう役者という舞台に登っているの。そこでは何をやってもいいのよ。その役になることも鏡として役を写すのも、全部自由でいいの。そこに真剣な気持ちと覚悟さえあればね?」

 言い終えた八千代はいつも通りの笑みを浮かべたあと、昼食を再開した。おにぎりを一口頬張り、静かに飲み込むと一言付け加えた。

「小春さんはあれね。これまでオーディションに落ち続けたせいで自分に自身が持てないのよね。大丈夫よ!小春さんが駄目な役者だったら、私もタケちゃんも選んだりしないから」

 浴びせられた言葉を咀嚼するのには時間がかかった。これは絶対に忘れてはいけない言葉だと思ったからだ。きっと今後の人生にも活きてくる言葉、そして何よりも今の自分を救う言葉。胸に刻まなければならない。この日を絶対に覚えていなければならないと小春は感じた。

 ある程度咀嚼し終えた後、小春はある点に気づいた。そういえば、自分が選ばれた理由をまだ聞いていない。

 小春は今がチャンスだと思い、思い切って八千代に聞いた。

「あの、八千代さん。私が選ばれた理由っていうのは...」

「あら、もうこんな時間!小春さん急ぎましょ!あと2分で稽古始まっちゃうわ!」

 八千代が腕時計を小春に見せる。時計の針が指す文字を見て小春の背筋は一気に冷えた。

 二人で屋上を大急ぎで後にして、稽古場へ向かった。着いた頃には息がぜいぜいと切れていた二人を集まっていた座組の人々は笑っていた。つられて小春と八千代も顔を見合わせて笑いあった。

 午後の稽古は何だか体が軽かった。八千代の話を聞いて、周りにいる名だたる役者たちも自分と同じところに立っているのだ。自分と同じように、芝居に対しての情熱と愛情を持っている。そう思えば、怖気付くことなど何一つない。

 私は桜を写すだけ。それが鏡である私の役目。

 稽古終わりで疲れきっていたため、自分が選ばれた理由を聞けなかったことに気がついたのは帰り道のことだった。

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