第8話

 小春は稽古終わりに公園に寄った。なんとなく、このまま家に帰ることができなかったからだ。

 ベンチに腰をかけた時随分と体が重く感じ、自覚していたよりもずっと緊張していたことに気づき、情けなさを感じる。小春は小さくため息をついた。

 橘八千代の大きさを知った。それはこれまでの彼女の芝居や、午前中の読み合わせの時にわかっていたつもりだった。けれど、第二幕後半の彼女の一人芝居はそれとは比にならないものだった。

 老年の桜が舞台に立つ時間は全体を通せば小春が演じる桜よりも短い。だが、一人で舞台に立ち続ける時間が長いのは圧倒的に八千代が演じる桜だ。その間、観客たちはずっと八千代を見続けることになる。演者は観客を飽きさせないように演じ続けなければならない。

 八千代はそれを現段階ですでに完成させていた。台本を追うはずの人々はみな彼女の方を向いていた。彼女はすでに、舞台に立っていた。

 小春は空を仰ぐ。日が完全に沈んだ空は星が輝けるほどに濃く色を持っていた。最近は随分と日が暮れるのが早くて自分だけが置いていかれそうな気分だ。

 小春と八千代は年代さえ違えど同一人物を演じる。もちろん、八千代の桜は人生経験を積み熟した芝居をし、小春の桜は若さと瑞々しさを表現するべきだ。だが、それ以前に圧倒的に小春の芝居は彼女のそれよりも見劣りする。同じ人物を演じているはずなのに、別人のように感じてしまう。ある新人女優と、死を間際にした女優に感じられてしまうのだ。

 もし今、自分が一人芝居をすれば観客たちは眠りにつく。わかっていたはずの距離感は思っていたよりも遠く、その背中すら見えなかったことに初めて気付いた。本当の距離を知った途端に焦りが小春の中に生まれた。

 夜の闇が両手を伸ばし小春を飲み込んでいく。必死に携えていた小春の心の灯火がその闇に吹き消されそうになった。

(それでも)

 それでも止まれない。もう自分の女優としての舞台は始まってしまっているのだ。ここで止まっては、拍手も歓声ももらえない。

 小春はもう一度夜空をよく見た。暗い夜の闇の中には星が小さく輝いていた。

 燃えている。輝く星は、あんなにも燃えているのだ。

 小春の内側に灯っていた火は確かに燃えていた。


「そういえば、杉野さんに引退の旨は伝えたのか?」

 人がいなくなった稽古場で黒木が台本を追いかける八千代に聞いた。

「いいえ。言ってないわ」

 当たり前のように答えた八千代に黒木は問いを続ける。

「言いそびれたのか?」

「いいえ。あえて言わなかったの」

「あえて?」

 八千代は小さく頷くと開いていた台本をぱたんと閉じた。

「今日彼女とお昼一緒に頂いたの。その時、彼女面白いことを言ったのよ。『舞台が役者を作って、そこから夢をもらった役者がまた舞台を作る。そうやって演劇が循環していくんだ』って。私、これを聞いた時本当にこの子は演劇が好きなんだなって思ったの!ああ、この子はやっぱり桜なんだなって!」

 八千代は興奮を隠しきれずに語尾を上げて言う。彼女がまっすぐ気持ちを体に表現するのは若い時から変わらない。

 しかし声を落ち着かせて八千代は続けた。

「彼女のとってこの舞台は記念すべき初舞台よ。人生で一回しかない初舞台...私は、楽しんでほしいわ。お芝居が大好きな彼女には初舞台を純粋に楽しんでほしいの。私の引退が頭にあったら、きっと余計なことを考えてしまうと思うの、だから、彼女には言わないことにしたわ」

 八千代は席を立ち、台本を手に持った。

「舞台が終わってしばらくしたら伝えるわ。だから、タケちゃん?言っちゃダメよ?それから他のみんなにも言っておいて、『小春さんには引退宣言は言っちゃだめ』って」

 そう言って八千代は稽古場を出て行った。

 一人稽古場に残った黒木は小春の姿を思い描く。栗色の髪を揺らし、精一杯名だたる俳優たちに挑んでいくあの姿。まだ彼女が舞台の上にいるイメージはできない。

(その方が燃えるさ)

 心の中で呟いた声はどこにもこだましない。けれど、黒木の内側で確かに反響していた。

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