第7話

 八千代の胸は熱くなった。第二幕の前半は桜が女優以外の顔を見つける大切な場面である。青年期の桜のみが登場し、老年期の桜は一切登場しない。それでも、心にくるものがあった。

 八千代は和彦のことを思い出していた。立場に若干の違いはあるものの、八千代も和彦との出会いがその後の女優人生を変えたと思っている。何よりも、人生における心の支えという存在がどれほど大きなものだったのかを彼に教えてもらった。

 大切な記憶がどんどん溢れてくる。八千代は涙を流しそうになるのを静かに抑えた。

「歌唱の場所が決まってるのはここだけなんですね」

 篠田が黒木に問いかける。篠田が言及したのは守が桜にシナリオについて話したところだ。

「ああ。他の歌唱場所は知世が自由に決めろと言ってあるが、ここは絶対にあったほうがいいだろう」

「まあ確かに。ロマンチックですしね」

 佐伯もうんうんと首を縦にふる。

「知世だってそう思うだろ?」

 黒木が部屋の隅で様子を窺っている墨田に言った。

「ええもちろん。事前に言われなくてもここの曲は作ってたと思うよ」

 八千代は隣に座る小春に目を向けた。話に集中はしているようだが、自分の出番が終わったからか少し緊張が解けている様子だ。

 これで小春が演じる桜の出番は終わる。第二幕の後半は全て老年期の桜が女優という自分の人生について語る。これをもって「STAGES」は終幕を迎えるのだ。そして舞台に立つのは八千代ただ一人。

「そんじゃあ続き始めるぞ」

 黒木の声が響き、八千代は桜へと変貌した。


『私に私を教えてくれた人、誰よりも大切だったあなた。あなたと紡いだ物語はこの世界のどんな物語よりも温かかったわ』

『たとえ喝采を浴びることはなくても、どれだけ陳腐と言われても、私にとってはどんな名作よりも美しく朽ちることのない傑作なのよ』

『二人で紡いでいく物語がこの世界の何よりも素敵な物語よ』

『だから、もっと長く続いて欲しかった』

『一生をかけて私を書いてくれるって言ったのに、どうして先にいなくなってしまったの?』

『あなたがいない私は、誰が書いてくれるの?』

『もっと一緒に居たかったわ』

『あなたもいない、舞台に立てない私は、一体誰なのかしらね。こんなこと、考えるとは思わなかったわ。だって、こういうのって思春期に考えることでしょう?自分が誰なのか、自分らしさって一体なんなのかなんて、経験がどうにかしてくれるのに、私にはその経験がなかったのね』

『舞台に立つことと彼の隣にいることだけが私だった。その両方を失った私は、私じゃない』

『こんなことになるのなら、女優を選ばない方が良かったのかしら』

『もしあの時、オーディションに落ちたことをそのまま受け止めて、そうね...どこかで新しい人生を始めるっていうのもあったのかもしれないわ。そしたら、また未来も変わっていたんでしょうね』

『でも、そしたら守さんには会えなかったのね。それは大変だわ』

『国塚さんにも会えなかったわ...それも惜しいわ』

『それに他の役者さん、監督さん、スタッフのみんな...女優じゃなければ出会えなかった』

『観客の笑顔も見ることができなかったのね』

『彼らに私の舞台はどう映ったのかしら。素晴らしいと思ってもらえたかしら、それとも、惨めすぎて笑っていたのかもしれないわね』

『もし...素敵なものに見えていたのなら、女優を選んで良かったといえるかもしれないわね』

『自分を見失ってでも彼らに夢や希望を与えられたのなら、人生を女優に捧げる価値は大いにあったのかもしれないわ』

『だって、彼らが私を見つけてくれるんだもの。私が私を問うたびに、「あなたは女優です」って教えてくれる。あの人が私を見つけてくれたように、彼らも私を見てくれていたのよ』

『そうよ、そうよね。彼らに会えたことは、私の人生で最も意味があることだったのよ。あんなに大勢の人に何かを伝えることができるのは、女優しかなかったの』

『やっぱり選んで良かったのよ。私は女優で良かった。舞台に立って、表現して、伝える。こんなに素敵なことはこの世界に二つとしてないのよ』

『舞台に立つことが私の人生。私の人生は、舞台そのものだったの』

『産まれて生きて死ぬまで、私は舞台に立ち続けていたのよ。たとえ実際に舞台に立つことはできなくても、私は私という舞台を生き続ける。人生という舞台は、死ぬまで終わることはないのよ。あらすじもセリフも決まっていない舞台よ、結末なんてあるわけないわ』

『だから生き抜くしかないのよ。たとえ心が挫けても、傷をつけられても、舞台は死ぬその瞬間まで終わりはしない。喜劇か悲劇かなんて、死ぬまでわかりもしない。そんな舞台を、私たちは生きているのよ』

『だから、私も生き抜くわ。こんな枯れ果てた体でも、死ぬまでは何もわかりはしないのよ!これからいくらでも喜劇にだってできるわ。私の人生を悲劇なんかにしない』

『私はやっぱり、ハッピーエンドが好きなのよ』

『振り返ったとき、自分が残してきた足跡がひどく醜く見えてもそれを覆すような結末が待っているかもしれない...だから私は舞台を降りたりしないわ』

『舞台を完成させたところで拍手や歓声をもらえるかなんてわからないわ。でも途中で終わる舞台に与えられた舞台なんてこの世界中を探しても、一つとしてないわ』

『私はこの舞台に立ち続ける。だって、女優は私の人生よ』

『生きてきたわ、私。でも、まだ終わらせたりはしない』

『ああ、海が見える。どこまでも広がって空との境界が滲んでいて、あんなにも綺麗だわ。そうだ、せっかくだから夕日を見たいわ。ええっと時間は...あら、もうこんな時間!早く行かなきゃ、日没に間に合わなくなっちゃう!』

 舞台、終幕。

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