第5話

 読み合わせが終わってようやく、目から涙が溢れていたことに小春は気づいた。

「杉野さん大丈夫?」

「え...あ、ああ大丈夫です!ちょっと色々思い出しちゃって...」

 八千代に言われ小春は頬に流れた涙をぐしぐしと拭く。

 小春は桜に自分の姿を重ねていた。一度は夢が破れた桜と日に日に夢の終わりが近づいていく自分の姿が一致はせずともその心情はよくわかる。台本を一通り読んで結末まで知っているはずなのに、桜の舞台への健気な姿勢をなぞるうちに自分のこれまでを思い出し気づけば涙が頬を流れていた。

 小春が一通り涙を拭き取ったのを確認して黒木が言う。

「午後は二幕の読み合わせから始めるのでそのつもりで」

 黒木の端的な締めで午前の稽古は終了した。時計の針はちょうど12時を指していた。

 休憩に入り徐々に人が分散していく。小春もそれに伴い今朝コンビニで買っていた梅のおにぎりとペットボトルのお茶を両手に稽古場を出ようとした。特に行き先は決まっていなかったけれど、大物たちが闊歩するここに居続けるのも疲れる。近くの公園にでも行って食べようかと考えていた。

「杉野さん、ちょっといいかしら?」

 稽古場の扉を通り過ぎようとしたとき、後ろから八千代に呼び止められた。

「な、なんでしょうか」

 いまだに八千代とは緊張せずに面と向って話すには少々時間が足りない。しかし、そんな小春を気にせずに八千代は言った。

「一緒にお昼、どうかしら?」


 橘八千代をただの公園に連れていくわけにもいかないので、八千代オススメの場所で食べることにした。

 八千代は小春を連れて稽古場の階段を上に登っていく。すると一枚の扉が現れ、八千代は足を止める。

「ここよ、とっておきの場所なの」

 八千代がその重そうな扉を開けると、隙間から光があふれ出した。小春は思わず目を細める。

「ここは...屋上?」

 開かれた扉からは周辺の建物が小さく見え、眼前には壁のようにそびえる青空が広がっていた。

「ええ。ここは屋上があるスタジオなのよ。とっても視界が広くて、私のお気に入りなの」

 八千代が踏み出し、青空の中でくるりと回る。彼女は長くバレエをやっていた経験がある。頭の先から手足の先まで意識が行き届いた体からは見えない力があるようにも感じられた。なんてことない動きでも、彼女がやることによってその動きは意味を持ち始める。まるで舞台上でもっとも輝くスポットライトが当たったようだった。

 彼女が立つ場所こそが舞台。

 小春は先ほどの読み合わせを思い出す。あれは橘八千代をモデルに作られた物語だけれど、彼女はどちらかと言えば桜よりも国塚はるひの方だ。圧倒的な才能と芝居への熱意。そして、彼女の立つ場所こそが舞台なのだと思わせるその存在感。

 小春は舞台が好きだ。役者も大好きだ。本物をこうして間近で見られることは嬉しくてしょうがない。けれど同時に、どうしようもないその差を見せつけられた気がした。

「杉野さんもこちらへどうぞ?」

「あ...はい、お邪魔します」

 八千代は小春を青空のもとへと連れだす。太陽が照らす屋上はとても明るい。その光を目一杯に浴びて八千代は輝きを放つ。あんまりにも彼女が輝くものだから、自分も輝きを放っていると勘違いしてしまいそうになる。

 小春はその場に座り込むように腰を下ろす。八千代もその隣に腰を落ち着けた。

「さっきの読み合わせ、橘さんすごかったです。わかってましたけど、やっぱり本物は違うなって思わされました」

「杉野さんも良いお芝居だったわ。私、感動したもの」

「無理に褒めてもらわなくても大丈夫ですよ。むしろダメ出しの方が嬉しいです。何か気になるところがあったら全部言ってください」

「あら、自己評価が低いのね...まあ人それぞれだものね。そうね、どうしても気になったらそうするわ」

 小春は目で感謝を伝える。

「でも、私は杉野さんの桜をなるべく壊さないように気をつけるわ。タケちゃんともそう話してたのよ」

 小春はおにぎりの袋を開きながら耳を疑った。

「どういうことですか?」

「桜と杉野さんは立場が似ているでしょう?だから、杉野さんが思った通りに演じることが桜になるのよ。他の誰でもない、『桜の人生』が描かれるの」

 八千代はサンドイッチを手にして静かにそう言った。

「で、でも私...なんの経験もないのに、そんな新人がやりたいようにやれなんて...」

 それも黒木の意思でもあるなんて、到底普通とは思えなかった。

「『やりたいように』、とは少し違うわね。あなたが『なるべきものに』、という感じかしら」

「『なるべきもの』...?」

 小春が聞き返してもそれ以上の言葉は八千代から得られなかった。

 しばしの沈黙が訪れたあと、八千代が小春に問いかけた。

「杉野さんの今日のお昼はおにぎり?何味かしら」

 斜め上の質問に小春は驚き危うくむせそうになる。それを必死に抑えてなんとか答えた。

「梅です。一番好きなんです、おにぎりの具の中で」

「そう!私も好きよ。でも、一番好きなのはツナマヨかしら」

「つ、ツナマヨ!?意外です、橘さんみたいな人はやっぱり梅とかが好きなのかと思ってました」

「ふふ、いつもそう言われるわ。でも、やっぱりツナマヨを初めて食べた時の感動は忘れられないのよね、衝撃が走ったわ」

 平凡な会話を春うららに語る八千代の横顔に小春は不思議な感情を覚える。やっぱり彼女は舞台上の人間だ。そこに確かにいるけれど、そこには観客と役者という壁があるように、触れられない高尚さがある。

「あ、そうだわ。せっかくだから、お名前で呼んでも良いかしら?」

「名前、ですか?」

 聞き返した小春に八千代はパッと顔を明るくして言う。

「ええ!私、あなたのお名前大好きなのよ、杉野さんにぴったりの名前だわ!」

「そうですかね...私はあんまりそう思いませんけど...」

 小春個人の見解としては、小さな春どころか、やっと吹雪が止んだのかという感じである。しかし、吹雪が止んだだけであって寒さが去ったわけではない。春にはまだまだ遠い印象だ。

「構いませんよ。むしろ、橘さんに呼んでいただけるなんて光栄です」

「ほんと!?嬉しいわ、それじゃあ、これから頑張りましょうね、小春さん。あ、でも私だけ呼ぶのも変ね。小春さんも八千代って呼んでいいからね?」

 いきなり憧れの大女優を名前で呼ぶのはかなり骨が折れる。だが、これから座組みとして作品を作っていかなければならないのだから、そうした関係も大事なことなのかもしれない。

「じゃ、じゃあ八千代さん。これからよろしくお願いします」

 八千代は嬉しそうにその顔を笑顔に染めた。


「ねえ、小春さんはどうして、さっき泣いていたのかしら?」

 昼食を食べ終え、一息ついたところで八千代が小春に聞いた。

「えっと...桜に自分を重ねてしまったんです。私も夢を失いそうになっていたので」

「確か...大学を卒業するまでに結果が出なければ辞めるって言ってたわね。オーディションの時に」

「はい。卒業するまで、とは言っていたけれどほとんど諦めかけてたんです。入学して最後の力を振り絞ってこれまで以上に頑張ってきたけど、四年に上がるまでの間に何度か受けてきたオーディションも受からなかったから...結構、諦めてましたね」

 ゴールが見えて安心する気持ちと焦る気持ち、それでも成果が出ないことへの不安。心のどこかでは無理だという気持ちが徐々に膨れ上がっていた。

「夢が破れても桜は諦めきれなかった。多分、私もそうだったんじゃないかなって思うんです。卒業して普通の社会人になっても、多分お芝居への熱は手放せなかったんじゃないかなって。そしたら、すっごく辛かっただろうな...」

 熱を放出できないまま、自分の中にたまり続ければ身体が持たない。そのうち内部から溶かして体を蝕んでいく。そうなれば、痛くてきっと耐えられないだろう。

「諦めなかった桜は夢をもう一度掴んで、そして最高の舞台に立った。彼女は私にとっての希望です。彼女が持つ夢が、私にも夢をくれる。私、こうやって演劇って循環していくんだなって思うんです」

 小春は視界いっぱいに広がる青空を目一杯に取り入れる。その青さが自分の目にも移るように、自分もその輝きを手にできるように、目一杯に。

「舞台が夢を与えて、役者が生まれる。その役者がまた舞台を作って、夢を与えて...だから演劇って途絶えることがないと思うんです」

 自分もそちら側にいつか行けるだろうか。今回の舞台で自分も誰かに夢を与えられるだろうか。

 静かに小春の話を聞いていた八千代はぼそりと小さく呟いた。

「やっぱり、あなたは桜そのものだわ」

「え?」

「いいえ。なんでもないわ。それより、もうすぐ休憩時間が終わるわ。午後も頑張りましょうね」

 そう言うと八千代は先に稽古場の方へ戻った。一人残された小春はもう一度眼前に広がる青空に目を向けた。

 もし桜がこの空を見たらどう思うのだろうか。青い、綺麗、飛べそうな気がする、悲しい、怖い、その感情の中には何があるのだろう。

 桜は物語の主人公だ。奇跡だって起きるし、激動の人生の末にハッピーエンドを迎える。しかし、小春はそうではない。魔法も奇跡も使えはしないし、人生とは苦しくて悲しい。これぞハッピーエンドだというエンディングを迎える人間は一握りだ。

「人間誰しもが、舞台に立っているわけではないのよね。選ばれた人間だけが舞台に立って、そのストーリーを伝えることができるの。私は...」

 小春には、今の自分の立ち位置がわからなかった。

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