第4話

 桜は日本を代表する女優だった。しかし、今やその身体は病魔に侵され舞台に立つことすらできず、短い余命を消化する日々であった。穏やかで無機質な日々は桜に昔のことばかり思い起こさせた。

 物語は老年の桜が一人、家から海を見ているシーンから始まる。

『海が今日も青いわ...子どもの時もこんな景色を見ていたの。夏になると裸足で駆け出して、足首に感じる水の感触に騒いで...』

 椅子に腰掛けながら遠い海を見続ける。

『...不思議ね。今じゃ海を見ても何も感じないのよ。きっとあの頃とは別の人間になってしまったのよね...誰かの人生を生きすぎて、自分を忘れてしまったのかしら』

 桜は立ち上がり、窓際まで近寄る。最近は体を動かすのもやっとのことである。

『生きてきたわ、私』

 小さく落ちた言葉が波の音と混ざり場面が切り替わる。

 時代は遡り、人混みが現れる。

『ああ、ごめんなさいごめんなさい!ちょっと通してくださーい!』

 人混みの後ろから手を伸ばす制服を着た少女が若き日の桜の姿である。

『人の数すごいな...わわ、ちょっと押さないでってば!』

 桜を始めとする多くの人が集まっているのは都会の大きな劇場、『ヒノワ劇場』である。日本の演劇を担う場所であり、時代を代表する役者たちを次々と排出する劇場だった。そんな『ヒノワ劇場』の存在は役者を志す者の憧れであり最終地点でもある。

 桜もまた例外ではなかった。女優という職業が地位を確立し、エンターテインメントの花形として君臨している今日、桜はその輝きに憧れて日々を過ごしていた。

 そして今日、桜が『ヒノワ劇場』に来たのはとある理由があったからだ。

『おい、見ろあれだ!国塚はるひだ!』

『本物!?本物だ、本物の国塚はるひだ!』

『きゃー!素敵だわ、はるひさーん!』

 劇場の玄関にある階段を降りてある一人の女性が現れる。

『....本物だ...本物の国塚はるひ...憧れの大女優...』

 国塚はるひは現在の日本の中で最も輝く女優である。その美貌と芝居、そして歌唱、その舞台の上で表現される全てにおいて彼女は最高の存在だった。

 そんな彼女は太陽の女優と称された。

 国塚は集まったギャラリーに対し笑顔で手を振った。彼女が微笑むとギャラリーが一層湧いた。

 遠路はるばる都心の劇場まで来た甲斐があった。遠目ではあったし人の頭の隙間からしか見えなかったけれど、その姿を一目でも見ることができて良かったと桜は帰りの電車の中で振り返った。

『いつか私もあの劇場に立つ!その劇場の舞台で一番光る輝きに私もなるの!』

 女優への憧れは人一倍ある桜だが、そう簡単には動かないのが現実というものである。

 場面は学校で同級生と談話をしているシーンに切り替わる。

『桜、この前「ヒノワ劇場」行ったんでしょー?どうだった?』

『国塚はるひには会えた?やっぱり美人だったー?』

 友人が桜に詰め寄る。

『会った、ていうか、見ることはできたよ。すっごい美人だった!それになんていうか、雰囲気が違うのよ、もうなんていうか、すっごいのよ!』

『やっぱりそうなんだー!一緒に行けば良かったなー!』

『ほんとほんと!こんな田舎にいる限り、あんな美人には絶対に会えないんだから、行っておけば良かったなー』

 桜の住む街はお世辞にも栄えているとはいえない。あるのは畑と学校と地域の暖かさだけだで、娯楽といえるものは存在しない街だった。

『はー、この街にも誰かこないかなー』

『無理無理。こんな寂れた街には美人も男前も来ないし、生まれもしないわよ』

『そんなことないわよ!隣のクラスの進藤くんかっこいいじゃない、彼だってこの街の生まれよ?』

『でも、顔がいいだけでは役者にはなれないわ。ね、桜もそう思うでしょ?』

『え!?...ああ、うん。そうだね...』

 娯楽のない街。だからこそ桜は自分が抱いている夢を誰かに言うことができなかった。役者になりたいなんて言えば、きっと笑われて否定される。親からもなんと言われるかわからない。勘当されることだってあるかもしれない。もし認められて女優を目指すことができたとしても、都心で一人生活するというのも現実的ではなかった。

 桜が抱いた夢はやはり夢でしかなく、現実にはなり得ないものだった。

『あ、でもこの前私面白いことを聞いたのよ』

『面白いこと?』

『新しい劇場がこの街にできるって噂よ!』

『劇場?』

 桜は顔を友人たちの方に向ける。

『この前お父さんが言ってたのを聞いたのよ。なんでも、隣町にできる予定だったんだけど、それが上手くいかなくなってうちにできるんだって!』

『嘘、もしそれがほんとだとしたら、本物の俳優女優に会えるってこと?きゃー!すごいわね、桜!』

『う、うん。すごい...』

 この街に劇場ができる。憧れの世界が身近に存在する世界が来るのだ。きっとたくさんの役者たちがやってくる。これまで新聞で見た有名な役者がわんさとやってくるのだ。そして、いつかは自分もその舞台に立つことができる。桜は胸を躍らせた。

 しかし、すぐに現実に引き戻される。

『楽しみだね、桜!』

『....そうだね』

 憧れの世界が身近になればなるほど、自分との間に広がる差が明らかになる。

 私は舞台に立てない。私が見た夢は、ほんの少しだけ大きくて自分の腕で抱えられなかっただけ。落として当然の荷物だったのだ。叶えられなくても悔しくなんかない。当然の出来事だったのだ。ほんの少しだけ夢を見て、好きになってしまっただけなのだ。

 場面切り替わり、町中が大騒ぎの情景が広がる。あるお知らせが街に飛び込んできたのだ。

『新劇場設立 その名は「カオウ劇場」』

 街の人々は新たにできる街の娯楽施設に対して興奮していた。しかし、桜はその大きな見出しではなく、本文の方に心を奪われていた。

『この新劇場設立に伴い、新たな劇団の結成、そして新たな才能を発掘するためにオーディションを行うことを決定した』

『「舞台に憧れる者の参加を心から期待する」...これだわ、これしかない!』

 桜はビラを胸に抱きながら強く宣言する。

『私はこの劇場の舞台に、一番最初に立つわ!』

 桜は駆け出していく。

 暗転ののち舞台は桜の家に変わる。そこには卓を囲んだ父と母の姿がある。

『お父さん、お母さん...あの、ちょっと話があるのだけれど』

『なあに?』

 父は何も答えず新聞に目を通していた。

『あのね私、役者になりたいの』

『なんですって?』

 母の顔が怪訝そうに歪んだ。父は未だ新聞から目を離さないままだ。

『役者って...女優になるっていうの?』

『うん』

『どうやってなるのよ、まさか都会に行こうとか言うんじゃないわよね?無理よ、そんなお金、うちのどこにもないわ』

『わかってる。...だから、「カオウ劇場」に立とうと思う』

『「カオウ劇場」?...ああそういえば、新しくできるところの...でも、どうやって立つっていうのよ?』

『オーディションがあるの。それに応募して合格すれば立てるわ』

『あのねえ桜。合格するってことはそんな簡単なことじゃないのよ?「カオウ劇場」はあの「ヒノワ劇場」の系列の劇場って聞いたわよ。そのオーディションなら全国から才能のある人たちが集まるってことよ。そういう人たちを抑えて素人のあなたが合格するなんて、天地がひっくり返るくらいのことなのよ。それをわかってるの?』

『それは...』

 言葉に詰まった桜に母は息を吐いてから父に話題を振る。

『ねえ、お父さんはどう思います?』

 父は呼びかけられてもなお新聞を見ている。

『若いうちに挫折なんてするもんじゃないでしょう?だから、オーディションなんてものは...』

『受ければいいんじゃないか』

 桜は俯いていた顔を上げる。父はなおも誰とも目線を合わせることなく言った。

『やりたいようにやればいい。それともなんだ、母さんは桜の夢に反対なのか?』

『い、いや...そういうわけではないけれど...』

『ならいいじゃないか。好きにさせてやれ』

 そして父はまた沈黙に戻る。

『お父さん...ありがとう』

 舞台暗転。場面は再び老年の桜が現れる。

『そうよ、私、女優が夢だった。父が背中を押してくれて、オーディションに会場へ向かったの。ええ、そうよそうだわ。絶対に反対するだろうと思っていた父が賛成してくれたものだからとても驚いたのよ』

 桜は当時を思い出して顔をほころばせる。しかし、すぐにそれが消える。

『でも、母が言った通りだったのよね。結局、相手は限りなくプロに近い人たち、私なんかがオーディションに受かるわけなかったのよ』

 再び暗転。少女桜が舞台上に立っている。場面はオーディションに移る。

『ありがとうございました。おかえりください』

 それから少ししたあと、桜は不合格通知を受け取った。

 桜は立ち尽くす。

 静寂の舞台の中、桜の目から涙が零れだす。

『ほら、やっぱり夢だった。夢だったのよ。神様は意地悪ね?随分長い夢を見たせいで、自分がそこに行けるような気がしていたの。全く、とんだ迷惑だわ...。おかげで、なくなった途端涙が止まらないじゃない...本当に、困っちゃうわ』

 桜は力の入らない足で前へ踏み出していく。

『でもほら、私舞台に立ったわ。あれほど憧れた「カオウ劇場」の舞台よ、スポットライトだって浴びたの。夢は叶ったじゃない、何も悔やむ事なんかないのよ。あれほど望んでた事じゃない...そうよ、夢は...』

 桜は足を止める。

『夢は...終わったのね』

 桜は袖に向かって歩きだす。

 舞台に老年桜が登場する。

『自分の夢は終わったと思ったわ。でも、心の整理なんて全然つかないものなのよね。それを自分で一番わかってるくせに、必死で言い聞かせて、そうだって思わせ続けたのよ。若さの象徴そのものだったわ』

 桜は椅子から立ち上がる。

『でもね、やっぱりそういう諦めきれない夢って、絶対に終わらないのよね』

 場面は再び少女桜の時代へ。

 それから一ヶ月後、旗揚げ公演のキャストが公開された。新しく設立された劇団の名は『劇団サクラ』。

『おんなじ名前なんて、神様はどこまでも意地悪よ』

 桜は記事が載っている新聞を広げた。

『新公演に当たってスタッフ募集ですって。は、笑えるわ。誰が自分を落とした劇団の手伝いなんてしてやるものですか。目の前で芝居に明け暮れる役者たちを拝むことになるのよ?毎朝劇場に出入りして、間近で役者の生の演技が見られて、作品が出来上がっていく過程を見ることになるなんて...』

 桜は新聞から顔をあげる。

『これだわ...!』

 桜は劇場の門を叩いた。

『すみませーん!スタッフ希望の者なんですけど!』

 劇場の門が開く。

『いきなりなんだいあんたは』

『あ、こんにちわ!私この劇場のお手伝いがしたいと思って来ました!よろしくお願いします!』

『おい大声出すな!今中で稽古をしてるんだ、わかるだろ!』

『ああっとそうよね...公演のお手伝いがしたいんですけど、なんでもいいので今すぐ...あ、でもできれば舞台に近いところで!』

『要望が多い嬢ちゃんだな...そうだなあ、今足りてないのは...』

『そうですね、大道具とか照明とかがいいですね!』

『清掃員だな。よろしく嬢ちゃん』

『...え!?清掃員!?ちょ、ちょっと待ってください!私、舞台に近いところがいいんですけどー!』

 桜はそのまま門をくぐり劇場の中へ入る。

 劇場に入った桜は先ほどの応対の男から掃除用具一式を渡される。

『劇場の掃除は君に託した。その辺とかホコリ溜まってるから念入りに頼むよ。そんじゃよろしく』

『ちょ、ちょっと、それだけですか?って、そうじゃなくて私は舞台に...って、ああちょっと!』

 男は消える。舞台には掃除用具を抱えた桜だけが取り残される。

『いいわ。わかった。掃除しろって言うんでしょ?やってやるわ劇場中....そうよ、劇場中よ...!』

 舞台は変わり稽古中の役者たちが映る。その中に先ほどの男が入っていく。

『みなさん順調ですかな?』

『ああ、こんにちは支配人。ええ、順調ですよ。この劇場に馴染んできたところです』

『それは良かった。しかし、あの件はどうしましょうか』

『ああ、それは...』

『私が自ら説明するわ』

 役者と支配人が話す中に割って入ったのは国塚はるひだった。

『国塚さん...でも』

『別に何も嘘を言ったわけではないわ。私たちは、新しい才能を発掘すると言ったのよ?でも、今回のオーディションにそれは見受けられなかった。だから合格者はゼロなのよ。嘘なんて一つもついてないわ。隠す必要もないし、つもりもないわ』

『それはそうですけど...』

『いいのよ。私が出ればそんなことどうでもよくなるわ。だって私は、国塚はるひなのよ?』

 国塚が前に出る。

『最高の女優以外に、何が必要だというの?』

 バンと劇場の扉が開く。全員音のした方に目を向ける。そこには桜が立っていた。

『き、きみ!ダメだろここまで入ってきちゃ!』

 支配人が言う。

『お掃除にきました!』

『ここまでやれとは言ってない!』

『本当にそうでしょうか?私、劇場中を掃除しろと言われました。この場所も十分劇場です、と言うか、この場所こそ劇場です!』

『屁理屈を言うな!いいから、早くこの場所から去りなさい!見ればわかるだろ、稽古中だ!』

『それがわからないほど馬鹿じゃないで...ってうわ!国塚はるひ!本物!?』

『ああやめろやめろ、本当にさっさと出ていくんだ!』

『国塚さん!私あなたの大ファンなんです!ってちょっと、おじさん何するんですか!やめてください!』

『いいから早く出て行ってくれ!ああごめんなさい国塚さん、ちょっと変な人が入り込んでしまって...』

 支配人が桜を扉から追い出そうとする。

『別にいいじゃない。掃除に来たんでしょう、その子。神聖な劇場を汚したままにしておくのはできないわ。お嬢さん、しっかり掃除してちょうだいね?』

 ぎゅうぎゅうと背中を押されていた桜はパッと表情を明るくする。

『は、はい!精一杯頑張ります!』

 桜は掃除用具を抱えて掃除を始める。

『ちょっと国塚さん!』

『構わないわ。見られて減るものでもないでしょう?』

『そういう問題じゃないでしょう!』

『いいのよ。演劇はやっぱり、一人でも観客がいた方が燃えるわ』

 暗転。

『こんにちはー!』

『また来たのかね』

『来ますよ!だって私、ここの清掃員ですから!』

 支配人はげんなりした顔を浮かべる。そこへ役者たちがやって来る。

『おお桜ちゃん、今日もお掃除?』

『はい!』

『いつもありがとねー』

『いえ、私の仕事ですから』

 清掃員として通い詰めること早一週間。桜は徐々に劇場に馴染んでいた。

『あら、今日もいるのね』

『く、国塚さん!こんにちは!』

『どうも』

 国塚は小さく桜に礼をする。桜は深く礼を返した。

 全員が劇場内へ消えていく。桜は門の前に一人残され、モノローグが始まる。

『国塚はるひはやっぱり最高の女優だった。掃除しながら稽古を見たとき、この人だけやっぱり別の場所に立っている気がした。この人だけが本物の女優なんだ、最高の女優なんだってわかった。セリフ回しも仕草も歌も、全部完璧。多分、掃除してなかったらそのまま泣いていたくらい。でも、一つだけ気になることがあるの』

 桜は門の方を振り向く。

『オーディションで選ばれたはずの人がどこにもいないの。もしかして、何か不備があったのかしら』

 門から支配人が顔を出す。

『ほらお嬢さん。何をやってんだ、さっさと中に入って掃除しなさい』

『は、はい!』

 場面は稽古終わりへ切り替え。掃除中の桜へ支配人が声をかける。

『あんた、外はもう暗い。今日はもう帰りなさい』

『ああほんとだ。お疲れ様でした』

 小さく手をあげて支配人が去っていく。桜は掃除用具を抱えて帰りの準備をしようとした。

『さて、私も帰りますかね』

『ねえお嬢さん』

 桜が振り返った先には国塚がいた。

『何かご用ですか?』

『ええ。お掃除をお願いしようと思って』

『掃除ですか?でも私、もう帰らないと。明日でもいいですか?』

『ステージの掃除なのだけれど』

『...え?』

 国塚はニヤリと笑う。

『お願いできるかしら?』

 場面切り替え。桜と国塚、劇場の中へ。国塚は観客席に座る。桜はその横に立つ。目線は舞台上を見つめる。

『ステージが少し汚れてきてるのよ。ここだけはあなたが掃除しないものだから』

『...すみません』

『あなた、劇場中を掃除してるじゃない?」

『はい』

『言われてないところまで必要以上に綺麗にするのに、ここだけは触ろうともしなかったのは、どうして?』

 桜は言い澱む。

『舞台は、役者が立つところですから』

『清掃員が立たなきゃ、舞台はずっと汚いままよ?それでもいいの?』

 桜は黙る。それを見た国塚は話題を変える。

『オーディション、あなた応募してたでしょう』

 国塚を振り返る桜。

『あのオーディション、私が審査したのよ。気づかないとでも思った?』

『...はい、受けて、落ちました』

『ええ。知ってるわ。でもね、それはあなただけじゃないのよ。というより、全員がそうなの』

『全員?』

『あのオーディションに受かったのは誰もいないのよ』

 国塚が立ち上がる。

『あのオーディションは才能を見つけるためのものだったの。でも、今回その才能が見つからなかった。だから合格者はゼロ』

 桜は俯く。

『でも、やっぱりこの舞台には必要なのよね』

 桜は顔をあげて国塚を見つめる。

『新しい風よ。それは才能なんかじゃなくて、役者や芝居への情熱に溢れた人じゃなきゃいけない。私だってそうだったんだから。どんなに芝居が上手くて、歌が上手くても舞台になんのプレッシャーも持たずに登るような人間、信用できないものね?』

 国塚は手を舞台上へ広げる。

『桜さん』

『はい』

『もう一度、舞台に立ってみたくはないかしら?』

 桜は国塚を見た後、舞台上に駆け上がった。

『私...私!この街の生まれで現在中学生兼劇場の清掃員をやっています!だけど...女優を目指しています!精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします!』

 暗転。舞台はその後の稽古を描いていく。

『え、結局新人起用するんですか!?』

『しかも桜ちゃん!?本気ですか?』

『もちろん本気よ。だから台本も元の形に戻す。今からもう一度覚え直しておいてね』

『そんな...』

『できないわけないわ。私はできないことは言わない。あなたたちは最高の役者だもの、できるって信じているわ』

 役者たち、国塚に頷く。国塚は桜に顔を向ける。

『桜さん。厳しくいくけれど、覚悟はいいかしら?』

『はい!もちろんです!』

 場面次々に切り替わる。桜のモノローグが要所に入る。

『そこから一ヶ月間、私と劇団のみんなは全力で本番まで駆け抜けた。もちろん、私はみんなの何倍も全力で走らないと置いていかれてしまいそうになった。でも、そのたびにはるひさんが、みんなが支えてくれた』

『「この命に代えても、私は...」』

『違うわ桜さん。そこはもっと情感豊かに言うべきよ』

『情感...!はい、わかりました』

『じゃあ次、もう一回おんなじところ』

 切り替え。

『うう...台本覚えられない...』

『その役のことを考えなさい。そうすれば、簡単に入ってくるわ』

『天才女優と同じ能力を全員が持っていると思わないでください』

『言い訳なんてしてないで役のことを考えなさい』

 切り替え。

『はるひさーん!ここちょっと相談なんですけど..』

『...ああここは...そうね、自分で思った通りに演じてみなさい』

『え、でも...』

『ここはその方がいいのよ』

 切り替え。場面は本番前日の稽古終わり、桜一人舞台の上に寝転んで照明をじっとみていた。そこに国塚がやってくる。

『帰らなくていいの?』

 桜が国塚を振り返る。

『明日、この席全部に人がいるんですね』

『ええ。チケットは完売だからね。...怖い?』

『思っていたよりもずっと』

『そう...』

 国塚が舞台に寝そべる。

『初舞台の時、私、直前まで足が震えてた』

『え?』

『何をしても全然緊張がほぐれなくて、こんな状態で舞台に立てるはずないって思ってたの。お客さんの前に出たら、きっと私セリフを言えない、声も出ない、歌なんて絶対に歌えないって本気で思ったわ』

 桜は静かに国塚の話に耳を傾ける。

『でも時間は進むものだから、出番が来ちゃったのよ。袖に来た時ももう無理って思ってたんだけど、舞台上の光を浴びた瞬間に全身の震えが全部止まったの』

『どうしてですか?』

『だって私、お芝居が好きなんだもの。世界で一番好き。お芝居をやってる時は何にも怖くないの。あなたもそうじゃない?』

 国塚は手を照明の方へ伸ばす。

『一番好きなことをやってる時が一番自由よ。それは誰であっても変わらないわ』

『私もですか?』

『もちろんよ。だから、きっと明日の舞台は素敵なものになるわ。だって、私とあなたが出る舞台ですもの。芝居を愛してる私たちが出る舞台が、失敗するわけないわ』

 桜も手を伸ばす。

『明日の舞台、楽しみです』

 暗転。場面は翌日へ。

『行ってきます!』

『いってらっしゃい。お父さんと二人で観に行くから』

『...うん!観ててね』

 家を出た桜は劇場へ向かう途中で友人たちに出会う。

『桜ー!観に行くよ!』

『頑張ってね!楽しみにしてる!』

『ありがとー!』

 桜は劇場に着くと門の前で足を止める。

『よろしくお願いします!』

 深々と礼をした後劇場内へ入る。そこには支配人がロビーで準備をしていた。

『おはようございます!』

『おう。桜さん、これ』

 支配人が桜に差し出す。

『これは...?』

『桜の枝だ。劇場の裏の方に咲いてるだろう?あれを少しもらったんだ。どうしてもあんたにこれを渡したくてね』

 支配人はロビーを見渡したあと言う。

『この劇場は「カオウ劇場」だ。「カオウ」とは花の王と書く。これの意味がわかるかい?』

 桜は首を振る。

『花王とは、桜のことなんだよ。牡丹をさすこともあるが、花の王様として日本では桜が扱われてきたんだ。本来は春に出来る予定だったからそう名付けたんだが、そうもいかなくなってね。でも、それで結局は良かったんだ』

 支配人は桜の方を見る。

『ここにできたことで、あんたに出会えた。「カオウ劇場」の「劇団サクラ」にぴったりな女優が生まれたんだ。それもとても素敵な女優になってくれた。ありがとう。君があの時、門を叩いてくれて良かった。心からそう思うよ』

 支配人の言葉に桜は涙する。そして差し出された枝を受け取る。

『まだですよ。まだ私は、女優じゃない。舞台に立ってようやく、人は役者になるんだから』

 暗転。劇場内が歓声に包まれる。

 第一幕が終了。第二幕へ続く。

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