第2話

 杉野小春は春を探していた。もちろん、自分の名前にある文字としての春ではない。人生の春のような輝きを示す比喩としての春である。

 幼い頃、親に連れて行かれて見に行ったアニメーション映画を元に構成された舞台に幼いながら衝撃を受けた。

 この世界そのもののように思えるほどの舞台の広さ、衣装の壮麗さ、体に直に響いてくる音楽、そして何より、役者達の輝き。

 この場所に立つことこそが、自分の人生だと思った。

 だからこそ全力で走ってきた。

 しかし、芽が出なかった。

 子役のオーディションは何度も受けた。でも、一度として受かったことがなかった。最終審査まで残っても、最後は必ず不合格の通知を叩きつけられた。

 あと一歩、あと数センチのところまでは手が届くのに、ほんの少しの壁を超えられたことは一度もなかった。

 そんな小春を両親達は信じていた。幼いなりにも自分の夢を見つけ、人一倍の努力をして前へ進もうとする彼女を心から応援していた。小春が全力になればなるほど、それと同じ熱量をその背中を押す力にした。

 しかし、生物が全力で走り続けることができないように、両親達は息が切れて限界を迎えてしまった。どれだけその背中を押しても、最後は必ず届かない。子供の頃から夢を追い続けた小春も、芽が出ないまま18歳を迎え、高校を卒業する時期にきた。両親に娘の夢を応援する気持ちはある。だが、もう小春よりも年下の新人達が出始めてきている時期だったのも事実だった。もう潮時だと本能的に感じ取ってしまったのである。

 そして両親は彼女に告げた。

『大学を卒業するまでに結果を出すことができなかったのならば、普通の人生を歩みなさい』

 そんな両親の意向を小春は受け入れた。

 両親の言い分に小春は全く反発しなかった。それは小春自身が思っていたことでもあったからだ。

 18歳という数字に面したとき、小春は漠然と、だがどうしようもなく焦りを感じた。テレビや雑誌で見る役者達のほとんどはすでにこの歳で何かしらの結果を残している。だが、自分はまだなんの足跡も残すことができていない。振り返ってみても、歩んできた歴史の証拠がどこにもないのである。

 だからこそ、両親の告白は心のどこかで安心していた。闇雲に走るレースよりもゴールが見えた方が全速力で走ることができる。最後の追い上げが大学生活だった。小春自身も、すでに息が切れていたのである。

 そして走り続けること三年と少し。刻々とタイムリミットが近づく中、ある情報がインターネットで公開されていた。

『橘八千代主演ミュージカル「STAGES」 新人オーディションのお知らせ』

 橘八千代は小春もよく知る女優だ。国民的な大女優で舞台だけではなく映画にも多く出演している。若いときからその演技と歌は一級で、小春も憧れの女優だった。

 最近はあまり主演として見ることはなかった上にミュージカルならば絶対に素敵な作品になるだろう。小春は内側に火が灯るのを感じた。

 募集要項をクリックし、役を確認する。今回の役どころは橘が演じる主役の少女期から青年期。年齢は15歳から22歳が対象だった。

 小春はつい先月誕生日を迎え、22歳。ぎりぎり応募の対象の内に収まっていた。

 もう大学四年の6月。すぐに暑い夏がきてあっという間に四季を進める。もし普通の人生を歩むのだとすれば、卒業後の生活のために動き出さなければならないことも増える。時期的にもこのオーディションが最後のチャンスだと本能で悟った。

 崖の淵まで追いやられた気分だった。これに落ちれば自分の夢は終わる。それだけでなく、これまで歩いてきた道も全てが閉ざされ忘れ去られる。自分の存在そのものが波に揉まれて二度と浮かび上がってくることはない。誰の目も光も届かない海底で眠る。

 どくどくと音を立てる心臓の鼓動を抑えながら小春は書類データをクリックした。

 合格の電話が鳴り響いたのは、それからしばらく経った秋の深まりを感じさせる涼しい風が吹く日だった。


 演劇界に春風が吹き荒れる。

 初舞台を終えたとき、衣装のセーラー服に身を包んだ写真と共に載ったのはそんな謳い文句だった。

 それ以降、八千代の代名詞は「春風」になり、度々この言葉とともに人々の目に触れた。舞台を公演すれば、春風を用いた批評文が新聞や雑誌に載り、インタビュー記事の題には決まってこの言葉が入っていた。そのように評したのは観客となりうる人々だけでなく、共に作品を作る演者も同様だった。

 八千代自身、自分のことを穏やかな人間であるとは思う。だが、春風は言い過ぎだとも思っていた。そのように評してもらえるのはありがたいが、どうも過大評価のように思えてならなかった。

 特に、デビューしたての頃は一層そう感じていた。

「八千代ちゃん、ちょっといいかい?」

 静かな部屋の中に響いた声に現実に連れ戻される。八千代は手に抱えていた紙の束を仕事机に置いて声の主の方に顔を向ける。

「ええ。何かしら?タケちゃん」

 真っ白な髪を撫で付けた強面の彼は、今回脚本を依頼した黒木威仁である。彼自身も日本を代表する名優であるが、その活躍は脚本や演出といった面でも知られている。八千代とは古い付き合いである貴重な友人だ。

「どうだいそれは」

 黒木は目で仕事机の上にある紙の束を指す。

「とっても素敵よ。読んでいて昔のことを思い出してしまったくらい。ああでも、少しだけ気になるところがいくつかあったのだけれど...」

「もちろんだ、なんでも言ってくれ。じゃなきゃ、俺が書く意味がないからな」

 ありがとう、と八千代は小さく言ってもう一度机の上の台本を捲る。

 黒木を招いた理由は脚本の大まかな形ができたという報告を受けたからだった。

 物語は死を目前にしたある女優の回想という設定である。自分の生命がもう長くないと悟った主人公は、穏やかな日常の中で自分の人生を振り返り、時間が巻き戻る。

 始まりはまだ世界が今ほど明るくなかった、生き急ぐほどに世界が急速に変わっていった時代だった。そんな時代に主人公は育ち、大きな夢を与えられた。その夢が女優だった。舞台に立ち、人々の感情を動かす存在に少女は強く憧れたのである。しかし具体的な策は思いつかず、どうすればあの舞台に立てるのか、どうしたらあの光を浴びることができるのだろうか思案する日々を送っていた。

 しかしある時、彼女は新たな劇場ができるという情報を入手し、その舞台に上がるために努力した。だがそう上手くことは運ばず、紆余曲折の末にようやく彼女はその舞台に立つことになる。

 舞台と一体となった彼女の人生はどのように終わりを告げるのか。これを結末に舞台は終演する流れとなっている。

「しかし、八千代ちゃんが引退とはね。聞いたときは驚いたよ」

 黒木が八千代の手元の台本の赤子を見つめながら言った。

「だってもう、舞台に立ち続けられないの。女優としての私は、もうすぐ死ぬのよ」

 橘八千代の人生はおそらくもう少しだけ続く。だが、女優としての橘八千代の死は目前に迫っているのだ。その姿は台本の中の主人公と正確に重なっている。

「...みんな残念がるだろうね、演者もスタッフも。君の旦那さんもね」

 八千代はページをめくり続けていた手をピタリと止めた。

「...そうね...きっと悲しむわ」

 八千代は仕事机の上にある写真立ての中の人物たちに目をやった。どこまでも青い空を背景に、二人の男女が微笑んで立っている。

 女性の方は八千代自身、男性は橘和彦という、八千代の生涯の夫だった。

「和彦くんは八千代ちゃんのお芝居が大好きだったから...一番悲しむだろうね」

 黒木が静かに言う。八千代は言葉を紡ぐことなく頷いた。

 和彦は舞台監督を生業にしており、監督という立場でありながら八千代のファンだった。八千代とは共演をきっかけに交際しのちに結婚。八千代が24歳、和彦が30歳の時だった。

 和彦は八千代の一番の理解者だった。それは一人の女性としてのでもあり、一人の女優としてでもあった。女優としての八千代を誇りに思い、妻として八千代を愛し続けた。これまでどちらか一つだけを実現してくれた人には何人か会ってきたが、どちらの立場でも変わらず接してくれたのは和彦だけだった。

「結婚した時はまだ彼が助監督の時だったわねぇ」

「あん時は驚いたよ。てっきり八千代ちゃんと結婚できるのは当時勢いのある俳優か大富豪だけかと思ってたからな。俺だけじゃない、国民全員そう思ってたんだ」

「それは大げさよ」

 八千代にとって和彦は陳腐な言葉だけれど、紛れもなく太陽だった。彼が世界を照らし、あらゆるものが芽吹いていく。それは八千代の世界だけではなく、彼の作品も同様だった。人間の繊細な感情を緻密に、けれど劇的に描き出し人々の心を育てるような作品を彼は撮っていた。

「もう少し、長いと思っていたわ」

 八千代は写真をよく見ながらぽつりと呟く。黒木はそれに応えることなく静かに写真立てを見つめていた

 3年前、八千代の隣にあった温もりは姿をなくした。いつか来るものだとは思っていたけれど、急性心不全で別れは突然だった。突然太陽がなくなった世界は酷く冷たい世界になり、八千代の心も酷く枯れた。

 春風と呼ばれた女優には、暖かい風なんかどこにも吹いていない。人生の冬は全てここにあると思っていた。もし自分が春風ならば、こんな冷たさ感じるはずもない。随分久しぶりに八千代は代名詞を憎んだ。

 それでも、時間というのは残酷でありながらも便利なものである。少しずつだが前に進むことが出来てきている。

「慣れてきたけれど...ふとした瞬間に思い出すのよ。一人で家にいる時、あら?こんなに家は静かなものだったのかしらって。いまだに自分以外の人間がいない家っていうものが不思議だわ」

 八千代は写真立てを手に取る。彼が亡くなる一年程前に撮った写真の中の自分は、思っていたよりもずっと笑えている。その事実に気づいたのは彼がいなくなってすぐのことだった。

「失って気づくものよね。この世界はなんでもそう。どんなに大事に思っていたものでも、やっぱりなくしたときに一番感じるのよ」

 八千代は写真立てを机の上に戻す。そして黒木の方を向いて笑顔を浮かべて言った。

「タケちゃんも絶対そう思う日が来るわよ。どんなに喧嘩が絶えない夫婦であっても絶対そうなるわ。美佳ちゃんがいなくなったら、絶対タケちゃん困るんだから!」

 言われた黒木は苦い顔を浮かべた。美佳は黒木の妻で、いつも何かしらで揉めている。しかし、本当に相性が悪いなら半世紀も一緒にはいないはずだ。なんだかんだで良い夫婦なのである。

「そんなことないさ。アイツがいなくなりゃ清々する」

「またそんなこと言って!」

 黒木は居心地が悪そうに部屋を出ていく。その後ろ姿が随分と幼く見えて、八千代は小さく笑った。

 一人になって静かになった部屋の窓から見える空は高く青い。八千代はあの写真を撮った日もこんな青空の日だったことを思い出す。

「あなたが愛してくれた橘八千代はもうすぐいなくなるけれど...それでもあなたは私を待っていてくれるかしら?」

 赤く染まった葉がひらりと窓のすぐ向こうで揺れた。

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