STAGES
一日二十日
第1話
人間は人生という舞台の上に立っている。
橘八千代にとってその言葉はものの例えや比喩でもなく文字通りの意味だった。
15歳で初舞台を踏み、そこから約60年間立ち止まることなく人生を生きてきた。舞台に限らず映像の世界も経験してきたが、やはり自分の居場所は舞台の上であると思う。舞台に立っていることこそ存在証明、残してきた作品が生きた証拠だった。
女優こそが私の人生。そう思い続けてきた人生だった。
しかし、それももう終わりが近づいている。
「どうも最近、調子が悪くてね」
暖かい春の日、自宅兼仕事場でお気に入りのベルベッド地のソファに腰掛けながら八千代はマネージャーの角田にそうこぼした。突然の申告に角田は眼鏡を押し上げながら聞き返す。
「調子、ですか」
「うん。だからね、引退しようと思うの」
角田は口に運んでいた紅茶を飲み干すことなくだばだばとピシッと着こなしたジャケットに零した。
「い、引退!?」
「あら、いきなり大声出さないでちょうだい?びっくりしてしまうわ」
八千代は紅茶に濡れた角田にハンカチを差し出した。
「ああ、すみません...ほ、本気で言ってますか?」
差し出されたハンカチを受け取りジャケットに押し当てながら角田が聞いた。それに八千代は静かに頷く。
「本気よ。だって私、もう75になるのよ?立派な高齢者だわ」
言いながら紅茶を口に運ぶ。十分冷めたかと思って口に含んでみたが、まだまだ舌先を焼くくらいに熱かったため、顔を顰める。
「で、でも、どこかが悪いというわけでもないのでしょう?この間お医者様に見てもらったときだって、別に問題はなかったって言ってたじゃないですか!それに、まだまだ仕事のオファーは来ますし...」
角田は泣きそうな目で説得を試みた。しかし、八千代は首を横に振った。
「オファーはあっても、それをこなせるような体力がないのよ。最近は特にね...悲しいけれど、老いには抗えないのよ。あなただってわかっているでしょう?最近は断る仕事が多くなってること」
八千代の言葉に角田は言葉を失った。八千代のスケジュールを管理している角田がそれを知らないわけがない。
徐々に現実を受け入れ始めたのか、角田の肩ががっくりと落ちていく。彼はもう何年も前から八千代についてくれたマネージャーだった。苦しい時もあったが、お互い支え合ってここまで歩いてくることができた。自分の引退が決まるとなれば、彼と一緒にできる仕事もなくなる。
不意に目頭が熱くなる。しかし、それをぐっと飲み込み角田に声をかける。
「そんなに落ち込まないで。何も、いますぐ辞めるわけじゃないのよ?」
八千代は俯いた角田の顔を覗き込むようにした。すると、久しぶりに近くで見た彼の顔は、深い皺を刻んで時間の流れを感じさせた。
八千代は改めて人生の長さを知った。今自分がいる場所はその人生のゴールにとても近い場所なのだ。そして、女優としてのゴールはもう目の前まで来ている。
だからこそ、最後に一花咲かせたのだ。
「最後の舞台をやろうと思うの。それが終わるまでは続けるわ」
「最後の舞台...?」
聞き返した角田に八千代は優しく笑いかけた。
「私の人生そのものを描いた舞台よ」
それから数日後、自宅に呼び出した親しいスタッフたちに引退の旨を伝えた。角田にだけ先行して伝えたのは、彼が長い間自分のマネージメントをしてくれたという恩があったからである。
最初は驚いて聞いていたスタッフたちも、最終的には決断に納得してくれた。良い関係を築けていたという証明だろう、八千代は胸が温かくなるのを感じた。
「それで、その舞台はいつやりましょうか。せっかくの引退公演なんだし、盛大に...」
全員が納得したタイミングで角田が聞いた。
しかし八千代は首を横に振って答える。
「いいえ、世間には公表しないわ。橘八千代最後の舞台としてではない舞台として公園したいの。だって、私個人のことでわざわざそんな大ごとにする必要ないもの。もちろん、演者やスタッフには伝えるべきでしょうけど...」
八千代は静かに言葉を続ける。
「これは私の最後の舞台になる。でも、お客様にはそんな色眼鏡をかけずに見て欲しいのよ。女優としての私の最後の人生よ?心から楽しんでもらわなくちゃ、悲しいわ」
八千代はソファから立ち上がり、スタッフたちと目線を合わせる。古い付き合いの者、それほど付き合いは長くはないけれど慕ってくれた者。一緒にいた時間がどうであれ、深い愛を注ぎ、助け合った仲間たちである。
そんな彼らにも、最高の舞台で恩返しをしたいのだ。
「私の最後の舞台、協力してくれるかしら」
首を横に振る者は誰一人いなかった。
舞台のために人々が動き始めたある日の夜、八千代は静かな夢を見た。
真っ暗な闇の中に一人ぽつりと立っていた。ただ意識は明確にあり、体の感覚も老体とは思えないほど敏感に研ぎ澄まされている。それはさながら若い時の感覚そのものだった。
八千代は老いに対する嫌悪が見せた夢なのだとわかった。なにせ、最後の舞台を公演することを決めてから人生や老いというものを無意識のうちに考えていたからだ。心当たりは大ありだった。
(夢の中でもこんな風に動けるなら、それだけで幸せだわ)
今なら若い時のように舞台上を駆け回り、大好きなバレエも満足するまで踊れるだろうか。試してみたくなって、暗闇の中に駆け出した。
その途端、闇は大きな光によって一気に晴らされた。突然現れたその光の眩しさに夢の中であるにも関わらず目を閉じてしまった。
目を開けた時、八千代はスポットライトに照らされた舞台の上で、目の前の空っぽの観客席を眺めていた。
その景色に八千代は大いに心当たりがあった。
(これは、私が初めて舞台に立ったときの景色)
今はもうなくなってしまった地元の小さな劇場。橘八千代が女優として初めて立った舞台はこの場所だった。
逸る胸とわずかに震える手足を必死に隠しながら立った神聖な場所。慣れない感触の板張りの床、舞台の下からでは見えなかった薄暗い舞台袖の景色、そして、誰もいない観客席。
稽古のときに初めて舞台に立った時のことをよく覚えていたつもりだった。だが、こうして見ると色々なことが剥がれてなくなっていたのだということに気づく。
(こんなにも小さくてお客さんの顔が見える劇場だったのね)
八千代はその演技を評価され、徐々に女優としての立ち位置を確かなものにしてこの劇場とは比にならないほどの大きな舞台に立ってきた。もちろん、どの舞台であれ自分にとって大切なもので二つとない宝物だった。
しかし、時間が持つ力とは思っているよりもずっと強大で抗いようのないものだということを悟る。初めて舞台に立った時、この景色は絶対に忘れないと思っていたが、細かい部分はやはり欠落していくものだ。
(いやね、やっぱり。歳をとるっていうのは...)
八千代は両手を目の前に掲げる。両手を見て八千代はぎょっとした。
(な、何かしらこれは)
確かに自分の手の感覚があるその両手は白く細い指を持った皺一つないものだった。手は毎日見て使っている器官だ。八千代が現実で持っている手は筋張って皺が刻まれた老いを象徴するものだったのに、今自分の感覚がつながっているものはその真逆である。
しかし、異変はそれだけではなかった。
(この服...もしかして)
みずみずしい手から徐々に視線を下ろしていく。現れたのは黒い袖、そして胸元には白いスカーフが携えられていた。
八千代が実際に着ていた中学の時の制服だった。
八千代は慌てて顔をペタペタと触る。指先に感じる顔の感触はつるりとし、皺の感触はなかった。
初めての舞台、そして中学の制服に身を通した若き日の自分。およそ60年前の当時の状況を正確に再現していた。
(いやだわ、最後の舞台なんて考えてたからこんな夢を見るのよ。こんなのかっこ悪いわ)
歳をとることが悪いわけではない。八千代も老いを嫌悪はした。老いによって近々舞台に立つことができなくなる。だが、失ってきたものも多いけれど、その分人生に深みが出てくるものである。できなくなることが増えても、その分獲得してきた何かがあるはずだと八千代は信じていた。
でも、こんな夢を見るということはやはり心の奥深くでは若さに縋りつき憧れ、羨望していたのだろう。
八千代は自分を抱いた。若き日の自分を抱きしめた。目が覚めたとき、もうこの体はどこにもない。夢幻のその体は、自分のものではないように感じた。硬い布の下にあるはずの肌からは体温を感じない。まるで薄いガラスでできているようなその体は力を入れれば粉々に砕け散ってしまいそうだった。
(歳をとるって嫌ね...でも、それでも私は辞められないのよ)
煌々と自分を照らしていたはずのスポットライトは音も立てずに消えた。
目が覚めると、体はいつものように地球の重力を感じさせる出来になっていた。潤いに満ち満ちた肌はどこにもなく、掲げた両手は歴史を感じさせる代物だった。
ベッドから降り、カーテンを開けた。空は白んで朝の来訪を告げ、東の空には明星がきりりと瞬いていた。
それから半年後、舞台の情報がテレビで特集されていた。
『橘八千代さん主演ミュージカル、「STAGES」が来春に公演することが発表されました!豪華キャストで送るこの舞台は、一人の女性の半生を描く物語となっています』
『監督・脚本は橘さんとプライベートでも親交のある黒木威仁さんが担当するとの情報です!いやー、楽しみですね!』
「私も楽しみだわ」
テレビのワイドショーで取り上げられた自分のニュースに八千代は紅茶を用意しながら答えた。
脚本の黒木には八千代直々にオファーをした。黒木は20代の頃から共演の経験があり、それがきっかけで仲良くなったのだ。
信頼できる脚本と演者達、そしてスタッフ。そんな地盤で舞台ができることを八千代自身とても楽しみにしていた。しかし、八千代には拭えない一つの不安要素があった。
「ねえ角田くん、まだオーディション決まらないの?」
八千代はパソコン業務の休憩中の角田に問いかけた。今日は彼がベルベットのソファに腰掛けていた。
主役の少女期を演じる役者は新人を起用したいと八千代は告げていた。よって、数ヶ月前から募っていたのだ。しかし、そのオーディションが少し難航しているのである。
「ええ...候補に残った3人の中から選ぼうと思ったんですけど、みんな意見が割れてまして」
角田は眼鏡を上げて眠そうな目を擦りながら、傍のタブレットをちらと見た。おそらく、そこに仕事のデータが入っているのであろう。
「そうなの...ごめんなさいね。普段のお仕事もあるのに、体壊してない?随分目の下の隈が濃いわ」
角田の顔には疲れが如実に表れていた。急ピッチで舞台のあれこれを決めてくれたのは角田をはじめとするスタッフの活躍があったからだ。何もできないことの申し訳なさが込み上げてくる。
「いえいえ、仕事ですし。それに、これはやりたくてやってるんです。八千代さんは大好きな役者さんだし、今までお世話になってきましたから、そんな八千代さんの晴れ舞台を妥協なんて一切したくないんです」
「...ありがとう。そう言ってもらえるなら、女優をやっていて良かったわ」
役者として生きてこられたのは自分の力なんかでは断じてない。そこに関わってくれた人々の活躍があったからだ。その人たちにこうして思ってもらえるのはどんな賞をもらったときよりも心に刺さる。
すると角田が何か思いついたように目を見開いた。
「あ、そうだ。じゃあ、八千代さんも見てくれませんか?オーディションの様子。参考程度でもいいので」
すると角田は返事を待つこともなく傍のタブレットを操作して画面を表示してから八千代の方に向けた。
八千代は角田の隣に腰掛けてタブレットに注目する。
画面は動画の再生を待つ状態だった。
「えっと、まずこの子が最年少の子ですね。15歳の子です」
角田が再生ボタンを押した。すると、画面に細身の女の子が現れた。
『鳥取県から来ました。渋谷亜蓮です。よろしくお願いします』
画面の中の少女はそう言って深々と礼をした。
「15歳ですけど、彼女自身大人びていますし、身長もありますから子供っぽくは見えません。何より、驚くべきはその演技です」
「あら、そうなの」
八千代は画面に目を戻した。
『それでは、事前に渡した台本の台詞を読んでみてもらえますか?』
事前に渡した台本は黒木がオーディション用に書き下ろしたものだ。だが、物語の大筋はすでに八千代から聞いているため、仮決定の台本といったところである。
『はい』
渋谷亜蓮は呼吸を整えながらゆっくりと目を閉じた。一呼吸置いた後、彼女はその長い腕を前に伸ばす。
『私は...なんとしてでもあの場所に立つの...!腕を掴まれ、縛られようとも私は絶対に止まりはしないっ...!』
台詞の場面は物語の中盤、若き日の主人公が舞台に立つという夢が破れかけたとき、再生と進化を決意する場面だ。少女期の一番の見せ場であり、役者としての技量を計られる場面でもある。
渋谷亜蓮の大人びた顔は一瞬で思春期独特のぐらついたものに変わり、言葉一つ一つに拭いきれないほどの感情が溢れ出している。その細い体躯も相まって、危うさの中に現れた光というものをこれでもかというほどに表現している。
「すごいわ...15歳でここまで仕上がっているのも、なかなか見ないわね...」
強い意志を感じさせながらも内側で揺らめく小さな炎を宿している姿は、成熟しきっていない少女期を演じるにはうってつけの表現だった。
まさしく天才。たとえこのオーディションに選ばれなかったとしても、必ずその名前を日本の演劇史に刻む存在になるだろう。
「そうなんですよ。この演技力が高く評価されて彼女を支持する人も多いんです。ただ...」
角田はそこで言葉を区切った。八千代は不思議に思って画面から目を離し角田の方を見る。
「ただ?」
八千代の問いに角田は苦い笑みを浮かべて答えた。
「演技は申し分ないんですけど、歌はまだ経験がないみたいで...。今回はミュージカルでしょう?しかも少女期の主人公は一番歌う曲数が多い...もちろん、彼女の努力次第でいくらでも変わりまし、そうなるよう支えるつもりですけど...」
角田自身、彼女のように存在感のある人物に舞台に立ってほしいという思いはあったのだろう。だが、彼が追い求める理想に彼女は少しだけ足りていないのだ。
すると角田は無理に顔に明るさを持たせて八千代の方に向けた。
「八千代さんはどうですか?渋谷さん」
「そうねぇ...実際に会ってみなければわからないことも多いけれど...」
八千代は画面に目を戻す。画面の中でさえ、彼女は強さを感じさせるほどの存在感を持っている。その演技力もさることながら、これほどの存在感を持つとなれば舞台に立った時も自分の世界を作ることができるだろう。15歳でここまでの芝居まで仕上げているのなら、歌唱だって丁寧に育てれば相当なものになるはずだ。
しかし八千代は決断を下した。
「他の子も見ていいかしら?」
「...わかりました。えっと次は...この子です。後藤栞さん」
角田が再生ボタンを押し、画面の中に現れたのは先ほどの渋谷亜蓮に比べると随分と小柄な少女だった。
『愛知県出身、東京からきました。後藤栞です。よろしくお願いします』
軽やかに挨拶をした画面の中の少女が礼をする。体を起こした時の反動でボブの髪がふるふると揺れた。顔に浮かべた微笑みが印象的な少女だ。
「あらあら、可愛いお嬢さん。この子も10代かしら?」
「いえ、オーディションの2週間前に20歳になったそうです。かなり頭がいいらしく、有名な大学に通っているそうです」
「あらそうなの。すごい子なのねぇ」
八千代は画面の中の少女にすら見える女性に目を向ける。優れた容姿に加え、優秀な頭脳を持っているとは、まさに才色兼備。それに加え最終候補まで残るというのだから天は二物も三物も彼女に与えたということだろう。
「彼女もその存在感と高い歌唱力ですね。特に存在感のほうが魅力でして!」
「その言い草は、角田くんはこの子がいいと思うのね?」
的中したのか、角田は一瞬固まった。何か言い当てられた時、彼がこうして体を固まらせるのはずっと前から変わらない彼の癖だ。
八千代はその様子を微笑ましく思いながら、彼に問うた。
「どうしてこの子がいいと思ったの?」
角田は人差し指で頬を掻きながら答える。
「なんてったってその存在感ですよ。僕もこの現場にいたんですけど、その場を明るく和ませてくれる彼女の雰囲気!オーディション会場なのに思わずほんわかしちゃいましたよ。これはそうです!八千代さんのそれと全く同じなんですよ!」
わずかに頬を上気させながら角田が言った。途中から熱量が抑えきれずに握った拳をぶんぶんと上下させていた。角田は八千代のマネージャーでありながら、かなりのファンだ。自分が生まれる前から舞台に立ち続けている八千代のことを本人以上に知ってくれている。
そんな角田の様子に八千代は少し照れくさくて話を進める。
「それで、この子の歌っていうのは?」
「ああ、それはですね....ここからです。再生っと」
角田が少しコマを進めて再び再生ボタンを押す。
『それじゃあ、課題曲お願いします』
『はい』
すうっと音を立てて彼女は歌い始めた。その見た目からは想像できなかったが、声は意外と伸びやかで芯のある歌声で強い意志を感じさせる。
「まだ舞台用の歌い方にはなってませんけど、この真っ直ぐな感じがとても良いですよね」
八千代が聞き入っていたので、角田は小声でそう付け足した。
確かに角田のいうとおりまだカラオケで歌っている感覚だが、トレーニングさえ積めば問題はないだろう。
「どうですか?」
「そうねぇ...悪くはないけれど、せっかくだし、もう一人の方も見ておこうかしら」
「了解です」
なかなか悪くない子だった。彼女なら今回の主役を任せられるだろう。
八千代が彼女の名前を頭で反芻していると、次の映像の準備ができたらしかった。
「こちらが最後です」
角田が再生ボタンを押す。八千代は最後の一人をじっくり見るために身を乗り出した。
これまでの二人とは違い、画面の端からその人は出てきた。
『こんにちは。東京都からきました、杉野小春です!よろしくお願いします!』
栗色の髪を腰まで伸ばし、その名前に似合う桜色のTシャツに身を包み彼女は確かにそこに存在していた。
「杉野小春さんです。この人はなんというか...」
先ほどまで饒舌に候補者を評していた角田はここにきて言葉を失った。八千代はそんな彼の様子を疑問に思う。
「そんなにすごい子なの?」
しかし角田はそれにもうーむと苦い顔をした。
「いや、もちろんすごい子ではあるんです。でも、この子を選ぶのは...」
そう言って角田は画面に目線を落とした。促されるように八千代も画面に目を戻す。
改めて見ても画面に映っているのは紛れもなく普通の女性だった。この人物の何が角田から言葉を奪ったのだろうか。
『それじゃあ、事前に渡した台本の台詞をお願いします』
スタッフの声が彼女に届く。
彼女はゆっくりと口を開き、台詞を始めようとした。
ように見えていた。
『あの、一つ質問なんですけど』
杉野小春は小さく手を挙げてスタッフ、彼女にしてみたらオーディションの選考官に問いかけた。
『はい、なんでしょう』
『この台詞、変えてもいいですか?』
八千代はあら、と小さく声を漏らした。それに気づいた角田は静かに首を横に振る。
「まだですよ。彼女はここからです」
八千代はもう一度画面に目を戻す。いったいこれから何が始まるというのだろうか。
『構いませんよ。ではどうぞ』
『ありがとうございます。...ふぅ...』
杉野小春は目を伏せた。彼女が杉野小春をやめる瞬間だったのだと八千代は気づいた。
彼女が顔を上げた。そこには既に潤んだ瞳が煌めき、涙の跡すら見えるほどに悲しみに歪んでいた。
『わ...たしは...あの舞台に立ちたいの...でも...私を縛るものは何もないのに...それでも届かない...』
震えた唇から途切れ途切れの声が落ちる。自分を縛るものを確認するように彼女は自らを抱いたが、それもスルリと服の上を滑っていく。滑り落ちた手を掲げ目を細め、もう一度口を開いた。
『でも...それでも辞められない...私...私は、あの舞台に立つの...!』
伏せていた目は徐々にその世界を映せるように開かれ、こちらの視線が誘導させる。彼女に当たったスポットライトの存在がはっきりと感じられた。
不意に八千代は以前見た夢を思い出した。
スポットライトと空の観客席、抱いた自分の体はどうしてか偽物のように感じる。若さに憧れて、現実の自分に呆れ絶望しても、舞台に立つことはやめられなかった。
彼女は、私自身だった。
「彼女、春にはやめてしまうそうなんですよね」
「え?」
しばし言葉を失っていた八千代に角田が言った。驚いた八千代に角田は黙って頷き、動画を少し進めた。
「彼女も言ってるんですよ。ほら」
スタッフが杉野小春に質問をした。
『杉野さんはどうしてこのオーディションに?』
彼女は軽く微笑みながら答えた。
『最後のオーディションは、大好きな橘さんの舞台が良いと思ったからです』
『最後?』
選考官が聞き返した。それに彼女は苦笑を浮かべながら答えた。
『その...来年が期限なんです。大学を卒業するまでに結果が出なければ、辞めるようにと親から言われています』
語るその眼には一切の濁りがない。おそらく、親の意志だけではなく自分自身の覚悟からもそう考えているのだろう。
「そう...最後のオーディションなのね」
呟いた八千代に、角田は優しく語る。
「八千代さん、彼女の歌声も聞いてくださいよ。素晴らしいので...ほら、ここです」
角田は映像を少し戻して歌唱審査の場面まで戻した。八千代はタブレットのスピーカーに耳を澄ます。
『では歌唱をお願いします』
『はい。....すぅ...』
柔らかい音が世界に芽吹いた。歌い出しは優しさに満ち溢れ、徐々にメロディは勢いを増してゆく。それと同時に生まれた芽は徐々に茎を伸ばし枝を広げて光を浴びて燦然と輝いてゆく。
彼女という小さな花が満開になった瞬間であった。
「歌は三人の中でダントツですね。このまま舞台に出しても問題はないくらいに。ただ...」
「ただここで彼女を選ぶのは危険、ということかしら」
言葉を継いだ八千代に角田は一瞬驚き、苦笑いを顔に浮かべた。
「そうです。彼女自身が言っていた通り、彼女は来年の春までに結果を出さなければこの世界を去る。もし、これを知った上で彼女を選んだなら...同情で選んだと思われてしまうでしょう?」
角田は苦笑いを浮かべていたが、言葉を追ううちに徐々にそこから笑みが消えた。苦しさが滲んだ顔を振り払うように間も開けずに言葉を紡ぐ。
「それに、これは八千代さんの最後の舞台なんです。どんな役であれ他を圧倒するような人物たちで構成するべき舞台です。でも...彼女にはそれがない」
角田は画面の中の杉野小春に目を向けた。それを見つめる彼の目は随分と寂しいものだった。
「舞台の上での存在感とか、カリスマ性とかが彼女は他の二人より劣っているんですよ。他の二人は何もしないでもそこに立っているだけで人を惹きつける魅力に満ち溢れている....でも、彼女はそうではないんです。芝居をして、歌を歌って、それでようやく人の目を奪うんです」
角田は画面を見つめながら言っていたが、その心はどこか遠くに置いてきたかのように彼女の姿を見ていなかった。
「みんな八千代さんの最後の舞台を完璧にしたいんです。技術なら鍛えればどうにでもなります...でも、生まれ持ったそういうものってどうにもならないじゃないですか?だから...」
「彼女よ」
角田の言葉を遮り八千代はそう告げた。八千代は椅子から立ち上がり、角田の顔を上から眺める。その顔は驚きと少しの絶望が滲み出ていた。
「え...?」
ようやく言葉を発した角田を八千代は微笑みを浮かべながら見下ろす。そしてもう一度自分の決断を彼に告げた。
「彼女が良いわ。主人公の少女期を演じるのは彼女だけよ。人の意見なんて知るもんですか」
「で、でも!」
「でもも何もないわ!彼女で決まりよ。至急連絡してちょうだい?じゃないと彼女卒業しちゃうわ!あ、それとも私が直々に連絡しようかしら?」
「それは困ります!....じゃ、じゃあ、せめて理由を教えてください!」
「理由?それは...」
八千代は人差し指を顎につけてふむ、と考える。
八千代は頭に浮かんだ答えを言おうと思った直前に辞めた。なぜか今は言葉にしてはいけないと感じたからだ。
「そうねぇ...本番が終わるまでは教えてあげないわ」
窓から入った風は、秋の深まりを感じさせるように随分と冷たい。急がなければ、花が枯れてしまいそうだった。
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