第43話 逆襲
「唇が痛いな」
康三がかさかさになった唇の表面を撫でながら、顔をしかめる。幾多の戦場で無数の傷を負っても歯牙にもかけない男が、生まれ育った紀州にはない、関東の乾いた風には音を上げている様が笑いを誘う。そんな康三の憂いにおかまいなく、友野家船橋本店は解体と見せかけた戦支度が進んでいた。
武蔵、相模の領有に伴い、家康は本拠を船橋から江戸にあっさりと変更した。北条康種という稀代の名将の下で、義国党の攻勢に対し唯一落ちなかった城という戦歴が、これから関東を統べる王に相応しい。言い換えれば、小田原や川越は輝かしい戦歴を持つ名城ではあるが、民によって落城してしまった事実が、これから関東の民を支配する上で不都合となる。
地形的にも、江戸は関東の広大な平野の真ん中に位置し、拡大する余地が船橋や小田原を凌ぎ、東海、甲信、東北、上越、常磐とあらゆる地域と直結する交通の要衝である。
今では、関東入りをした直後から、家康はこの地に狙いを定め、北条から奪う事を考え策を練っていたのではないかと疑う節がある。
何れにしても家康は、心血注いで育ててきた船橋をあっさりと捨てた。それは家康自身の性格が情に薄いとみるか、もしくは天下を目指す英雄として、常に前を歩いた信長を見倣っているだけかは窺いしれない。
今、船橋は発展した町の大きさに比べて、人があまりにも少ない状態に成っている。家康の家臣はすべからく江戸に移り、軍と呼べる存在は町を守る為に残した二百の守備隊のみ。もちろん名のある将はそこには残っていない。
機を見るに敏な商人たちは、徳川家が移動すると次々に江戸に移って行った。何か仕事にありつけないかと、故郷を出て流れ着いてきた民も、江戸での建設需要にありつこうと、こぞって町を去って行る。
「寂しくなったものだ」
感傷的になったわけでもなく、事実をありのままに康三は呟いた。
「しかしあいつはここにいる」
健が北西の方角を見つめてポツリと言った。
「全て神の目の予言通りということか」
康三は衰えぬ勝悟の慧眼に、楽しい遊びを心待ちにする子供のような表情で笑った。
観世黒雪は簡単には船橋を動かぬと断言したのは勝悟だった。
その勝悟は、梨音たちに観世屋敷の襲撃に向けての策を授けている。
健の火炎を弾き、康三や梨音を圧倒した観世黒雪の力は、人の力としては常軌を逸していた。この魔力と呼ぶに相応しい力には、必ずその根源があると勝悟は言った。そしてそれはこの船橋のあの地に置いてこそ、真の力を発揮するはずと付け加えた。
北条家とも関係の深かった友野家は、小田原は当然として江戸にも立派な分店がある。船橋から徳川家が去った今、康三たちがこの地に留まるのは、日の本全土の民が観世によって洗脳される前に、観世屋敷にあると思われる観世の力の根源を破壊するためだ。
「逆襲だな」
これまで攻め続けられていた過去をここでひっくり返す。この言葉には康三の戦人としての意地が込められていた。
そのために選ばれた者は、康三を筆頭に、梨音、太郎、健、甚左、冬馬、春瑠、碧、そして対死兵用に明日海、鷹、志野、紫朗の十二名だ。健の同級生が多いのは、もちろん慎が観世の仲間に成っているからだ。
つまり、この作戦の目的は二つある。観世の力の根源を見つけ出し破壊すること。そして慎を説得し駿府に連れ帰ること。
「康三殿、準備は整いました」
生真面目な太郎は、戦闘に入ってからの明日海たちの護衛や、船橋に残っている徳川守備隊への対処を、康三に託されていたので、作戦決行日の今日まで、数日に亘って他の者たちと作戦を練り上げていた。
「ご苦労、では参るか」
康三は太郎から仔細を聞くこともなく、観世屋敷に向かって進み始めた。その頭の中には垣間見た観世黒雪の強大な力との戦いしかなかった。全体指揮は太郎に任せ、自分は黒雪の力を押さえることだけに全力を注ぐ。命を賭けなければ倒せない相手と、この老練な戦人は肌で感じていた。
二つの商人町を抜けて北上を続けると、左手に船橋城が見えた。既にこの城には大久保忠為を守将とする二百人の守備隊しかいない。太郎の見立てでは、観世屋敷に変が起きても、城の守りが優先され、鎮圧に来る兵はせいぜい五十が限度と見ている。
主が他所に移った城は、以前よりもどこか威容に欠けているように感じられる。元々天守のない御殿だけの城だけに、その感は余計に強くなる。想像ではあるが、家康は江戸への移動を念頭において、この城の天守を築かなかったのかもしれない。
康三は足を速める。船橋城を抜ければ、観世屋敷まで半里もない。道もそれまで歩いていた街道と違って狭くて、道沿いには木や草が生い茂っているから、敵は奇襲をかけやすい。
果たして奇襲はあった。観世屋敷の白壁が見える残り五町に差し掛かったとき、康三たちの頭上に四方から大量の矢が降り注いだ。太郎が氷で頭上まで覆う壁を作って、明日海たちを守る。健の身体からは炎が吹き出て、康道たちを襲う矢を瞬時に焼き尽くした。
矢など射かけても無駄だと悟ったのか、二の矢はなかった。周囲に立ちこめた殺気が消える。
「五十というところか」
梨音が飛来した矢の規模から、襲撃者の人数を割り出す。
「死兵ではあるまい」
死兵ならばこんなに鮮やかに撤退しない。死兵でなく裏観世の兵が五十もいることに、康三の顔が渋くなる。敵は自分たちの襲撃を予測して、全兵力で屋敷を固めている。
「いいじゃないですか。今日、相手の全力をねじ伏せて、白黒つけましょう」
「そうだな、敵に悔いが残れば怨念が生まれる。いい機会だと思おう」
健が一人、単純に闘志を燃やしている。その顔を見て、康三の顔も緩んだ。
観世屋敷の門は開け放たれていた。夜ではないので特段不思議ではないが、先ほどの奇襲を思うと、これは罠である可能性が高い。康三が礫を放つと、門の中に吸い込まれていき、何も起きなかった。
康三が梨音と目を合わせて、互いに頷く。直後に明日海たちと護衛役の甚左を残して、七人が一斉に門の中に飛び込んだ。
塀の背後に隠れていた兵が、侵入してきた七人の退路を塞ぐように門の前に展開した。およそ三十はいると思われる兵たちの目は、どんよりと曇って己の意思を感じさせない。
「死兵か」
死兵は死ぬまで闘争をやめないから、倒す為には観世流に操られているだけの者たちの命を、奪わなければならない。前回の嫌な感触を思い出して、康三の顔が曇る。
「明日海!」
健が叫ぶと、門の外から明日海の美しい歌声が聞こえてきた。次いで鷹の三味線と志野の太鼓が音律を刻み、紫朗の尺八が明日海の歌に旋律を絡ませる。それを聞いて、死兵の身体がガクガクと揺れ、ついには膝をついて地面に突っ伏せた。
「これほどとは」
康三たちが不在のときに、分店は死兵の集団に襲われた。留守を守っていた勝悟は明日海たちに歌わせて、難を逃れたと聞いた。それを聞いてはいたが、こんなにも容易く観世の技が解けるとは思ってもみなかった。視界に梨音と太郎の顔が入る。二人とも康三と同じように驚きを隠せないでいた。
甚左を先頭に、明日海たちが歌いながら門の内へと入ってきた。屋敷中に明日海の歌声とそれを力強く支える音が響いていく。もはやこの戦いにおいて、死兵を気にすることなく戦える。力強い応援を背に康三たちは前に進んだ。
「どうしてそんなに死にたがるかな」
背後の声に康三が振り向くと、観世重長が憂鬱そうな顔で黒獅子と一緒に立っていた。
その顔を見て、健が叫んだ。
「黒雪の下に戻ったのか」
健の怒った顔を見て、重長が不敵に笑う。
「別に黒雪の味方をしに来たわけじゃない。言っただろ。あなたを殺すことだけが楽しみだと」
重長の顔に狂気が浮かんだ。
「気味が悪い奴だな。それならなぜここに現われた」
「屋敷の中に足を踏み入れたら、あなたは間違いなく殺される。最上の楽しみを、むざむざ黒雪のようなつまらない男に渡したくないのでね」
「ならば手出し無用でさっさと退け。黒雪を倒したらいくらでも相手をしてやる」
健の怒気が籠もった声を聞いて、重長が残念そうに言った。
「どうしても行くのですね」
「行く」
「ならばしかたない。あなたはまだまだ強くなるから、楽しみは後に取っておこうと思ってたのに」
重長が謡の一節を口ずさんだ。陽の光が眩しい空が、俄に黒雲に覆われる。重長が再び謡を口ずさむと、黒雲の中が光り、健に向かって稲妻が走った。
「健――」
悲鳴のような春瑠の叫びが雷鳴にかき消される。その声の先で、雷が直撃して黒焦げになったはずの健が、無傷で立っていた。
「おっ、避雷の術か」
重長が驚いたように呟く。
黒雲が空を覆ったとき、雷撃の術を見切った冬馬が、咄嗟に避雷針とするべく、両刃の仕込み槍を地面に突き立てたのだ。雷は槍の中に仕込まれた鉄芯を通して、地面に吸い込まれていった。
安心する間もなく、顰の面をつけた黒獅子が謳った。音波弾が春瑠と碧を襲う。梨音と太郎が氷壁とカマイタチで直撃から二人を守るが、黒獅子は謳い続け、梨音と太郎は二人を守って防戦一方となる。
「奴の飛び道具は俺が防ぐ。お前は奴を叩け」
冬馬の声が終わらないうちに、健の身体から炎が噴きだし、重長目がけて火球が飛んだ。
火球は重長に直撃したが、謡の調べが聞こえると炎の中心が割れて、双剣を振り上げた重長が飛び出してきた。左右交互に健に向かって振り下ろされる。健は左の剣をかわして、右の剣を小太刀で受け止める。
いつの間にか重長は真蛇の面をつけていた。再び重長の口から謡の一節が漏れる。音波弾が健の身体を貫こうとしたとき、冬馬の左足が伸びて、音波弾を防いだ。直撃された冬馬の左足は膝のところから千切れて宙に舞う。
冬馬は仰向けに倒れながら、重長目がけてクナイを投げた。クナイの周りには冬馬の武気が満たされ、顔を振って避けた重長の首をカミソリのように切った。重長は血が噴き出す切り口を左手で押さえて、武気で血止めしようとする。
重長の武気が患部に逸れた機を健は逃さなかった。阿蘇神の力が宿り、健の身体から青白い炎が噴き出て、そのまま線上になって一直線に重長に向かって伸びた。
真蛇の面が炎の槍に貫かれて、割れた面の間から額を貫かれた重長の顔が現われる。グフッと口から血を吐いて、重長が地に伏せた。
「重長様」
梨音と太郎を牽制していた黒獅子の気が、倒れた重長に向いた。康三の手から礫が飛んで、顰の面を二つに割った。礫の勢いで黒獅子の顔が天を向くと、梨音の斬激が振り下ろされる。黒獅子は身体を綺麗に両断され、遅れて切断面から血が噴き出した。
「冬馬」
左足を切断された冬馬の元に健は駆け寄る。
「心配するな。左は義足だ」
冬馬は難なく右足一本で立ち上がった。
熟練した忍が放った恐るべき技だった。左足が斬られた瞬間、冬馬の武気は確かに消えた。それを感じて重長が冬馬への注意を解いた直後に、クナイが放たれた。至近距離からの攻撃に、クナイの切っ先は交わしたものの、クナイの周囲を取り囲んだカミソリのような武気を、交わすことはできなかった。
「義足を失ってしまっては、次の戦いに向かえない。頼むぞ、健」
冬馬は片足で立ったまま、黒雪との戦いを健に託す。
「任せておけ」
健は力強く答えて、屋敷を睨んだ。
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