第41話 自然の贈り物
カシの木が生い茂った林を抜け、やや小高い丘に出たところで、案内を務める真野太郎が足を止めた。石田三成は夢中で追っていた背中から視線をそらすと、眼下に冬の陽射しに照らされた青々とした海が広がっていることに気づいた。
「お天気に恵まれましたね。これから向かう道中ではここが一番高い場所で、海を一望するにはとっておきなんです。冬の陽射しは夏と違って、どことなく海の青さに人を寄せ付けぬ厳しさを、加えているように見えませんか」
最初に会ったときは少年だった。目の前にいる太郎はそのときの面影をすっかり消して、立派な男の顔に変わっている。眩しいばかりに躍動する若さを目にすると、激務で忘れかけた若き日の志が頭に浮かぶ。
一人が万人のために、万人が一人のために力を尽くせば、人々の生は吉となり、太平の世が訪れる――祖先が使った旗印を己の志に当てはめ、日の本の民が安らぎと喜びを手に入れるために、礎の一人と成ろうと決意した若かりし日。対して渦巻く政争の渦中に身を置くうちに、己の言葉を通すために、他人を追いやることに心を奪われる今。
いつしか太郎の存在を忘れて、果てしなく広がる海を見ながら、海岸線に点在する小さな集落と自分を重ね合わせる。気がつくと涙が頬を伝わっていた。
「そろそろ向かいましょう。目的の修善寺までは後三里ほど歩かねば成りません」
太郎に気づかれぬようにと、そっと頬を拭う。
再び前を行く太郎の背中に、遅れまいという対抗心は既になく、未来に向かう頼もしさを感じて目を細める。
屈辱の年賀式の後で、今川氏真から伊豆に誘われたのは一月前だった。義国党の真実をお目にかけたいという誘い文句に心を惹かれ、積み重なる政務の道筋を組下の者に示し、秀吉の許しを得て大坂を出航したのが三日前だ。幸い海が荒れることもなく船旅は順調に進み、疲れをほとんど感じなかったせいか、沼津の港に着いたときは、久しぶりの地面の感触を楽しんだものだ。
沼津に迎えに来てくれたのは、今目の前を進んで行く太郎だった。氏真は一足先に修善寺で待っていると聞かされ、沼津で一晩休んだらどうかという提案を固辞してすぐに発った。
三成は、冬は厳しさを感じる季節だと思っている。それは雪の多い北近江に育ったせいかもしれない。多くの木々が葉を落とし、虫の声が途絶え、動物が長い眠りにつく姿に、死を予感する。事実人は冬に多く死ぬ。
ところが伊豆に来て、冬がこんなにも優しいと初めて知った。ここは冬でも緑に溢れているし、生き物たちの動きを感じる。何よりも夏はぎらぎらと攻撃的な陽の光が、優しく包むように差し込んで来る。
「あれが横瀬八幡神社でございます。修善寺までは後半里をきっております」
「おお、頼家公が祀られている社か」
史実に詳しい三成は、感嘆の声を上げた。
これから行く修善寺は、弘法大師が開基した由来よりも、鎌倉幕府の二代将軍源頼家が最期を迎えた場所として知られている。また隣の日枝神社では、頼朝の弟で源平の戦いで功があった範頼が、謀反を疑われて配流され最期を迎えている。
三成の脳裏に秀吉の嫡子鶴松と甥の秀次の姿がよぎる。北条時政が合理的な考えに基づき、主家である源氏を廃して自らの手に政権を奪ったわけだが、自分は主家を守り抜く。三成も合理的な男ではあるが、それにも増して義に従う心が全てを支配した。
「不思議な川でござるな」
三成は後ろを振り向いて、横瀬八幡を境に遠ざかる狩野川を見つめながら呟いた。
「何が不思議でございますか」
「いや日の本の南側の地では、川は北から南に流れるものと思っておったが、あの川は北の地の川のように南から北に流れておる。この地に来てから、冬であるのに優しい気持ちに包まれているように感じる。殺伐とした現世の不条理に、川の流れが逆らって流れるように感じてしまった」
「父も同じようなことを申しておりました。北条から上野と交換でこの地を得たときも、地勢的な思惑以上に、生きることに疲れた人々の癒やしの地を得たと喜んでいました」
太郎に言われて三成は、この地の南端に、遠来の人々が遊山に来る場所が造られていることを思い出した。勝悟は駿河と小田原からその地に向かう航路を手配して、多くの客を運んでいると聞く。客が集まれば銭を落とし、それは自連の決して少なくない、収入源の一つと成っている。
上野のような豊かな国を捨て、伊豆のような貧しい国を得たと聞いたときは、真野勝悟の思惑が測れなかったが、この地に観光と名付けられた新たな事業を興し、軌道に乗せた手腕に、さすがは神の目と称賛と共に嫉妬を感じたものだ。
しかし今の太郎の話を聞いて、その真の狙いが人々の癒しにあったと気づき、自分や秀吉とは根本的に違う思いで、その智謀が働いていることに気づく。
「わしは間違っていたな」
「何がでございますか?」
「豊臣家の威光や法令の権威を高めることばかりに気を奪われ、そこに住む民の安寧をないがしろにしておった。それが見えていたなら、結果は違っていたかもしれん」
太郎は三成が何を差して言っているのか、今ひとつ理解できなかったが、先ほどまでの憂鬱な影が姿を消して、勝悟や氏真が政務を論するときのような、活き活きとした表情が見えたのに気づいた。
「三成様にとっては、その気づきは良いことなのでしょうね」
「うむ。明日からどう歩いて行くか、道が見えたように思える」
そう言って三成は、この人にしては珍しい笑顔を見せた。
それを見て太郎は、ああこの人はこういう顔をして笑うんだと、少しばかり三成のことが好きになった。
狩野川に別れを告げて、今度は桂川に沿っておよそ半刻ほど歩いたところに、修善寺はあった。四つの脚に支えられた山門を潜ると、ひっそりとした境内を掃いている男がいた。
太郎が寺男らしいその男に声をかけ、二、三言交わすと、寺の中に案内された。
長い歴史を感じる天井や壁に囲まれた廊下を通って一室に入ると、そこには招待主の氏真と真野勝悟が三成を待っていた。
「真野殿も参られていたとは驚きました。政務で忙しい中、某などのために申し訳ありません」
伊豆の自然がそうさせるのか、普段の居丈高な様子が影を潜め、素の三成が頭を下げた。
「何をおっしゃる。関白の懐刀にわざわざ遠方まで足を運んで頂き、感謝しているのはこちらの方だ。ここは湯桶の地ゆえ、堅苦しい礼は抜きにして、互いにゆるりと過ごしましょう」
見ると勝悟と氏真は既に足を崩して、すっかり肩の力が抜けた状態だ。義国党の話は気になるが、三成もとりあえず二人に倣って胡座をかいた。
「大坂ではいろいろ悔しい思いもあったでしょうが、今はすっかり振り切れたいい顔をしておられる。安心しました」
氏真が遠慮なしに最近避けていた話題を振ってきたが、それを聞いても不思議と三成の胸に痛みはなかった。むしろ、氏真の目で見たあのときのことを、積極的に聞きたいという思いにかられた。
「いやお恥ずかしい。わしはもしかして大きな見落としをしましたかな」
三成は存外真剣な表情で訊いてきた。それを見て、氏真も笑みを消して三成に向き合った。その口から出た言葉は、氏真らしくない断定的な物言いだった。
「理においてはどちらが正しいはなかろう。ただ、場を誤ったとは思う」
「場を」
「うむ、家康殿は諸侯の前で裁定が下ることを予期していたと思う。そして準備も十分にしてきた」
「あれが演技と申されるか?」
「十中八、九」
「まさか! では伊達ともあらかじめ示し合わせて――」
「政宗殿は違うだろう。家康殿の姿に吊り出されたようなものじゃ」
三成は思わず天を仰ぎ見るかのように上を向いた。そのままの姿勢でじっとして動かない。だが見上げる目は生き生きとして、頭脳だけは高速回転していることはよく見てとれた。しばらくそのままでいたが、フゥーっとため息をついて、視線を元に戻した。
「うーん、分かり申さぬ。今思い出しても、あれは演技とはとても思えぬ」
「それは無理もない。あのときの家康殿は猿楽のシテと同じじゃ。万人の心を動かす見事な演技。三成殿は家康殿のお抱え猿楽士が、観世黒雪と知っておられるか?」
「いや、知り申さぬ」
「ではお約束通り、あの場に通じる全てのからくりをお話ししよう。お待たせした。中に入られよ」
氏真の言葉に誘われたかのように、襖がスーッと開き、先ほどの寺男が顔を覗かせた。
「紹介しよう。この男こそ義国党の大将、中田伊蔵じゃ」
伊蔵は三成に向ってぺこりと頭を下げた。
それに対し、さすがの三成も驚いて口があんぐりと開いた。
義国党の首謀者は死亡と報告されている。
では、ここにいるのは幽霊か?
三成は再び困惑の世界に陥ってしまった。
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