第40話 大阪会議
寒風を考慮してか、大広間の格子窓は半分が塞がれていた。外では雪がチラつき始めたのか、残り半分の格子の間から、時折白い粉が迷い込んでくる。
全国の大名が集まった大広間の中では、伊達政宗の言い終わった直後から、雪が降る音が聞こえてきそうな程の静けさが続いている。外の寒さはしっかりと城の外郭を包んだはずだが、大広間に集まった男たちの熱気が、広間内の空気が冷え込むことを妨げていた。
誰もがことの顛末を見逃さまいと、意識を耳目に集めていた。
豊臣は、既に一度家康の罪を糾弾している。今占領している二国は撤退、そして現在領有している二国は召し上げ。関東の騒乱を治めた功より、惣無事令の遵守を絶対視した。
しかし裁定が言い渡される前に家康は、自分の行動に二心がないことを、絶対無比の忠義と謙遜の態度で表し、絶妙の間合いで豊臣主従の連携を切り裂いて、ついには自分を擁護する声を上げさせた。
しかも声を上げたのが奥州の伊達政宗というのが、この問題に対する考慮の幅を大きく広げた。
豊臣政権の基本構造は、絶対的な権力を持つ豊臣家が他の大名家を従える連合政権であり、秀吉は全国を統制するための法を施行することで、間接的に全国の土地や民衆を支配する。
その中で最も統制力を伴う法が惣無事令であり、次いで検地、刀狩りと続く。但し後の二つが、統治策として具体的な機能を有し大きな成果を残したのに対し、惣無事令は法としての完成度が非常に低かった。
元々惣無事令は法と言うよりも憲法に近い性格を持ち、そこに定めた基本精神に基づいて様々な事例を解釈し、判例として積み重ねることで初めて有効に機能する。
その意味では義国党の起こした反乱は、官僚機構として当時最高の組織を有した豊臣政権にとっても、まだ判例の出揃っていない点で法施行直後に裁くにしては、最も難易度の高い案件だったと言える。
こうした背景を鑑みれば、秀吉は二つの大きな過ちを犯したと言えなくもない。
一つは、徳川の処置を石田三成を筆頭とする官僚集団に一任したことである。浅野長政、前田玄以、増田長盛、長塚正家、そして石田三成は、それぞれ司法、寺社等の特殊勢力対応、国土整備、金融、行政における第一人者であり、大量の政務をこなせるだけの配下組織も有していた。
彼らは総掛かりで本件に取り組み、後々豊臣家に最も益を齎す法解釈を組み上げた。それは論理という点において完璧なもので、議論の場においてはまず打ち破られることはないと思われた。
しかし現実の裁定の場においては、組み上げた論理が紙くずに変わる。
家康は忠義と謙虚という二つの道徳的観念を前面に立て、その場の多くの者の感情を一つの大きな水流と成した。それは、無言のうちに情状酌量に向けての大きな流れを引き寄せた。その流れに力を与えたのは、軍事的判断という実績のある者しか口に出せない、法的には極めて不合理な解釈であった。
これに対抗する軍事実績を持つ者は、上述した五人の官僚にはない。
だからこそこの場で裁定を下す役は秀吉に一任された。この日の本において秀吉に勝る実績を有する者はいない。匹敵するのは今は亡き織田信長ぐらいのものである。
しかし秀吉は土壇場で迷った。子飼いの官僚たちが知恵を絞って作り上げた、冷徹で完璧な裁定を下す直前で、家康が見せた戦場で最も大切な信頼と、それに基づく昂揚を無視することができなかった。それが秀吉の本質であり、最大の武器であったからだ。
その自覚があるからこそ、急遽自分で裁定を下すことをやめた。いや気づいたというよりも秀吉の持つ本能が、無意識にそれを避けさせたのが真実かもしれない。
いずれにしても秀吉は自分で裁定を下さず、発案者である三成たちにその役を委ねた。それが二つ目の過ちと成った。
大役を委ねられた三成は、この場が論議を尽くす裁定の場から、雑多な感情が渦巻く戦場に変わったことに気づいていた。ここでするべきことはただ一つ。自らこの場の役者でないことを認め、道化と化して再び秀吉という千両役者を迎え入れるしかない。
だがそれは今日まで苦心して組み上げた五人の成果を捨てることであり、怜悧な頭脳で今後の政局を切り盛りしようとした自身の大志の躓きであった。
それゆえに、何もできぬまま沈黙する。それが今の状態であり、石田三成という当代きっての秀才の限界であった。
「三成殿退かれよ。関白殿下が先ほどから、舞台に登りたくてうずうずして待っておられるぞ」
三成の心を慰撫するような柔らかな含みのある声が沈黙を破った。声の主は自連代表の名代で参列した今川氏真だった。
自由連合は豊臣政権下において、徳川家などと違い実質的には政権の外にある国家だ。
秀吉の起こす軍に兵を出す義務はなく、豊臣家が国家的事業とする土木建築に金銭的協力や労務提供の責はない。それでも、惣無事令の精神を政治方針の一つとなし、政務上の効率を上げるための検地や刀狩りには、積極的に協力してくれた。その意味では臣従する多くの大名家以上に信頼できる国家であり、共和制であることを除けば、政治的にも最も親和性のある独立国と言えた。
そんな自連に属する氏真の言であるからこそ、豊臣政権下の大名の感情と、官僚組織の間を取り持つ資格があった。
数々の好機を誰よりも速くその手にしてきた秀吉は、躊躇することなく氏真の誘いに乗った。
「三成、そして各々方も聞いてちょう。まあ、惣無事の考え方に則りゃあ、こんな裁定になると頭のええ者たちが一策を述べた。それに対し政宗が戦の場の道理を示してくれた。確かに戦場には魔物がおるでな。二つともちゃんと考えにゃあ上手ういかんことだ」
秀吉は戦の周旋でもするかのように、突然くだけた口調に変わった。不思議とその言葉はこの場にうまく調和し、諸大名の興奮が徐々に収まってきて、ようやくこの場に落ち着きが戻った。
「でな、わしも何が一番ええか考えたことがあるで聞いてちょう。まず、惣無事に基づいた内府への罰は、信濃と甲斐の没収だ。これはちゃんとやらないかんでな。だけどもちゃんと乱を治めた褒美もやるがね。今治めとる北条の旧領、これは二国とも内府のものとする。差し引きで考えりゃあ小せゃー方を貰って、大きい方をやるのだで、徳だろう。それがわしの気持ちじゃ」
秀吉の裁定は、この場の者たちに絶対的な重みを持って受け入れられたが、三成たち官僚は秀吉の裁定に表面上は笑みを浮かべながらも、内心は唇を噛みしめる敗北感でいっぱいになった。
そんな官僚たちの思いと裏腹に、家康は、「殿下の仰せのままに」と、深々と頭を下げ、恭順の姿勢を示し、諸大名も隣国の内乱時の干渉権を得たことに手応えを感じていた。何よりも戦績がないにも関わらず、大きな顔で政務を取り仕切る官僚陣に煮え湯を飲ませたことに、外様以上に福島正則を始めとする豊臣家譜代の武断派が溜飲を下げた。
それでも顔を曇らす大名も僅かばかりにいた。黒田官兵衛、宇喜多秀家、小早川隆景、直江兼続、真田昌幸など、秀吉没後の惣無事令の限界を思い量る者たちだ。
この裁定で徳川家の直轄領は二百五十万石を超え、主家である豊臣の直轄領二百二十万石を上回ることになった。もちろん黒田官兵衛自身もそうであるように、大名として独立した豊臣譜代の臣を加えれば、四百万石を超えるがこの場で大きな問題が露呈している。
この裁定に心から満足そうに笑顔を浮かべる豊臣譜代の武断派の大名たちだ。今後豊臣家の政局を支えるのは間違いなく三成たち官僚組織だが、秀吉という重しがなくなれば、彼らの裁定に武断派が容易に従わない図が浮き出てきた。
そのときに黒田や宇喜多のような武断派と官僚の間に位置する大名や、毛利や上杉のような徳川に次ぐ大大名、真田のような小勢力は、それぞれが実に難しい舵取りを要求される。その憂いが彼らの顔を暗くした。
様々な思惑が入り乱れた大阪会議であったが、この会議の結果として確かなことは、まだ戦国の世は完全には終わらないということだ。徳川はその領土の大きさだけでなく、地勢的にも関東の主として絶対の存在になり、国を二分する勢力になり得る可能性を有した。それに加え、背後に控える奥州の伊達が徳川に大きな貸しを作り、両者は深く結びついたと言える。会津に転封された上杉の帰趨によっては、家康を盟主とする関東、奥羽連合も現実味を増す
その場合、最も難しい立場に晒されるのが、独立国家として両者の間に位置する自由連合と言うことになる。氏真は自国が今後立たされる難しい局面を想像し、気が引き締まる思いを抱いた。石高は僅か五十万石足らず。その商業力と貿易力により強大な軍事力を有しているが、国策である絶対的な中立を保つのは難しい局面になりそうだ。
一方で、そのときになったら、勝悟がどのような決断を下すのか。それを想像しただけで国家存亡の危機であるのに、覗いてみたくなる好奇心が溢れてくる。
因果な性分に自分でも呆れながらも、早く勝悟に今日の結果を文に認めたいと、逸る気持ちを抑えながら、大阪城を後にした。
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