第39話 忠臣の顔

「行くぞ」

 梨音が裏観世の追手たちを警戒しながら、伊蔵に声をかけた。

 伊蔵は、加代の肩を抱きながら力なく頷く。


「仲間の裏切りは辛いかもしれんが、これが現実だ。それよりもお前には何が何でも生きて貰わねばならない。義の旗を掲げたときから、お前の命はお前だけのものではなくなっている」


 伊蔵の脳裏に、旗揚げからこれまでの様々なできごとが、グルグル回っていた。喜びよりも、不安で苦しくて逃げ出したいと思ったことの方が多い。乗り越えることができたのは、理想を共にする仲間がいたからだ。

 その仲間の一人である周は、自分を裏切った挙げ句、手首を斬られた痛みで地に転がって悶絶している。その姿がこれまで大切していた理想の国と重なって見えた。

 こうなってしまって、それでも生きろというのか。

 右手に加代の柔らかい身体を感じても、生きようとする力が蘇らない。


 そんな伊蔵の様子を見て、太郎が怒った。

「甘えるな。利用されようが裏切られようが、理想の国を目指して戦って、一国を滅ぼしたんだぞ。心がボロボロになっても立ち上がって、自分たちの考えを伝える義務が、お前にはあるはずだ。歯を食いしばれ」


 真っ直ぐな目で自分を睨む太郎が、伊蔵には関東中の民を代表しているように思えた。

 力が入らない身体に渇を入れ、よろよろと立ち上がる。反動でふらつくが、加代がしっかりと支えてくれた。

「この兄さんの言うとおりだよ。あたしたちは大人としてけじめをつけよう」

 加代の言葉にしっかりと頷いて、今度こそ力強く大地に立つ。


「よしでは長居をしても仕方がない。ここを去るぞ」

 梨音が裏観世の者たちを牽制しながら、伊蔵と加代を先に行かせようとする。

 動き始めたちょうどそのとき、キェーという奇声と共に、鋭い蹴りが梨音に向かって飛んできた。

 梨音が刀を振り抜くと、蹴りの軌道が変わり、梨音の頭上を掠めた。


「黄猿か」

「その男を返して貰わねばならないのでな」

 黄猿が攻撃の構えをとる。


「よせ、もうお前の体術は通用せぬ」

 梨音が身体の力を抜いて、刀を持つ右手をだらんと下に下げた。

「無拍子か。無駄だ。どんなに初期動作をなくしても、武気の流れは伝わる。わしの拳からは逃れられんよ」

 黄猿が不敵に笑って構え直すと、梨音が無警戒に近づく。

 梨音の斬激がいとも簡単に黄猿を捕らえた。

 右手一本で左脇腹から肩まで斬り上げられ、黄猿の胸がぱくっと二つに割れた。


「な、なぜ」

 地面にうつ伏せに倒れた黄猿が、信じられないという顔で、梨音を見上げる。

「武気の流れが分かるなら、武気を使わねば良い」


 武気を使わなかった梨音の刀には、黄猿の血と脂がべっとりとついていた。

 梨音が武気をこめて、刀を払うとそれらは水を切ったかのように、地面に飛び落ちた。

 あまりの強さに驚く伊蔵の目の前に、氷の壁ができた。

 氷の壁は何かを受け止め、粉々に砕け散る。

 いつの間にか太郎が伊蔵の前に立ち、ニヤリと笑う。

「すごいな。私の氷を砕くなんて」


 太郎の前で癋見悪尉の面をつけた男が、再び髪毛針を放とうと構えた。

 カマイタチを伴った鋭い斬激が癋見悪尉の男を襲う。

 男は咄嗟に構えを解いて、何とか交わしたがカマイタチが額に触れて、癋見悪尉の面が割れた。


「お前も死にたいのか」

 梨音が二撃目を放とうとしたとき、面を割られた男は後方に向かって逃げ出した。

 その姿を見て、他の裏観世の刺客たちも後を追うように退き始める。

「今のうちに急げ」

 梨音が伊蔵と加代を追い立てるようにして、北に向かって姿を消した。





 天正十八年(一五九十年)元旦、金箔の襖に囲まれた大阪城大広間に、六十余州の大名が勢揃いして天下人の登場を待っていた。

 今川氏真は、自連の外交大使として大坂に駐在しており、今日は代表の勝悟の名代としてこの場にいた。


 秀吉が天下統一を果たし、恒例となりつつある年賀式だが、今年は特別な意味を持っていた。

 それは昨年の冬に武蔵国で義国党の蜂起があったからだ。僅か一月半で小田原城が落城し北条氏が滅んだ。だがこの場の皆が気にしてるのは、その後二十日も経たぬうちに隣国の徳川家康が、秀吉の命を待たずに派兵し、義国党を駆逐し、そのまま武蔵と相模を占拠したことだ。今も徳川軍は武蔵と相模に駐在し続け、事実上支配下に置いている。

 これに対し、豊臣政権からの裁定はまだなく、この年賀式で秀吉から家康に、直接関東の仕置について沙汰があると思われていた。


「関白殿下のお成り」

 小姓の声が高らかに広間中に響き渡り、秀吉が姿を現わす。

 居並ぶ諸大名は一斉に平伏し、秀吉に対し畏敬の念を表す。

 今年六三才になる秀吉は、まだまだ背筋もピンと伸び、いささかも老いを感じさせない。鋭い眼光は広間を見渡し、座の中央付近に並ぶ徳川家康の前でピタリと止まるが、特に声をかけることなく、そのまま上座についた。


「明けましておめでとうございます」

 最前列の前田利家の挨拶に続き、諸大名が声を揃えて年賀の挨拶を発した。

 この豪勢な絵に秀吉が目を細めて、満足そうに頷く。


「今年も皆息災で何よりじゃ。今後も争うことなく力を合わせて、天下の治安を守って参ろう」

 秀吉の挨拶は、例年通りの惣無事の徹底を図る言葉から始まった。

「皆が苦心して治めてくれる中で、関東で容認できない騒動があった」

 早速最大の関心事に秀吉が触れ、広間中に緊張が走ったが、家康の表情は平静そのものだった。


「北条の失政に民の不満が募り、当主の急死に伴って一揆が起き、なんと一月半で小田原が落城した。しかし驚くのはその後じゃ。武蔵と相模が無政府状態に陥ったとき、なんと内府が電光石火で両国を制してしまった」

 秀吉の目がカッと開かれた。対して家康は歯茎が見えるぐらい口元が緩んで、閉じてるのかと思うぐらい目を細めた。


 ホー、見事だ――氏真は秀吉が追求したときに、最初に見せる家康の表情に注目していた。家康のそれは、どう見ても主人の褒め言葉に対して、恐縮して照れ笑いしている忠臣のそれだった。顔だけでなく、家康の真心が身体全体から滲み出るような姿に、氏真は戯曲的な感動すら覚えていた。


「うーん」

 調子よく話していた秀吉の声が止まった。これはいささか勝手が違うと感じたのか、用意していた言葉を飲み込んだような響きがあった。

 氏真は俄然、秀吉がどういう沙汰をするつもりだったのか興味が出た。

「治部」

 なんと秀吉は石田治部少輔三成に、次の言葉を託した。氏真が、そしてここに居並ぶ全ての大名が待ち望んだ豊臣の結論は、秀吉自身によって語られなかった。

 それが意味することは大きい。つまり今日この場で下すと定めた裁定は、場の流れによっては覆る可能性が出てきたのだ。


「徳川内府に申しつける」

「ハハ-」

 おそらく、三成の出番は予定されてなかったのだろう。戸惑うこともなく、すぐに言葉が出た三成はさすがと言えたが、ただ惜しむらくは、言葉の接ぎ穂に発した声には、秀吉の真意を探るような乱れを僅かながら感じさせた。そして、その乱れを家康は見事についた。もう少し早くても遅くても意味のない絶妙の間で、三成の続く言葉の流れを切った。

 一瞬の静寂が居並ぶ諸大名に、思考する間を与える。諸大名だけではない。秀吉自身がこの瞬間考えてしまった。


 三成が話を再開する。

「惣無事令が発せられた中で、許可なく兵を起こし武蔵、相模に送ったこと越権行為と見なす。しかもその兵は今も両国に駐在し、占拠を続けている。すぐに兵を撤退させよ。なお、惣無事の根底を揺るがすこのような事態を招いた罪は重い。徳川が有する信濃甲斐は召し上げ、内府には大坂にて謹慎蟄居を申しつける」


 重すぎる罰だった。惣無事の持つ意味、大名の独断意思による自衛以外の武力行動を封じる。豊臣としては、今回の徳川の行動をもってして、この原則を徹底する。その意思が籠もった裁定だった。

 当初はこの場に集まった皆が、徳川の惣無事令破りを感じていた。豊臣の吏僚たちにいたっては、惣無事令破りを自覚しながらの家康の行動と前提を置いていたのが、今の三成の言葉から察せられた。


 だが、秀吉自ら語らなかったこと、さらには三成が招いてしまった一瞬の静寂が、居並ぶ大名たちに、本当に内府は惣無事破りを自覚していたのかと、考えさせてしまった。そう思えば、この裁定は重すぎる。

 当の家康は額を畳にこすりつけるようにして平伏している。家康が秀吉に降って以来、初めて見せるその姿は、諸大名が家康の無自覚を納得させる気持ちを増幅させた。


「治部少輔殿にご教授いただきたいことがある」

 諸大名の気持ちを反映して、真っ先に異を唱えんと手をあげたのは、存在感を示すことでは超一流の伊達政宗だった。


「一揆が勃発した地は、畿内から遠く離れた関東にあり、徳川殿の両国は北条領を囲むように存在している。つまり、どこから一揆勢に食い破られてもおかしくない位置関係にあった。一揆の拡大を恐れ制圧に走り、残党の反撃を防ぐために無政府状態の両国に駐在した行為は、ごく自然だとわしは思うが」

「徳川ほどの大国が一揆勢の侵攻を恐れる必要はなかろう」

 政宗に対する三成の対応は無機質だった。

 この瞬間に全ての大名の心情が徳川に傾いた。


「これは不思議なことを申される。戦とは時と勢いに左右されることは、信長公の桶狭間、古きところでは、北条氏康による川越夜戦、毛利元就の厳島など、枚挙に暇がない。武にて日の本を統一した豊臣家が、この戦の理を無視されるのか」

 この舌戦、三成の負けだった。いや元々政宗と三成の勝負ではなかった。家康が見せた最初の姿、それがこの法廷の全てを制したのだった。

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