第38話 転落、裏切り、そして救い
徳川軍が義国党に対して侵攻を始めた。
箕輪城から酒井忠次が一万五千の兵で進発し、甲府からは信州の兵を加えた井伊直政が二万を率いて小田原城に向かった。そして船橋からは家康自身が本田忠勝と榊原康政を加えて、二万五千の兵を率いて川越城に向かった。
慌てたのは義国党の首脳部だ。
伊蔵が川越に戻った直後に始まった徳川の大進撃は、惣無事令の中まさか外交交渉もなしに、軍事行動に踏み切ることはない、と思っていた伊蔵たちを思考停止にした。
軍事的な対応をとる間もなく、鉢形城、忍城、小田原城、玉縄城が続け様に降伏開城し、最後に残った川越城も、家康の兵に包囲され、まさに絶体絶命の状態に成っていた。
「これからどうなるのかしら」
加代が不安を滲ませた声で伊蔵に訊いた。
「大丈夫だ。ここには一万の兵が守っているし、城の守りは堅い」
伊蔵たちに落とされた事実の前では、何の保障にも成らない言葉だが、軍事のことは分からない加代には、少しばかりの慰めにはなったようだ。
普通に考えれば、川越城は守るに適した高さはないが、周囲は沼沢地で足場が悪いため、攻め手はかなり苦労するはずだ。徳川軍は大手門だけでなく、本丸に近い南門にも兵を送ってきたので、周たちは城の中で最も高い富士見櫓に登って、敵の動きを観察している。
伊蔵は加代と共に本丸に残った。
どことなく、半分諦めている自分がいた。
兄の仇討ちと加代の受けた恥辱を晴らすために旗揚げし、瞬く間に小田原城まで落として北条氏を滅亡させ、武蔵と相模の主となった。
僅か半月ではあるが、義の旗を揚げて義国党と名乗り、民の手による民のための国を創った。政のしくみや統治の実績こそないが、志は天下に示した。
もう十分だ。心残りはないと思った。
伊蔵はまだ不安が拭いきれずに、小刻みに震えている加代の肩をぐっと引き寄せた。加代は何も言わず伊蔵の胸に顔を埋める。
自分を信じて頼り切った顔を見ていると、加代のための蜂起でもあったが、結果として加代を不幸にしてしまった罪の意識が押し寄せて来る。
「すまない」
伊蔵のつぶやきを耳ざとく聞きつけ、加代が顔をあげる。
「どうしたの」
いつもの加代の声と違って、消え入りそうに聞こえる。
その顔を見て、伊蔵は弱気な自分を叱咤した。
「いや、なんでもない」
空元気を出して力強く答えると、加代は多くを問わずに再び顔を埋めた。
「南門が破られた」
飛び込んできたのは、周と共に富士見櫓に向かった三太だった。
「もう破られたのか」
兵も矢も十分にあるはずなのに、城門が破られるのが余りにも早い。
「裏切りだ。敵が城門の前に迫ると、味方が門を開いた。それを見て守っていた兵が次々に降伏している。もうすぐここに敵兵が来る。お前は加代とすぐに城の外に逃げろ」
三太の鬼気迫った顔は、その言葉が大げさではなく事実であることを示していた。
「周はどうした?」
「敵が迫ってきたとき、南門に向かった。今頃は戦っているか、死んでいるか……」
周の行方を答えた三太は、がくっと項垂れて肩を落とした。
加代は再び震えながら伊蔵の顔を見上げた。
その顔を見て、伊蔵は決意した。
「分かった。この城を出よう。お前も一緒に来い」
「俺は行かない」
「なっ――」
三太は悲しそうに首を振っている。何やら決意を秘めた顔を見て、伊蔵は言葉が続かなかった。
「俺はお前の身代わりとしてここで死ぬ。時間稼ぎぐらいにはなるはずだ」
「ダメだ。身代わりなどいらない。俺たちと一緒に逃げてくれ」
伊蔵は声を枯らして、三太を説得した。
「俺が逃げたら追手を振り切れない。伊蔵、お前は生きてくれ。いや、生きるべきだ。俺たちがどうして旗を揚げたのか、そしてどんな国を創りたかったのか、お前は生きて皆に伝える役目がある。頼む」
三太にしては珍しく雄弁だった。ずっと三太なりになぜ自分たちは戦うのか、その意味を考えていたのだろう。
「分かったよ。俺は自分に課された責任を全うする」
伊蔵はいつの間にか泣いていた。
「早く行け」
三太は泣き顔を見せないように、伊蔵に背を向けて逃亡を促した。
急がなくてはならない。
弱々しく泣いている加代の手を引いて、伊蔵は本丸を出ようとした。
「加代を幸せにしてやってくれ」
三太の最後の願いが伊蔵の背に突き刺さった。
そうか、三太も加代が好きだったのか――加代が元次に暴行を受けたとき、三太にしては珍しく怒りを露わにし、代官所襲撃に積極的に従ったわけを、このとき伊蔵は初めて理解した。
伊蔵は反対を向いている三太の背に、加代と二人で頭を下げてから、本丸の北にある馬場に向かって走り始めた。
伊蔵は北に向かって馬を走らせていた。
背中にしがみついている加代は、逃亡中ずっと黙っている。
城を出たとき、川越に残って家族とともにいるか、自分と一緒に逃げるか、一度だけ訊いた。
このときだけ、加代はしっかりした面持ちで、「一緒に行く」と答えた。
伊蔵は入間川を超えたところで、西に進路を変えた。
坂戸宿を抜けて秩父に入れば、徳川軍も容易に自分たちを見つけることはできないだろう。そのまま秩父に潜伏して、春になったら信州を目指すか、山沿いに南下して駿府に行ってもいい。
逃亡先を考えていると、突然馬が膝を折り急に走るのを止めたため、伊蔵たちは宙に投げ出された。
伊蔵は咄嗟に加代を庇って、背中から地面に落ちた。激痛が背中から身体全体に広がる。
痛みを堪えて横倒しに倒れた馬に目をやると、後ろ足に細く黒いものが刺さっている。
髪毛針だ!
伊蔵の頭に川越城で己が救われたときの光景が蘇る。
なぜと、混乱したまま後方を見ると、追っ手の一団が迫ってきていた。
それを見て、万事休すと伊蔵は死を覚悟した。しかし追手の先頭を走る男を見て、諦めが驚きに変わった。
「周!」
思わず大きな声でその名を叫んだ。
周も川越城を抜け出して、自分たちを追ってきたのだ。
これまで周の智謀に助けられた様々な場面が頭の中を駆け抜ける。
最も頼りになる男の姿を見て、伊蔵の心に希望が芽生えた。
「すまん。手荒なことをした。このままお前たちを見失うわけにはいかなかった」
追いついた周が、馬を倒したことを謝った。
「いやいい。駆けつけてくれて心強く思う。一緒に来た者たちは見慣れぬ顔だが、前に言ってた忍崩れの者か」
伊蔵は早口で矢継ぎ早に訊いた。周が追いついたと言うことは、追手も追いつく可能性が高い。
周は伊蔵の問いには答えず、一緒に追ってきた者たちに目で合図した。
周と一緒に来た者たちは、伊蔵の周りに走り込み、たちまち取り囲まれた。
不審に思いながら、伊蔵は尋ねた。
「早く逃げないと。こいつらは何をしてるんだ」
咎めるような伊蔵の言葉を聞いて、周は不敵に笑いながら口を開いた。
「今からお前を捕らえて、徳川に引き渡す」
「何を言ってるんだ。気でも狂ったか」
「狂ってなどいないさ。これは最初から計画されたことだ」
周が信じられない言葉を口走った。
「計画? 誰の計画だ」
「そんなことはお前は知らなくてもいい。お前に残された役目はただ一つ。反乱の象徴として処刑されることだけだ」
「裏切ったのか」
伊蔵は、初めて周の裏切りに気づいた。怒りよりも悲しみが全身を包む。
「裏切ったのではない。お前を助け、北条を倒すことは始めから計画されたことなのだ。お前はこの猿楽のシテとして十分に役目を果たしてくれた。だがもうそろそろ幕が下りる。俺もこれでようやく元いた場所に戻ることができる」
猿楽、シテ? ――伊蔵には周の言うことがよく分からなかったが、最初から自分を利用するために近づいたことだけは理解できた。
「待て、そうすると、兄の死や加代の受けた暴行は、全部お前たちがしくんだことなのか」
血を吐くように叫ぶと、伊蔵は憎しみの籠もった目で周を睨み付けた。
「もう、いい。黙って従うんだ」
周が伊蔵を捕らえようと、右手を挙げた。その右手が手首から切り離されて、ポトリと落ちた。
ギャアァー。
地面に転がる手首を見て、周が絶叫する。
叫び声を合図にしたかのように、手首の無くなった右腕から血が噴き出した。
右手を失った痛みで転げ回る周を見て、伊蔵を取り囲んだ者たちの間に動揺が走る。
「何もかも思い通りにいくと思わないで欲しいな」
周の背後から二人の男が現われた。
それを見て、急いで伊蔵を捕らえようとした追手の首がポトリと落ちる。
追手が警戒して包囲を解いて一つに固まる。
追手が首を切られた様子を伊蔵ははっきりと目撃した。
現われた二人の内、背の高い方の男が刀を振ると、刃が届いていないのに追手の首が落ちた。
「カマイタチ――まさかお前は自連の……」
周が腕の痛みに顔を歪めて、助けてくれた男に向かって叫んだ。
「よく分かったな。私は真野梨音、もう一人は弟の太郎。自連代表真野勝悟の命で、中田伊蔵をお前たちの手から保護する」
なぜ、自連の代表が自分たちを保護してくれるのかは分からないが、とりあえず周に捕らえられるより、こちら方が安全な気がした。
しかも圧倒的に強い。
伊蔵は加代の手を握り絞めながら、無残な姿で地に転がった周の姿を見ていた。
助かる希望が見えたにも関わらず、その目には喜びはなく、虚ろな光を放っていた。
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