第37話 竜の目覚め
「小田原城が落ちただと」
伊豆守備軍からの報告に、めずらしく勝悟が声を荒げた。
「はい。玉縄城が落城後、義国党はそのままの勢いで小田原城に向かい、力押しで難なく小田原城を制圧しました」
「信玄公や謙信公でさえ、落とせなかった城だぞ」
まだ勝悟には信じられない思いが強く残った。
「何でも義国党軍が城門に迫ると、北条軍に内応者が続出し、普通に固めれば決して落ちない小田原城を、ほとんど犠牲を出すことなく落としました」
勝悟は勢い込んで立ち上がったものの、身体の力が抜けてそのままペタンと腰を下ろしてしまった。
船橋で川越に一揆が起き、川越城が落とされたと聞いて、梨音と共に急いで駿府に戻ったのが一月前。
隣国の凶事に、予定していた代表選挙を半年先に延期し、北条家からの援軍要請にすぐに応えられるようにと、遠征軍を組織している矢先の凶報だった。
「それで、氏盛殿はどうなった?」
「氏盛殿はそのまま伊豆に逃れ、伊丹康直様が保護したようです」
とりあえず、六代目当主は無事だと聞いて、勝悟はほっとして胸をなで下ろした。
北条家には恩がある。氏直の急死に加え氏盛まで敗死しては、今は亡き氏政や氏照に申し訳が立たなくなるところだった。
「あっけないものだな。国が亡くなるときは――」
勝悟と共に武田菱の下で戦い、国が滅びるときに何もできない思いを共感した男が、過去を懐かしむように呟いた。
保科正直は全身大火傷を負って、何とか一命を取り留めたが、頭の皮膚は焼けただれ、顔には醜い火傷の跡が残ったので、目だけが出た
声帯も焼けたので、昔のような大きな声が出せず、しゃがれた低い声でぼそぼそと話す。
それでも、生きて側にいてくれるだけで、勝悟は心に拠り所を持てるので、負担であることを承知しながら、好意に甘えて政庁に出仕してもらっている。
「まさか、あの北条家が領民の手によって滅亡するとは、信じられない思いです」
今は駿府大学校に通う傍、政庁の外務機関に所属し、諸国の情勢分析を担当している太郎が、一揆の勢いを見誤ったと責任を感じていた。
「それにしても、野には大した男がいる者だな。聞けば北条の誇る堅城が次々に落ちていったのは、城兵が一揆の大将に心服して寝返ったせいだと言うではないか。そこまでの英雄的資質を持った男は、あの織田信長以外、わしは知らん」
正直がかって激戦を繰り広げた相手の名を、懐かしむかのようにあげた。
「信長とは少し違うような気がします。信長はあくまでも、かの者個人の英雄としての魅力が人々を引きつけましたが、義国党大将の中田伊蔵は、義に厚いだけの普通の男です」
太郎は風魔の調べによって得た情報を、自分なりに分析し、伊蔵という人間をかなり正確に捉えていた。
「では、城兵が次々に投降する理由を、太郎はどう考えている?」
勝悟は我が子を試すように太郎の見解を求めた。
太郎は急に顔を紅潮させた。勝悟の質問に答えるときはいつもこうなる。何もかも見通す神の目に対し、自分の意見をぶつけることの虚しさを、幼いときから経験し続けてきた。それでも早く父の背中に追いつきたいという思いが、のんびりと学生生活を楽しむことを否定し、政庁の業務へと走らせた。
「手元に集まった情報を分析しますと、伊蔵が蜂起する以前から、北条領内では民の間で異様なまでの正義に対する執着が見られています」
太郎の口から正義という言葉が出てきたとき、梨音の顔が険しくなった。
「例えば間男と密通した商家の嫁が、発覚と同時に間男共々町の者に私刑を受けました。間男は男根を切られ、嫁は顔を焼かれるという、普通では考えられない激しい仕打ちを、一般の民の手によってなされています」
梨音がたまらずに口を挟もうとするのを、勝悟が目で制する。
太郎は二人のやりとりに気づかずに話を続けた。
「それは民だけではなく、兵の間にも蔓延していて、代官の不正を正した伊蔵が英雄として受け入れられ、江戸城を除く全ての城攻めに当たっては、城方から寝返る者が続出しました」
ここで、太郎の話を黙って聞いていた勝悟が口を挟んだ。
「江戸城だけ、寝返りが出なかったのか?」
「はい。さすがに北条康種殿は、部下の統制が取れていると感心しました」
「おかしいな。戦の内容で他の城との違いはなかったか?」
勝悟は康種の将としての力量は認めていたが、それだけで裏切りが防げると、短絡的に考えることを良しとはしなかった。
太郎は考慮不足だと指摘されたと思ったのか、顔を真っ赤にして考え始めた。
「戦の内容としては、康種殿は籠城を良しとせず、城前に出撃して二万の大軍を迎え撃ちました。ただ、寝返りを防ぐ上では、二万の敵に寡兵で野戦を臨むよりも、籠城した方が効果があるように思いますが」
「籠城しなかったのは江戸城だけか」
「いえ、川越城でも最初は城を出て迎え討っています」
「川越もか」
勝悟は川越で大道寺家の家中の者と共に、秀吉の大軍と戦ったときの記憶を思い出していた。
「大道寺家には小野作左衛門という、北条家でも指折りの猛将がいたと思うが、一揆勢に攻められたときは不在にしていたのか?」
「いえ、小野殿は軍の先頭に立ち、農民兵を蹴散らしながら、大将の中田伊蔵の前まで進んだのですが、そこで一歩及ばず討ち捕られました」
勝悟の心の中に疑問が生まれた。作左衛門ほどの戦人が、敵の大将を目の前にしてむざむざと討ち取られるとは、どうしても思えなかった。
敵の壁が厚くて討ち取れそうもなければ、一旦引いて攪乱に出るだろうし、大将の前まで行けたのならば、討ち取る余力は十分に残してあるはずだ。
しかも相手は農民兵だ。万が一にも計算違いが起きるとは思えなかった。
「作左衛門を討ったのは誰か分かるか」
「大将の中田伊蔵が自ら討ち取ったと聞いております。ただ、その前に忍のような者が一揆勢の中にいて、髪毛針で目を潰したと、戦を見ていた風魔の者が申しておりました」
「髪毛針だと」
梨音が反応して思わず叫んでしまったが、勝悟がまだ話すなと目で制した。
「なるほど、作左衛門が討たれて城方は城に逃げ込み、籠城となったわけか」
「はい。正確には、逃げ込んだ直後に一揆勢も城内になだれ込んだので、籠城にはならなかったようです」
「門番は城門を閉じなかったのか?」
「味方が敗走するのを見て、門番は閉じる役目を放棄して逃げ出したようです」
全てを聞いて勝悟は目を閉じた。勝悟が考え始めたことを皆が察し、誰もが口を閉ざして、勝悟の言葉を待った。
「全て分かった。鍵は城門だ。北条兵は城門に敵が迫ると、城門を開くように暗示をかけられていたのだ。だから野戦を貫いた北条康種は、落城を免れた」
「暗示って、誰がそのような――」
太郎が勝悟の話について行けず、言葉に詰まった。
「太郎、お前は良く調べた。大事なところを漏らさずすくい取ったから、何が起きたのかつぶさに知ることができた。ただ、お前は船橋に行ってないから、民への洗脳を知らない。だから暗示に気づけなかっただけだ。そうだなぁ、梨音」
勝悟に同意を求められて、梨音が大きく頷く。
「そうなると、義国党の崩壊は近いな。元々力で勝ち取ったわけではないからな」
「どういうことか、さっぱり分からないのですが」
太郎が理解できずに、頭を抱えた。
それを見て、勝悟が梨音に裏観世の話をするように促した。
梨音は、船橋の民が観世流の舞台を見て洗脳されていること、それは船橋だけでなく関東中に興行を打って広がっていること、そして観世流には裏観世という一派があって、それぞれが恐るべき使い手であることを順に説明した。
「徳川領にいつの間にかそんな脅威が生まれていたのですね」
太郎の柔らかい思考は、すぐに観世流の全貌と今回の一揆との関係を理解した。
「それで、一揆勢に対して自連はどう対応する?」
それまで黙って聞いていた正直が、勝悟に対して最大の決断を迫った。
「放っておくさ」
「何もしないのか?」
正直が静かな声で聞き直したとき、勝悟は黙って頷いた。再び沈黙が続く。
「そうだな。氏盛殿は無事保護したのだ。他国とは言えど、民を攻めるのは自連の精神に反するな」
正直の解釈に、皆自分を納得させたのか、どことなく緊張が解けたような顔をした。
「これから正直と二人で、北条家の面々を偲んで語り明かす。皆はもう下がってくれ」
勝悟の申し出に、皆が退出していく。
正直は一人、目を閉じていた。
皆を送り出した後で、勝悟が酒の入った大徳利とぐい呑み盃を二つ運んできた。
勝悟はぐい呑み盃に酒を入れて、一つを正直に差し出す。
「少し、つきあってくれ」
正直は黙ってぐい呑み盃を受け取った。
「世は儚いものだな」
勝悟は酒を一口飲んで、寂しそうな目をした。
「氏直殿の急死が悼まれるな。だが観世流の動きを思うと、こうやって悼んでばかりもいられない」
「まだ観世流と徳川の関係がはっきりと分かってない。今度のことも観世流が単独でやったとも思えない」
勝悟の顔つきが変わってきたことに、正直は気づいた。
それは正直が好きな顔だった。
「どうやら、やる気になったみたいだな」
「ああ、義国党に対する徳川の出方を見れば、その狙いを全て見通せる」
「場合によっては、再び戦に成るな」
「ああ、これまで経験したことのない大きな戦が起きる」
勝悟は臆した様子もなく、盃を傾ける。
正直も満足したような顔で、二杯、三杯と盃を煽った。
その姿は乱世を生き抜いた二匹の竜が、再び訪れるようとする戦に備えて、牙を研いでいるように見えた。
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