第32話 観世流の秘密

「猿楽の発祥はまだ奈良に都があった時代に遡ります」

 奈良から京に遷都が成されたのは、今から九百年近く前だ。勝悟は思わず子供の頃に見た東大寺や法隆寺を思い浮かべ、そのときに感じたずっしりとした歴史の重さを思い出した。


「ちょうど仏教と共に様々な文化や芸能が大陸から伝わってきました。その一つが伎楽ぎがくです。伎楽は特に聖徳太子によって奨励され、法隆寺や東大寺などの大寺院には、伎楽を上演する一団が必ずおかれていました」

 勝悟は伎楽を知らなかったが、大寺院の記憶と重なって、厳かな美しさを連想した。


「やがて伎楽は大衆化し、民が暮らしの中で親しんでいた様々な芸能と混じり合って、おかしみを含んだ劇や物まねと成っていきます。これが初期の猿楽です」

「そこまでは、人身を操るような感じはしないな」

「はい、猿楽がそういった裏の要素を持ち始めたのは、平安の世に移り呪禁じゅごん道の影響を受けてからです」


 呪禁と聞いて勝悟はハッとした。呪禁とは呪文を詠んで、人々の健康の妨げとなる邪気や獣類を払う術のことだ。平安の世の朝廷は、呪禁を操る陰陽師を高禄で雇い、世情の安定にその力を借りたと言う。当時の高名な陰陽師としては、賀茂忠行や阿倍清明などがいて、今でもその子孫は二大陰陽家として君臨している。


 しかし陰陽師の頂点は何と言っても帝室だ。帝こそ最大最強の呪禁を操る存在であった。事実、勝悟は過去に帝の呪法によって、全ての気力を吸い取られたことがある。

 幸村の話を聞いて、勝悟が最初に重長や黒獅子の技を見たときに、帝の影を感じたことがはっきりとつながった。


「猿楽はその後、公家や武家の庇護を受けながら大きく発展し、大和四座しざや近江猿楽六座などの座が生まれます。観世流は大和四座の一つで、芸を競って勝負を決する立ち会い能では無類の強さを発揮したと聞きます」


 その強さの源として、呪禁に秘められた人々の心を揺さぶる技が、織り込まれていることは容易に想像できた。


「元々猿楽自体に呪禁の要素があり、立ち会い能に強くなるために、観世流は呪禁の技を取り入れたと考えれば、裏観世は観世流と結びついていると考えるのが、自然なのではと思うが」


 この勝悟の意見には、幸村は首を横に振りながら否定した。


「現在の観世流と裏観世の間には、深い怨恨があって、それが高い相克の壁となって、容易には両者が交わることはありません」

「深い怨恨・・・・・・」


 真田はいち早く豊臣と和を結び、幸村を人質として京に送っている。戸隠忍という諜報機関を持ち、自身が旺盛な知識欲に溢れているためか、幸村は都の文化や芸能についてかなり深い知見を持っているようだった。


「観世流は流祖観阿弥、二代目世阿弥の親子が、足利三代将軍義満の支援を受け勢力を拡大しました。特に世阿弥は、幼い頃から和歌や連歌といった上流教育を受けており、それまで物まね中心であった猿楽に歌や舞を取り入れ、それを反映した『高砂たかさご』や『井筒』といった大作を書き上げました。まさに猿楽の革新を成し遂げたと言えます」


 勝悟も中学生のとき一度だけ、父に連れられ国立能楽堂で『高砂』を観たことがある。ただ現代に活きる能であるから、伝統の重みや芸術美は感じられても、人身操作や裏観世のような武道的な感じはしなかった。


 幸村の説明は続く。

「二人の活躍により観世流は一躍隆盛と成りましたが、世阿弥の嫡子元雅は巡業先で客死し、甥の元重が観世大夫を襲い三世観世音阿弥と成りました」

「元雅には子供はいなかったの?」

 健が不思議そうな顔で幸村に尋ねる。


「音阿弥は当時の将軍足利義教の寵愛を受け、世阿弥元雅の親子にはずいぶん迫害を加えていたらしい。元雅の死も暗殺ではないかという噂もあるぐらいだ。だから元雅の子供たちは京に戻らず身を隠した。その子孫が裏観世と成ったのです」


 幸村の話に健は大きく頷き、

「それなら、裏観世と観世流本家の仲が悪いのは分かるよ」

 と、得心した顔を見せた。


「ところが観世流の最大の支援者であった足利将軍家は、応仁の乱以降急速にその力を失っていきます。同時に都も荒れ果て、公家衆も猿楽どころではなくなり、観世流は勢いを失ってしまいました。そんな苦境の中で観世流は徳川に近づき、現観世流九世黒雪は家康の側近と成っています」

「どうして、徳川だったの?」


 今日の健はいつにも増して真剣に話に食らいついてくる。

 やはり慎が心配なのだろう。

 勢い込んで前のめりになる健の左手を、春瑠がぎゅっと握りしめた。


「それはさすがに分かりません。信長殿の興味はよく知りませんが、関白殿下は猿楽は好きですが金春流を贔屓にしておられる。そんなことも関係しているかもしれません」


 幸村の推測通りとすれば、観世流の指導者はなかなかの目利きであると、勝悟は思った。今や秀吉に次ぐ大大名である家康だが、その当時は三河一国の中勢力であり、地勢的にも大きくなる要素はなかった。


「さて、これからいよいよ裏観世の話となります。元雅の子孫は京に帰らなかったと話しましたが、それでも猿楽から離れることはなかった。諸国を流浪して行く先々で猿楽の興行を打ち、細々と食いつなぎました。やがて、裏観世の一団は漂泊しながら、各地の道々の者を次々に仲間に引き入れ、だんだんと大きな集団になっていきます」


 幸村の言う道々の者とは、安定した定住地を持たず、山野河海の様々な場所で活動し、道を通り市に姿を現わす漂泊する民で、海で漁を成す海人、山で木を切る山人、遊女や傀儡くぐつなどの芸能民、塩売りに薬売り、鋳物師いもじなど、その職業は多岐に亘った。一所に定住しないということは、各土地に君臨する権力者を上に置かないということであり、この世でただ一人帝だけを上において、生きている者たちだ。


「この道々の者の中には大陸から渡来した帰化人も多く、大陸渡来の忍の術や芸能の奥伝、さらには高度な呪法に精通する者がいます。裏観世はこうした道々の者を仲間に加え吸収することにより、だんだんと諸国の情報を集める諜報活動や、人心を操り世情を乱したり落ち着かせたりする工作活動を請け負うようになりました」


 幸村の話を事実とすれば、恐るべき集団である。

 道々の者は、一所に定住し普通に市井の中に生きている者とは、滅多なことでは交わることはない。しかし、道々の者が有する特異な能力は、多くの一般の民から恐れられ、権力者はこぞってその能力に金を払った。


「裏観世が俺の知らない力を持ってたわけは分かったよ。それにしてもなぜ秀次殿の屋敷を襲い、慎を誘拐したんだ」


 健は阿蘇惟光を阿蘇神社の大宮司に就けるために働いたとき、阿蘇神社を訪れるたくさんの道々の者と知り合い、その能力や考え方はよく知っていた。それだけに道々の者を多く含む裏観世が、己の意思で今回の襲撃を画策したとは思えなかった。


「やはり最初の見立て通り、徳川が黒幕にいると思う方がいいでしょう。そして黒雪の話は嘘で、観世流と裏観世は現在は和解し、協力関係にあると考えた方が自然だ。事実、高遠で見た黒雪の舞台から受けたあの感覚は、裏観世が使うとされる技に似ている。表社会で生きてきた黒雪が、裏観世の協力無しにあの技を使うのはおかしいからだ」


 幸村の見立てを聞いて、勝悟は観世黒雪に少しばかり恐怖を感じた。


「自由を愛し帝以外を主と認めない裏観世が、怨恨を超えて観世流に組みしたとなると、観世黒雪という男の支配力は帝すらも超えるかもしれない。あるいは本当の黒幕は徳川ではなく帝なのか・・・・・・」


 勝悟の顔が曇る。

 帝の力の恐ろしさは、自身にかけられた呪いの強さから想像できる。あのときは南蛮の悪魔払いの力を借りて、なんとか払うことができた。

 またあの力と対決するかと思うと背筋がぞっとした。


 突然、怒声が部屋の中に響いた。

「相手が帝だろうが、帝と同じ力を持ってようが、そんなことは関係ない。俺は俺の大切な友達を奪った奴らを絶対に許さない」


 勝悟は顔を真っ赤にして、戦うことを宣言した健を見て、肩に乗っかった重しが砕けるような気がした。


「そうだな、健の言うとおりだ。これは退くことができない戦だ」

 勝悟の顔にも赤みが差してきた。


「徳川と観世流をよく知る幸村殿は、慎を救出するために我々はどう動くべきだと思う?」

「慎殿は真野様が大坂にいる間は、おそらく大坂の徳川屋敷にいると思います。思い切って家康殿に会見を申し込まれてはいかがですか」


 幸村はあえて虎の穴に踏み入ることを提案した。

 大胆だが、それが一番確かな方法のように感じる。


「よし、徳川屋敷に乗り込むか」


 勝悟は少しばかり気持ちが昂揚してきた。

 家康とは、戦場や今日の謁見会場などで顔を合わせたことはあるが、対面して会話したことはなかった。


 最初に戦ったのは、家康が今川領に侵攻したときに、高遠から浜松を抜けて掛川城を攻めている背後を突いた。数で勝る武田軍と敵地で戦う圧倒的に不利な状況で、家康は大敗にも関わらず自国まで逃げ延びていった。

 その思い切りの良い逃げ方に、さすがは戦国の最終勝者と感心したものだ。


「徳川屋敷に行くときは某も同行いたします」

 幸村が力強く助成を申し出た。

 その言葉に勝悟は思考を中断して、

「かたじけない」

 と、応じた。


 健はいよいよ慎救出の行動を起こすことに、気が高まって今にも炎を噴きそうだ。

 その傍らで春瑠が健の左手を握った手に力を込める。

 警護役として慎を攫われた責任を感じている長恵は、静かに名誉挽回の機会と闘志を燃やす。

 この場の全ての者が慎の奪回に向けて心を一つにしていた。

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