第33話 家康の真意
大阪城は北から東にかけて川に囲まれているため、城下町は南と西に拡がっている。
城から四天王寺にかけて二つの道が伸び、そこに面して関白の町の未来に夢を託した人々の町家が軒を並べる。
一方武家屋敷は二の丸の外側に、まず有力家臣や親豊臣の大名の屋敷が立ち並ぶ。豊臣秀次の屋敷もそこにあり、それぞれの屋敷はおよそ二間から三間の幅の堀に囲まれ、その外側を秀吉直属の下級家臣の屋敷が取り囲む。
これらの武家屋敷が城を守る砦の役割を成し、堅固な大阪城を更に要塞化している。
徳川屋敷はさらにその外側となる総構えの外にあった。
この位置取りが豊臣政権下における、家康の微妙な立ち位置を示していた。
勝悟が秀吉に謁見したその日に、家康は尾張と三河を返上する代わりに上野、上総、下総、そして下野の五郡を分け与えられた。その総石高は二百万石。石高だけでみれば主家である豊臣家と並ぶ大大名だ。位も既に内大臣を拝命しており、人々からは内府と呼ばれ、その発言は天下の刑政に大きな影響を与えた。
しかし実際の家康は、千尋の谷にかけられた不安定な吊り橋の上を渡っている。
主家に匹敵する大身の大名に成ったことで、家康の放つ言葉や行動全てが厳重に監視され、少しでも隙を見せれば反逆に結びつけられ潰される。
世の中が落ち着きを見せ、多くの者の心が安らぎに包まれる中で、徳川家だけは神経を休めることなく、心の戦いを続けていた。
それでも秀吉の存命中はまだいい。
秀吉が示した天下の絵図に賛同し、天下取りに協力した者として、その立場は尊重されいたずらに攻撃されることも少ないが、当事者である秀吉亡き後はその功績は効力を失い、豊臣政権の中枢にいる者は大きすぎる力を警戒し、あらゆることに難癖をつけて、その力を奪おうとするだろう。最悪徳川家は消滅する。
勝悟にはそんな家康の心情が手に取るように見えていた。これから始まる泰平という名の裏で、暗闘が繰り広げられる未来が家康の前に広がっている。
家康は知っているはずだ。今自分の発する指示の一つ一つが、そして自分のほんの些細な行動が、瞬く間に明日の徳川家を窮地に立たせる危険を帯びてることを。
これからの世の中を生き抜く上で、慎を手中にする価値は大きい。それは今の徳川家において最も欲する価値であることを、勝悟は正しく理解している。同時にこの状況でそれをすることにより、徳川家に降りかかる危険の大きさも。
だからこそ勝悟はここに来た。
この誘拐が家康自身によって下された指示で、行われたか否かを確かめるために。それは慎の今後の安否に大きく影響する。
長年繰り広げた戦を通して、勝悟はいつの間にか家康という男の一番の理解者に成っていた。
愚直で粘り強く信念を曲げない。
家康が直接指示を出している限り、どんな事態に陥っても慎を殺すことはない。
家康に対しそう思うだけの信頼感が、勝悟の心の中にはあった。
「二百万石の大大名の屋敷とは思えないなぁ」
健は徳川屋敷の門の前で、拍子抜けしたように呟いた。
「徳川は質素倹約が家訓のような家だから、この屋敷にもその精神が表れているのだろう」
家康が変わり者のような口ぶりで話しているが、勝悟にしても石高は五十万石ながら、実質的な経済力は二百万石と言われる自連の代表とは思えない。たった五人で大阪入りし、今日も幸村を一人加えた五人で家康を訪ねている。
徳川屋敷の門番は、この貧相な五人組がまさか自連の代表たちだとは思えず、勝悟が名乗ったときには偽物ではないかと、疑わしそうな目を向けた。勝悟の顔を知っている石川和正が表れ、本物だと分かってもまだ信じられないような顔をしていた。
屋敷内も質素だった。至る所に金箔が張られている大阪城はともかく、先日尋ねた秀次の屋敷と比べても、貧寒な印象は否めない。
健などは、最初はきょろきょろと落ち着きなく周囲に目を走らせていたが、すぐに興味を失ったようにおとなしくなった。
家康は屋敷の奥の部屋で、勝悟たちを待っていた。
今年四八才に成る家康は、見た目は若々しく生気に溢れていた。先日謁見した秀吉は家康より五才年上だが、見た目は十才以上の年の差があるように見える。
「こうして対面するのは初めとなりますかな」
最初の儀礼的な挨拶の後、まず口を開いたのは家康だった。
短いその言葉には、万感を籠めたような重さがあった。
勝悟は、「うむ」と頷き、長年に亘って戦い続けた男の顔を見ながら、
「長い戦いでした」
と応えた。
二人の間には十五年に及ぶ戦いの歴史がある。
勝悟にとって生涯最大の敵は織田信長だったが、信長との戦の先陣を切るのは必ず家康だった。何度打ち破っても家康は必ず生き延び、次に現れるときにはより手強い敵と成っていた。
「わしはいつも真野殿に敗れる役でしたな」
負け続けたことをあっさりと認めた家康の顔には、今や秀吉に次ぐ大勢力の長としての自信が溢れている。
「何の、戦人の価値はどんな場面でも生き抜いて、次の手を打つところだ。その意味では内府は当代随一の戦人だと思う」
勝悟は心からそう思っていた。
勝頼は確かに強い大将だったが、最後は天寿を待たずして天に旅立ってしまった。
「いやいや用心深さが徒になり、大胆な手を打てぬが故に生き延びて来れたのでしょう。前の東征では倍の兵力で臨んだにも関わらず、真野殿の差し向けた手の者にいいように遇われました」
負けたと言いながらも、家康の顔に悔しさは浮かんでない。
「あれは、最初から勝ち負けがはっきり出ぬように仕組まれた戦でしょう。おかげで当方は北条援軍に主力を割くことができなかった。少なくとも関白殿下の意図は十分に果たしたと思うが」
戦場にいなかったにも関わらず、勝悟は正確に秀吉の意図を見抜いていた。
大人然としていた、家康の顔に僅かながら驚きの色が浮かぶ。
「ハハ、敵いませぬな。わしはあの戦で、我が軍団に確かな手応えを感じておった。自連を破って最強の称号に手が届くと思って、身体が震えたものだ」
家康が遠くを見るような目をした。
西国大名は本気で戦わず、豊臣の大軍はすぐに崩れて、逆に味方の士気を落とした。
もしかしたら、徳川だけであの戦に臨めば、もっと戦えたはずだという苦い思いが、家康の胸を過っているに違いない。
「天下一とか最強とか、そんなことは偶像だと、既に内府の心の内は切り替わっているのではないか?」
勝悟がいきなり核心をついた。
家康の目に警戒の色が走った。
「これは異な事を申される。戦国の世に生きて、最強の称号を求めぬ者はおらぬ」
「その戦国の世は終わりに近づいている」
「どういうことですかな」
家康は勝悟の言葉の意味を分かっていて、あえて説明を求めたという風だ。
この問いかけの中に、勝悟の訪問の目的の探りを入れるような意図を感じた。
「今の戦は昔の戦と様変わりしている。既に信玄公や謙信公が勢力の境界を争っていた時代ではない」
勝悟はあえて家康の誘いに乗った。
五千や八千の兵がぶつかる時代は、単純な戦闘力の強さや、地形や敵の将の性格を読む局地的な戦術が優劣を分けた。
やがて数万を超える兵が動員されるようになると、簡単には決着はつかなくなる。相手の陣営を計略にて攪乱し、流言を放って同士討ちを誘う――まさに軍師が戦場の主役に躍り出る。
だが二十万という兵が動員される今の時代には、戦い続ける力こそ意味を成す。局地戦の勝利など何の意味もない。大兵力を動員して対峙しても国が潰れない。そういう国力こそ勝敗の鍵となるのだ。
家康は沈黙した。
耐えがたいその真実は言葉にされなくても十分に理解している。
戦に勝って領土を勝ち取る。
自分が生涯をかけて従った素朴な決め事は、いつの間にか古い時代のものと成って、無効な存在となってしまった。
代わって出てきた決め事は、産業を育成し人を集めひたすら国力を高め、金の力で他国を圧倒し支配する。豊臣が目指しているのはそんな世の中だ。
多くの民は戦が無くなることに歓喜するだろう。
しかし、家康はどうしても納得できなかった。
それは理屈ではない。
これまでの半生をかけて培った誇りが、何の意味も成さなくなる世がくるのだ。
代わりに金を稼ぐ才覚のある者が、我が物顔で世の中の中心に成る。
これまで家康が大切にした一騎当千の者たちが、悉く新しい勝者に膝を屈する――そんな姿を見るのが辛かった。
「お
勝悟はゆっくりと立ち上がった。
まだ慎のことを何一つ尋ねていない。
その消息を掴み、助け出す目的が何一つ満たされていないにも関わらず、この場を去ろうとしている。
不思議なことに幸村と長恵は、何も戸惑うことなく勝悟に続いた。
この戦国の気概を十分に持つ二人は、勝悟と同様に家康の心を感じたのだ。
健と春瑠が慌てて三人を追う。
二人とも家康の心情を知るには若すぎる上、慎を心配する気持ちから、今この場を去るには抵抗がある。しかしこの場で何か言ってはいけないことだけは察した。
対する家康も黙って客を見送る。
長年の強敵との初対面において、互いの心は十分に伝え合った。
もはや加える言葉は残ってないかに見えた。
大谷吉継の屋敷に着くと、健は真っ直ぐに勝悟の前に正対した。
春瑠もそんな健の斜め後ろで、一歩も退かないとばかりに顔を紅潮させている。
帰りの道すがら勝悟は深い憂いを示していたが何も語らず、幸村と長恵も何かを決意したような顔で無言のままだった。
健はじっと耐えた。少なくとも勝悟の口が開くまでは、待たなければならないことを悟ったからだ。
勝悟が目の前にいる健に気づいた。今まで健の姿が目に入らないほど、勝悟の思考は深いところにあった。
慎のことが心配で思い詰めている二人の顔を見て、説明してやらねばなるまいと、勝悟は感じた。
「慎の誘拐を実行したのは徳川の手の者で間違いないだろう」
「じゃあ、どうして慎を返せと言わなかったのですか?」
ようやく口を開いた勝悟に対し、健は不満を口にした。
「内府は慎の誘拐を指示していない」
「それなら自分の家臣なんだから調べてもらえばいいじゃないですか」
「あの場で慎のことを問いただしたら、慎は殺され自連と徳川は戦に成ったからだ」
慎の死と戦――勝悟の口から思いもよらぬ言葉が飛び出し、さすがに健も何も言えなかった。しかし、なぜそう成るか分からずに戸惑っている。
「それを説明する前に飯を食おう。長い話に成りそうだ」
そう言って勝悟は立ち上がった。
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