第29話 初めての敗北
健は屋敷の中で起きている異変を感知していた。隣では春瑠が武気の輪を広げながら、具体的に何が起きているのか探り始めている。
「表門を三人の男が強引に突破して、屋敷に入ろうと庭を進んでいます。一人は剣士で、既に十数人の衛兵が斬られました。もう一人は謡曲を謡って衛兵を倒しています。言葉が礫のように人の身体を打つのです。最後の一人は尾藤知宣と名乗っていました」
「尾藤が乱入者の一人なのか」
春瑠の説明を聞いて、秀次が叫んだ。
「ご存じの男ですか?」
勝悟は落ち着いた声で秀次に訊いた。
「豊臣軍の古参の将です。知謀に優れ九州への遠征では秀長殿の軍監につかれたが、島津との戦で消極策をとって、関白様の勘気をこうむりました」
「思い出した。白根坂の戦の後で、秀吉様に怒られていた人だ」
健は自身が戦に参加していたこともあって、知宣のことを覚えていた。
秀次が頭を傾げて知宣来訪の目的を考えていると、俄に茶室の外が騒がしくなり、衛兵の一人が茶室の戸に当たって室内に飛び込んできた。強い力で跳ね飛ばされたようで、衛兵の意識はない。次いで三人の男が茶室に入ってきた。
「尾藤、何しに来た」
秀次が乱暴な訪問の理由を問いただす。
知宣はいよいよ復讐を果たせる喜びで、凶人のような笑いを浮かべた。
「あの小牧長久手の戦から、わしの運命は下り坂を転げ落ちた。お前のせいでそれまで積み上げた全てを失った」
「そんな、何を言っている」
秀次は、あの戦で死んでいった配下の兵の顔を思い出した。忘れたくても忘れられない胸の奥底にしまっている心の傷が、理不尽に引きずり出された気がした。
「尾藤殿、それはいいがかりだ。誰もが命をかけて戦っているのだ。貴殿が将である限り責任を他に求めるべきではない」
勝悟が冷静に将の心得を説くと、尾藤は顔を真っ赤にして睨み付けた。
「殺してやる」
勝悟に向かおうとする知宣に、後ろから衛兵が迫るが、顰の
「面妖な。勝悟殿、お下がりください」
丸目長恵が、不可思議な敵の技を警戒して、勝悟の前に立つ。さらに健が長恵に加勢しようとすると、
「相手の力量が分からぬ限りうかつに飛び出るな」
と叫んで、勝悟が止めた。
「ほう、丸目長恵か」
もう一人の痩せた長身の男がぬらりと知宣の前に立ち、長恵と向き合った。
「斎藤伝鬼房!」
終始落ち着いていた勝悟が長身の男の顔を見て、目を丸くして男の名を呼んだ。忘れもしない、武田滅亡の一因と成った日向正成が、勝頼の護衛という名目で自分を守るために雇った剣士だ。
その経歴は華々しく、幼少の頃から剣豪塚原卜伝に弟子入りし、後に『天流』と名付けた秘剣を編みだし、なんと朝廷に参内し帝の前でその太刀筋を披露した男だ。
「真野勝悟、久しぶりだな」
かっては同じ旗の下で戦ったにも関わらず、伝鬼房の声には親しみの欠片も籠もってなかったが、勝悟はそんな伝鬼房の素っ気ない態度を、いささかも気にかけることなく、
「あの大軍の包囲の中をよく生きていたな。さすがは剣の達人だな。見事なもんだ」
と褒めそやした。
「ええい、うるさい。今は敵同士、くだらぬ戯れ言を申す出ない」
「我らを斬ると言うのか?」
「見て分からぬか」
「それはやめておけ」
「・・・・・・」
勝悟の忠告のような言葉が、気負い込んだ伝鬼房の話の間を狂わせた。
「こ、この場に及んで命が惜しいのか」
「いやわしではない。お主を心配しているのだ」
「何を血迷いごとを申しておる。軍を率いての合戦ならいざしらず、剣で立ち向かってこの伝鬼房に勝てると思うか」
伝鬼房は怒りに震え始めた。強い武気を発しながら刀を上段に構え、勝悟に対し攻撃する意思を示した。
それに対し、勝悟が困った顔をすると、
「早まるな。お前の相手はこのわしじゃ」
と、長恵が勝悟に代わって、伝鬼房に伝えた。
「真野勝悟、わしが丸目長恵には勝てぬと見立てたのか」
「だからやめておけと言っているだろう。今の長恵殿に勝てる剣士など日の本を探してもそうはいない」
「侮るな!」
伝鬼房が叫びながら長恵を斬ろうと間合いを詰めた。
伝鬼房は長恵を一刀両断にしようと、全身から発する武気を上段に構えた刀身に集めた。
対する長恵は、全身にバランス良く武気を配分し、刀を正眼においた自然体で伝鬼房の攻撃を待つ。
一見隙だらけに見える長恵に対し、伝鬼房はどこを責めるべきか逆に迷った。通常初太刀は相手の構えの隙を見定め打ち込むのだが、長恵の構えは隙が多すぎてどこに打ち込むべきか逆に定まらない。
それだけではない。伝鬼房は上段からの太刀筋の変化に絶対の自信を持っていたが、勝悟の言葉が気になって間合いを詰めることを躊躇してしまった。何しろ神の目と称される男が、二人の技量を知った上でどちらが勝つか予言したのだ。心にひっかかるものが生じてもやむを得ない。
本来剣を極めたとも言える二人の達人の勝負の行方が、勝悟などに分かるはずはないと思うのが普通だが、伝鬼房は武田家臣の頃に勝悟の鮮やかすぎる軍略を目にしているだけに迷いが生じる。
それだけでもこの勝負、長恵がかなり有利な立場にあるわけだが、長恵はさらに伝鬼房の心を乱す行動を見せた。
刀を鞘にしまい、両手をだらりと下げ、伝鬼房に向かってニヤリと笑った。
それを見た瞬間、伝鬼房は戸惑ってしまった。針や流星錘のような暗器の存在を疑ったが、長恵が暗器を使った話は訊いたことがない。残るは居合いだが、それならば刀の柄から手を放したこの構えは違う。
この構えからの様々な変化を予想したが、どれも適合しない。伝鬼房は侮られたという結論に達し、その直後に猛烈な怒りが湧いて、我を忘れて攻撃を始動させた。
神速という言葉に相応しい斬激が、上段から長恵に向かって振り下ろされる。
斬った、と思った瞬間、伝鬼房は床に転がり、脾腹を踏み潰されていた。
口から血を吐き出して、意識が遠のく。肋を二、三本踏み折られたのだろう。
「新陰流無刀取りか」
勝悟が少しだけ悲しみを含んだ声で、長恵の技を呟いた。
隣で健が首を左右に振りながら目を泳がせている。おそらく健には、長恵の動きがまったく見えなかったのだろう。分かったのは長恵の両の手のひらが、伝鬼房の刀を挟んで奪い取った姿だけだ。
「おのれ!」
伝鬼房が倒れた姿を見て、知宣が逆上して秀次に切りかけたが、これも長恵の蹴りを浴びてうつ伏せに崩れ落ちた。
残るは顰の面をつけた男だけとなった。
「斬らぬのか」
仲間が斬られなかったことを残念そうに呟く男に、長恵が反応した。奪い取った伝鬼房の剣で男を斬ろうとしたとき、男の口から謡が流れ出た。
長恵が何かを弾くように剣を左右に払う。払いながらも手応えがあったのか、長恵の身体が後ずさりした。
「歌声の打撃か。それも相当強い」
勝悟が感心したように男の技を口にした。
「お見事な見立て」
顰の面の後ろから、女のような美しい顔の青年が現れた。年は健より一つ二つ上か。
「重長様、まだ姿を現わすには早うございます」
顰の面がまだ戦い足りないとばかりに、青年の登場を咎めた。
「いやもう十分だ。お騒がせしました。真野勝悟殿、神の目の神技しっかりと見させてもらいました」
「お前たちは何者だ。謡を操るところをみると、猿楽を嗜む者か」
勝悟が警戒しながら、相手の素性を尋ねた。
「お察しの通り、世間では裏観世と呼ばれている猿楽一座で、私は座長の息子で観世重長と申します」
「何用があって、ここに来たのだ?」
「もう用は済みました。引き上げるぞ、黒獅子」
重長の最後の言葉は、勝悟たちの視界に霧のような帳を生んだ。
帳はすぐに消えたが、重長たちの姿もなかった。
「逃げられたか」
長恵が悔しそうにつぶやく。
「勝悟様、慎がいない」
春瑠の言葉に驚いて振り向くと、そこには慎の姿はなかった。
健が「慎」と叫びながら、茶室を飛び出る。
すぐに屋敷中を捜索したが、ついに慎は見つからなかった。
「連れ去られたのか。どうやって・・・・・・」
さすがの勝悟もあの一瞬の間に慎を攫う方法は分からなかった。
「でも、どうして慎が?」
春瑠が心配そうに疑問を口にした。
勝悟は低い声で答えた。
「まさかと思うが、慎の才能を狙ったのかもしれない」
戦乱の世は収まりつつある。これからの国造りを考えれば、どの大名も治世の才、あるいは殖産興業の才を求めるはずだ。となれば慎の才能はどこでも喉から手が出るほど欲しいはずだ。
「慎の国造りの才か」
健が勝悟のつぶやきに聞き返した。
「そうだ。だがどうやって慎の存在を知ったというのか」
「それは簡単だよ。慎は家業の花作りを手伝って、たくさんの国の商人と関係している。凄い奴だとみんな知ってるはずだ」
健が当然だと言わんばかりに、慎の知名度を自慢した。
それを聞いて、勝悟は愕然とした。
これから慎のような才能が最も必要な時代が来ると確信していたのに、狙われることをまったく予期してなかった。
この襲撃も和平をぶち怖そうと、勝悟の命をねらったものだと思っていた。
神の目などとおこがましい。自分は何も見えてなかったと、短慮を悔いた。
「勝悟殿」
長恵が倒れている伝鬼房の身体を探りながら、勝悟の名を呼んだ。
「どうしました?」
「息が絶えている。わしは致命傷になるような打撃を与えてないはずなのに」
勝悟は急いで同じく倒れている知宣の脈を診る。
「死んでいる」
気絶しているとばかり思っていた知宣と伝鬼房が、いつの間にか命を奪われていた。
手を下したのは裏観世のどちらかとしか思えないが、いったいいつやったのか見当もつかない。
とにかく、唯一の手がかりがこれで消えた。
勝悟はこの世界に来て初めての敗北感に、血が滲むまで唇を噛みしめた。
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