第28話 乱入者
前野長康は勝悟たちが案内された茶室に面する廊下にいた。茶室からは時折、思いのほか楽しそうな笑い声が漏れ聞こえてきて、ひとまずホッと肩の力を抜いた。
長康は蜂須賀正勝などと同じく、秀吉の最古参の家臣の一人で、秀吉の出世のきっかけとなった墨俣一夜城の築城にも協力している。信長の死後、秀吉が天下人に成るための数々の戦で武功をあげ、今や但馬に五万三千国の領地を持つ豊臣家の宿老と成っていた。
そんな長康がなぜ秀次の屋敷に来ているかというと、ひとえに秀次の身を案じてのことだった。
秀吉に子がない以上、豊臣の家督を継ぐのは甥の秀次しかいないはずだが、叔父の秀長は秀次に対し冷淡で天下を治める器にあらずと言っているし、小牧長久手では大きな失敗を犯して、秀吉を落胆させている。
それでも長康が秀次を大事に思うのは、盟友蜂須賀正勝と交わした約束が大きく影響していた。
明智、柴田と大敵を破り、秀吉が大きく天下に足をかけた頃、正勝はぶらりと長康の屋敷を訪れた。互いに天下取りに勤しむ家の宿老だ。忙しくて二人でゆっくり語り合うことも少なくなっていた。
例に漏れず二人とも遅くまで仕事をした後の夜半の訪問だ。明日の仕事を考えれば、ここはさっさと眠りにつきたいところだ。それでも長康は快く正勝を受け入れ、二人は若い頃のように酒を間に挟んで語らい始めた。
「ついに織田家で秀吉に立ち向かえる者は一人もいなくなった。後は広大な信長様の遺領を使って、大兵力で各地の大名たちを潰していけば、天下は豊臣のものとなるな」
正勝は賤ヶ岳の戦の前とは打って変わった穏やかな顔だった。
対する長康も、三成や正則などの若造が言うのではなく、古くから苦労を共にしてきた盟友の言葉だけに、素直に頷いて酒を一口飲んだ。
それを見て、正勝も手酌で杯につぎ、唇を湿らすように酒を口に含んだ。
「お主は秀吉が天下の主に成った後を考えたことがあるか?」
先ほどまでの穏やかな表情が一変し、真剣な顔で正勝が尋ねた。秀吉のこともまるで墨俣築城の頃に戻ったように呼び捨てにしている。
「どうした風の吹き回しだ。まずは諸国の大名を切り従えること。天下の主に成った後など、それを考えるに適した者の役目だろう。第一、これから続く戦の中で、わしもお主も生き抜けるかどうか分からぬぞ」
そのときは、覇権を奪取した後のことなど考えたこともなかったので、長康はひどく狼狽した。そんな長康に対して、正勝が蕩々と話し始めた内容は、今でも昨日聞いたかのように思い出す。
「天下が豊臣の下に統一され、戦の無い平和な世の中に成れば、わしやお主のような戦働きで仕えていた者は、用済みに成るのだろうな。わしらもう十分働いたからいい。だが正則や清正のような若い者は、同じ世代の三成や長盛などが重用されるのを見れば、心に焼け付くような苛立ちを感じるとは思わぬか」
長康は返す言葉を持たずに、口を閉じた。正勝は更に続ける。
「行き場を無くした武辺者たちに、秀吉が慰めを送るとは到底思えぬ。中央から遠ざけて顧みることはなくなるだろう。だが秀次ならば寄り添ってやれるように、わしは思える。戦働きには見るべき所はないが、人に対する繊細な気遣いに溢れている男だ。しかも民政の才もあるように思える。幸い秀吉に子はない。秀次が後を継ぐことしか、救いはないように思うのだ」
長康も戦国が終わる気配に寂しさが増して、昔の不確定だが希望に溢れた頃をときどき思い出す。若い自分にああいう熱い思いを抱けたことは、本当に幸せだったように思える。
それを取り上げられる者たちに、何をしてやれるのか――あのとき正勝はそれをいいたかったのだろう。
それ以来、長康は亡き友に代わり、自ら進んで秀次の後見人のように振る舞っている。
それが正勝の思いに応えることであり、ひいては豊臣家の未来のためだと信じているからだ。
物思いに耽る長康の前に、家臣の清助が近づいてきた。
「長康様、秀次様に会いたいと客が来ました」
「客、誰だ?」
「それが、尾藤知宣殿でして」
「尾藤だと――」
長康は困惑の表情を浮かべながらも、尾藤が来訪した意図を理解しようと考えを巡らせた。まるで戦場にいるかのように、超高速であらゆる仮定を展開していく。だがどの仮定もしっくりとこない。
尾藤が失脚することに成った九州征伐には、秀次は京都留守居役として参加していない。もし、秀吉への取りなしを秀次に頼みに来たとしても、そこにいない戦の弁護はできない。
では、金銭的な援助を頼みに来たのか。それにしては二人の仲はそれほど親密ではない。豊臣軍きっての軍師と、自分の軍才に自信のあった尾藤は、若い秀次を影で暗愚と笑い、自分から近づこうとはしなかった。
様々な可能性を考えては、打ち消す作業を続けながら、ふと小牧長久手の中入りを思い出した。あのとき尾藤は確か秀次の軍監だった。徳川軍の急襲にあっけなく軍の統制を失い、味方の惨敗のきっかけと成った戦犯の一人だ。
しかし、戦の後で秀吉は大きな声で二人を叱責したが、厳しい罰は与えなかった。秀次と共にいたからこそ、敗戦の責から逃れることができたはずだ。
「長康様!」
清助の呼びかける声が、長康の思考を止めた。
「尾藤は力尽くでの対面も辞さない覚悟です。どうするか決めてください。ご指示くだされば、場合によっては力でもって対処します」
「うむ」
長康は表門に向かって歩き始めた。
とにかく意図が分からぬ以上、尾藤を通すわけにはいかない。
今日は真野勝悟を迎えた大事な日なのだ。
門の前には尾藤と他に二人の男が立っていた。
一人は、長身で剣客らしい気配を発している。腰に差した刀は通常よりも長い戦場で使う刀のようだ。もう一人は、まるで役者のようなきりっとした顔立ちだが、着物の合間から覗く胸板は、組み討ちを得意とする戦人のそれだった。
「おお、長重殿か。わしじゃ、尾藤知宣じゃ。共に豊臣のために力を尽くしてきた仲ではないか。すぐにここを通してくれ」
「お主の目的は何じゃ」
尾藤一人ならば何も恐れることはない。清助と二人であれば、力で押し入ろうとしても簡単にたたき出せる。だが、両隣に控える二人の戦力は未知数だ。
「例え相手が長重殿でもここでは言えぬ。もう時間がない。グズグズせずに道を空けろ」
尾藤の声に焦りが滲んできた。
自身に科せられた刑は畿内追放。そして秀次の屋敷は大坂城下の中心部にある。こんなところで押し問答している様子を、捕吏にでも見られたら命が危うい。
「刑に背いてここに来た事は、昔のよしみに免じて見逃してやる。さあ、早く立ち去れ」
長重が温情を見せても、尾藤は立ち去るどころか無言でぐいぐいと押し入ろうとする。
「おい、待て。これ以上ここに留まるなら、容赦できぬぞ」
二人がもみ合う内に、異変を感じて吉継がつけた十名の兵士が集まってきた。
さすがに豊臣の兵士には尾藤の顔は知れ渡っている。
「長重殿、これは?」
畿内を追放されたはずの尾藤が、秀次の屋敷の前に来て、押し入ろうとしている。
異常な事態に兵士の一人が説明を求めてきた。
集まってきた兵士たちに気を取られて、尾藤を押しとどめる力が少し緩んだ。
「ウッガー」
尾藤は獣ようなうなり声を上げて、長重を身体ごと前に突き飛ばした。
地面に尻餅をつかされて、さすがに長重ももう何もないではすませぬと観念した。
「だれぞある、くせ者が乱入しようとしている。すみやかに討ち取れ」
長重が大声で屋敷に控える衛兵を呼ぶと、たちまち数人の衛兵がこちらに向かって走ってきたが、その前に吉継がつけた十人の兵士が、尾藤を取り押さえようと距離を詰めた。
シュッと空気を切る音がして、刀の刃がきらめいた気がした。
直後に尾藤に掴みかかろうとした兵士が二人地に伏せた。
首筋から背中にかけて、血が噴き出している。
倒れた兵士の向こう側で、尾藤と一緒に来た背の高い痩身の男が、刀を振って血糊を払い、他の兵士たちの方を向いてニヤリと笑う。
それを見て残った兵士たちは、仲間を斬られた怒りにかられ、刀を抜いて痩身の男に殺到したが、誰一人その男に一合たりと剣を合わすこともできずに、次々に斬られていった。
(これはまさしく戦場の剣だ。それも相当な達人が振るう剣)
長重が半生を過ごした戦場の記憶が蘇る。
(土屋昌恒か――)
だが、長重の記憶はこの男が土屋昌恒であることを即座に否定した。
確かに無造作に兵を斬る強さは昌恒のそれだが、昌恒が剣を振るうとき、武気は青白く光っていた。この男からは光は出ていない。しかも六年前に見た昌恒は。まだ二十代半場の青年だったが、この男はどう見ても四十を超えている。
十人の兵士たちが悉く斬られてしまったところで、今度は屋敷の衛兵が駆けつけた。最初に駆けつけた数名の兵士の後にも、次々と集まってきている。秀次の屋敷なら常時百人の衛兵が詰めているはずだ。しかも、駆けつけた衛兵の中には、槍や弓矢を持ってる者もいる。まさに戦支度だ。
「ちっ、わさわさと溢れて来たな。これでは時間がかかる」
初めて男が口を開いた。
男の危惧は分かる。ぼやぼやしてたら騒ぎを聞きつけ、大坂の町の警邏隊がやってくる。そうなるとさすがにこの男一人では対処できまい。
長重がほっと一息ついたところで、痩身の男に代わって、役者のような顔立ちの男が前に進み出た。男は猿楽で使う
「是は源の頼光とは我が事なり。さても丹州大江山の鬼神を従へしよりこのかた――」
面をつけた男が、羅生門の一節を謡い上げると、数十名の男たちが石つぶてにでも撃たれたように、後ろにのけぞりそのまま仰向けに倒れた。倒れた衛兵たちは昏倒するか、身体を痛めて立ち上がれない。もしかしたら死んだ者もいるかもしれない。
衛兵たちが倒れた間を、ゆうゆうと尾藤が屋敷に向かって進み始めた。
「待て」
長重は止めようとその背を追ったが、痩身の男が前を遮る。
目に見えない斬激が長重を襲う。
一刀両断されるかに見えた長重だったが、長年戦場で染みこんだ動きで、「舐めるな」と叫んで身体を捻ったが、速い太刀先を完全にはかわしきれず、右肩から血しぶきを上げてもんどりうって倒れた。
男は仕留めきれなかったことに、驚いたような表情を見せたが、長重も出血がひどくて立ち上がれない。
尾藤たちがかまわずずんずん進むので、男も止めを刺すことなく、その跡を追いかけた。
「秀次様・・・・・・」
長重はそれ以上声を発せず、そのまま意識を失った。
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