第26話 幽玄の作り手

 観世道影かんぜどうえいは、正対する本田正信にうやうやしく一礼し、すぐに尾藤知宣との会見の報告を始めた。

 本田佐渡は相好を崩して道影の報告に一々頷き、最後は「ご苦労」とその首尾の見事さを称えた。


 道影は報告しながらも、宗主である観世黒雪こくせつの美しい横顔を盗み見る。

 黒雪の表情はまさに能面のようで、自分の首尾についてどのような評価を下したのか、そこからは計り知れない。


 道影は黒雪がつけた名だ。それまでは元長と名乗っていた。道影が当主を務める裏観世は、代々の当主に始祖元雅にあやかり『元』の字をつけている。

 裏観世とは観世流の本流とは一線を画し、猿楽の技の中から人民掌握の術を磨き抜いた集団だ。


 猿楽は、聖徳太子がはた河勝かわかつに命じ、『六十六番の物まね』を作らせ、紫宸ししん殿で舞わせたものが始まりだと伝えられている。その後朝廷の庇護の下で芸能として発展を遂げ、平安時代に桓武帝の手により朝廷の庇護を失った後も、他の芸能と融合しながら民衆の支持を獲得した。猿楽はこの頃から既に、呪禁道の影響を受けた流派も存在し、道影たち裏観世によってその技は受け継がれている。


 猿楽が勝悟の生まれた時代の能へと完成するのは、足利幕府の三代将軍義満の時代と言われている。大和猿楽の一座に現れた観阿弥は、田楽などの曲舞を導入し楽曲的な要素を強め、申猿や田楽の座同士の対決である立ち会い能で連勝することにより話題と成り、義満の目にとまった。

 義満は観阿弥とその子世阿弥の舞台を鑑賞し、これこそ治世の技と感じて、彼らの保護者となった。


 観阿弥と世阿弥親子は鎌倉仏教の一派である時宗の法名を持ち、仏教の持つ世界観を取り入れりことにより、南北朝の戦乱に疲れた民衆の心に深く浸透した。


 多くの芸能要素を取り込み猿楽の形を作り上げた観阿弥に対し、子の世阿弥は死者の視点を物語の中心に取り込んだ。これは精神世界と現実の世界を分ける境目を取り除き、そこで語られる物語の世界を大きく拡げ、更には美的性質においても単なる見目形だけではなく、静寂美や優雅美と言った内面の美を『幽玄』として称え、猿楽の芸術性を飛躍的に高めた。


 観阿弥世阿弥父子による猿楽の革新は、世阿弥の甥である音阿弥の出現により終わりを告げる。当時の将軍足利義教の寵愛を受けた音阿弥は、いとこである世阿弥の息子元雅に対し、様々な妨害活動を始める。

 元雅は音阿弥の露骨な圧迫にもめげず、志を捨てることなく活動を続けたが、巡業先の伊勢安濃津で若干三一才で急死を遂げた。世阿弥をして、「子ながらも類なき達人」、「祖父をも超える堪能」と絶賛された天才は、道の奥義を極め尽くすことなくこの世を去った。


 元雅の死から二年後、世阿弥もまた義教の命により佐渡に背流され、観世座は完全に音阿弥のものと成った。元雅の子や孫は観世座に居場所を失い、諸国を流浪して興行を開く旅芸人とならざるを得なかった。それでも元雅の子孫は、観世流が追い求めた精神世界への探究を怠らず、裏観世として諸国を流浪しながら、民衆操作の術を編み出していった。


 裏観世は元雅を始祖とするため、道影で四代目の当主となる。道影が当主となった頃には、諸国の大小名の求めに応じ、ときには民衆の不安を鎮め治世の良に貢献し、またあるときには敵国の民衆を扇動し不安を煽り、世情を悪化させる存在となっていた。


 裏社会で生きる流浪の徒と成っていた裏観世一族に、救いの手を差し伸べたのは黒雪だった。当時の観世流は、足利将軍家の衰退と共にその勢いを失い、将来が確かな後見人を探していた。

 黒雪の父観世流七世宗節は今川から独立し、織田と結んで勢いのあった徳川家康に目をつけ、一向衆に身を落としていた本多正信が家康の下に帰参するのに従い、まだ幼少の黒雪を送って家康の側に仕えさせた。


 宗節の死後、後を継いだ元盛は早世し、黒雪が観世流九世を襲った。

 その頃、京では本能寺の変が起こり、信長の死と共に天下が再び乱れる中で徳川は躍進し、信濃、甲斐、尾張と次々に領土を広げた。


 家康から新領土の統治を委ねられた本田正信は、観世流の人心掌握術に目をつけ、黒雪に新領土の世情の安定に向けた協力を依頼した。

 黒雪はこの依頼を受ける条件として、流浪を続ける裏観世の者に住む土地と、扶持米を要求した。表のように安定した興行収入のない裏観世に、居住地と俸禄を与えることによって、取り込みを図ったのだ。


 道影はこの申し出を受けた。

 流転を続ける身では、裏観世の人間はどんどん減っていき、やがて消滅することは見えていた。この辺りで腰を落ち着け、一族の暮らしを安定させることは、当主として必須の使命だった。

 観世流を追われた恨みも百年以上の歳月が薄れさせていた。何よりも申し出た黒雪に会った途端、道影は従うことが生まれ持った宿命のように感じた。それ以後、この二十も年下の青年に道雪は一切逆らえないでいた。



「では予定通り、尾藤知宣は真野勝悟殺しの下手人となり、豊臣と自連の同盟は消えるのじゃな」

 正信は珍しく、目的を再度口にしてきた。

 こういう念押しは、本来正信の嫌うところだ。

 ここで黒雪が「確かに消えます」と言ったところで、その言葉の保証はどこにもないのだ。むしろそう返答されれば、いつもの正信なら短慮な安請け合いととるだろう。

 正信の信条は計画に沿って、実行過程に狂いがないか入念に確認し、綻びを見つけ出し修正することにある。


 はたして、さっきから黙って聞いていた黒雪が口を開いた。

「本田様はよほど真野勝悟に恐れを抱いているのですね。恐れと言うより畏敬か」

 黒雪は柔らかな口調で、その声音にはいささかの感情の波は見えないが、ただ裏に潜む氷のような冷たさは感じさせた。

 道影だけでなく、正信もぶるっと寒そうに身体を震えさせる。


 正信はじっと黒雪の澄んだ瞳を見つめた。

 静けさが道影の心をきゅうきゅうと締め付けてくる。

 ようやく正信が口を開いた。


「黒雪殿のおっしゃるとおりだ。わしは、いや我が徳川はもう何度も真野勝悟によって苦節を舐めている。どうしても悪い方に考えてしまう」

 正信は自分の焦りを素直に認めた。


「謀略に完璧な成功を求めてはなりません。特に暗殺の成否は、狙われた者が宿す天命が大きく関わる。これを人智でひっくり返すことは難しい。ただ、謀略をしかけた疑心という毒は、確実にじわじわと相手の心を蝕んでいく」

 黒雪の言葉に正信は大きなため息をつく。


「では、今回も真野勝悟の命を奪う事は、できないかもしれないのですな」

「それが天命なら」


 黒雪は平然として作戦の失敗を肯定した。


「そうなると和平会談は成功し、徳川は封地に赴かねばならぬ」

「その場合は、それも天命と割り切るべし。その場合に、家中に生じる動揺や、新領土の統治の成功は、観世流がしっかりと手助けをする」

「それならば、この計画は意味のないものではないですか」


 黒雪より二回りは年上の正信が口から泡を飛ばして抗議したが、黒雪はいささかも動じることなく平然とその姿を見つめていた。


「徳川様が、この先天下を狙う気がないのなら、そうでしょう。しかし再び、その機会を得たいと思うのなら、天命に屈することなく、謀略を続けることによって、あちこちに植え付けた、疑心の種が芽を吹き、必ず絶好の機会を、手にすることでしょう」


 正信は驚きの表情を浮かべた。黒雪は悟りを開いた高僧のようだった。自分もだんだんとその言葉に酔って、徳川の天下取りの機会が来ると信じる気持ちが顔に浮き出た。


「それまで、黒雪殿は我が徳川に力を貸してくれるのですな」

「そこはお疑いなく」


 黒雪は初めて少し感情の籠もった、温かい言葉を返した。


「それに真野勝悟の天命がまだ残っていると決まったわけではござらぬ。我が裏観世は、拾ってくださった徳川殿の恩に報いるために、暗殺の成功に向けて力を尽くすことを約束もうす」


 道影は最善を尽くすことを約束しながら、再び黒雪の顔を盗み見た。

 相変わらず感情はなく、道影の誓いの言葉に特に反応した様子はなかった。


 正信に対して視線を戻して、道影はぎょっとして目を見開いた。

 徳川の知恵袋、氷の宰相とも呼ばれる男が、口を半開きにして恍惚の表情を浮かべていたからだ。


 謡だ! ――道影は黒雪が今目の前で行ったことを理解して、愕然とした。


 黒雪はシテとして、謡曲のない地謡だけの謡を発したのだ。しかも天命という言葉を挟むことによって、シテとしての自分を神や仙人の類いの現世にない者とし、生身の人間としてこの世に身を置く正信に、この世の理を語り明かしたのだ。


 これこそ、世阿弥が完成させた『夢幻能』の世界だった。

 天命に逆らえぬ人間の矮小さが『あはれ』を表し、己の美貌で『艶』を表した。黒雪の描いたあはれと艶を絶妙に調和させた『幽玄』に、正信は心を奪われた。さらに夢中で口を挟んだ道影はワキに置き換わり、『妙』が生じた。


 まさに観阿弥世阿弥を超え、裏観世の始祖元雅に垣間見た大才がここに出現したと、道影は悟り、黒雪はこの世の王に成るかもしれぬと思った。

 だが、肝心の黒雪はまるでこの世の人ではないように、感情を表すことなく、淡々とまだ夢から覚めぬ正信を見ていた。

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