第25話 黒い炎

 忍は、酒場から百歩ほども歩いた場所にある一軒家に、知宣を案内した。

 その家は大きさや門構えを見る限り、さほど立派ではなかったが、みすぼらしいというわけでもなかった。

 壁や柱のところどころに黒ずみが残っていて、十分に手当てされているとは言えなかったが、畳や床には大きな誇りやゴミはなく、荒れ果てた風でもなかった。

 玄関とかまどが一緒になっていて、土間から上がったところの部屋の他に、もう一部屋ありそうだった。


 家の中には誰もいなかったので、知宣はこの忍が使っている家だと直感した。

 知宣は土間でわらじを脱いで部屋に上がり、わりと大きめのちゃぶ台の前に座った。

 当時の民家は、板敷きの床が多かったが、その部屋には畳が敷いてあった。それがこの家が普通の家ではないと主張しているように思えた。


 忍はここで待つように言って、音もなく姿を消した。

 一人で家の中に残されると、静けさが妙に気になった。

 忍がいたときも特に話をしていたわけではなかったのに、今は静寂が心に染みこんでいく。

 不思議なことに、家の前の通りには人が往来する気配がなく、隣や向かいの家からも生活音がまったく聞こえてこない。

 まるで、このあたり一帯に自分一人しかいないような気がした。


 音がない世界の中で、心の中に不安が拡がっていく。

 考えてみれば、声をかけてきた忍の名前も知らない。

 秀次憎しの気持ちがあまりにも強くて、正常な判断力を失わせていたかもしれない。



 ガラッと家の戸が引かれ、目の部分だけ空いた白頭巾の男が入ってきた。

 男はそのまま部屋に上がって、知宣の正面に腰を下ろした。


「尾藤知宣殿か?」

 男の声は低く抑えられ、静かな部屋でも集中しなければ聞き逃しそうだった。


「いかにも、貴殿も名を教えられよ?」

 大事の話をすること以上に、この静かな空間が不気味で不安感が発した言葉だった。

「わけあって名乗ることはできぬ。察せられよ」

 知宣は妙に迫力のある男の雰囲気に圧倒され、この恐ろしく不公平な申し出を許容してしまった。抗議をする代わりに唾を飲み込み顎を引いた。


「秀次を失脚させる手立てがあると聞いて来た」

 恐怖が先に走って、声に勢いがない。

「確かにあるが、教える以上協力して貰わねばならぬ。その覚悟が貴殿にはあるか?」

 話を聞くだけと断ったではないかと思ったが、相手が課してきた厳しい条件が、天下人の身内を貶める陰謀の信憑性を逆に高めた。


「何をすればいいのだ?」

 今の身を納得できぬ思いが、知りたいという思いを大きくした。

 例え命に関わることでも、現状を打開する行動を求める欲求が打ち勝つのは、知宣が下剋上を生き抜いた戦人いくさにんの一人であることを、図らずも証明していた。


「ではお教えしよう」

 知宣には白頭巾の男の承諾が、地獄への通行手形のように聞こえた。

 話を聞いて協力を拒めば、この家を出ることなく殺される。

 不思議なことに恐怖はなかった。

 今の生活が秀吉と共に駆け抜けた輝かしい日々に比べて、あまりにも花がなく生きがいを感じないからだと思った。


「駿府から真野勝悟がこの大坂にやってくることは知っておるな」

 知宣は大きく二、三度首を振って頷いた。


「真野勝悟が秀吉と謁見し、諸大名の前で惣無事令に従うと宣言することで、豊臣の天下平定は完了する」

「なぜだ。単に和平協定をするだけではないか」

「フフ、気付かぬか」


 白頭巾の言葉は止まり、二人の間に再び静寂が訪れた。

 知宣は夢中で考えを巡らし、白頭巾の言う天下平定について考えたが、どうにも腑に落ちない。


「貴殿は天下平定とはどういう状態だと考える?」

 再び静寂を破って、白頭巾の口から漏れた言葉は問いかけだった。

「一人に人間の下に日の本全てが従うことではないのか」

 知宣は即座に答えた。


「まあ、そう考えるのが普通だな。だが従うという言葉の意味は様々に定めることができる。秀吉はこれを惣無事と貨幣の統一、そして中央政権への上納の三つに求めた」

「・・・・・・」


 知宣は白頭巾の言ってることが理解できなかったが、間違ってはいないような気もして沈黙した。


「まず惣無事、これはその通りの意味だが、大きいのは天下の紛争を裁く権利を、豊臣家が手中に収めることにある。もちろん大名通しの紛争は、双方の言い分を聞いて公平に裁かねばならぬが、最終的に裁きを決める権利は豊臣が握る。自連も豊臣の裁きが公平に行われる限り、意義は申し立てないだろう」

「豊臣が自連に著しく不利な裁きをしたら、自連は従わぬだろう」


 知宣はまだ納得のいかぬ顔で言い立てた。


「自連は自国に不利な裁きが下ったとしても、理屈が法に沿っていれば従う。もし理屈に合わぬ裁きをすれば、例え自連に有利であっても反発するだろう。そういう精神があの国にはある。そして秀吉はその精神を受け継ごうとしている」

「なぜだ。それでは豊臣が天下の主になっても、利がないではないか」


 知宣の不思議そうな顔を見て、白頭巾の目が笑ったように感じた。


「私利に従う裁きは賄賂を誘い、果ては政権の腐敗につながる。政権が腐敗すれば民の信を失い、やがてその政権は倒壊する。それを真野勝悟はなぜか知っていて、公平な裁きが維持するしくみを作り上げた。そして秀吉もそのことに気づき、政権の防腐薬として自連を活用しようとしたのだ」


 知宣は愕然とした。自分の目は豊臣家の同輩と比べても、先が見えているという自負があった。しかしこれまで、政権を維持する力は、強大な武力だと信じて疑わなかった。

 白頭巾の男は、民の信こそ政権維持の力だと言う。


「だが、民は容易なことでは裁きの不当さに気づきはしまい」

 必死の思いで反論を口にした。

 だが白頭巾の男はゆっくりと首を左右に振った。


「民は為政者の巧妙な言い訳を見抜けない。だが小さな腐敗が政権に慣れを生み、やがて隠しようもない大きな腐敗となって、民が知るところになる。そうなってはもはや手遅れだ。だから自連は民の教育に力を入れて、小さな腐敗にも気づく知恵を与えた」


 そう言えば、秀吉は大坂の町人たちに、天下の動きや自身が制定した法の内容を、何も隠さず伝えている。だから大坂の町人は徳川が自連を打ち破れなかったこと、秀吉が武蔵攻略を断念したことを詳しく知っている。

 もしかしたら秀吉は政権の長寿化を見据えて、自連にならってこういう活動を始めたのかもしれない。


「貨幣の統一とは?」

 これもなぜ天下平定につながるのか分からなかった。

 白頭巾はやれやれといった風を示したが、屈辱よりも好奇心が勝った。


「民の混乱を防ぐ公平な政治には、共通の基準が不可欠だ。つまりごまかしという要素を極力排除するのだ。秀吉は既に自連と同じ貨幣を採用し、ものの価値を統一させた。貨幣だけではない、升の大きさや重さや長さの単位も揃えようとしている」


 さらに白頭巾の説明は続く。


「さらにこういった政策をすぐに実入りにはつながらぬから、別途資金を調達する必要がある。そのための上納だ。これら全てについて、秀吉は既に真野勝悟の内諾を得ていると聞く。どうじゃ天下は平定されるであろう」


 白頭巾の説明は終わったが、知宣は声が出ない。今の話を聞く限り、既に秀吉の見ている天下の形は、知宣などが想像できる範囲を超えている。このまま豊臣政権に返り咲いても、不要な男として脇に追いやられるだけだろう。


 それが寂しい反面、誇らしい思いもあった。

 秀吉が作り出す天下を思い浮かべて、例え政権の中枢にいなくても、その偉大な成果の一助であったと自分自身を褒めたい気がした。


「聞けば聞くほど素晴らしい天下ではござらぬか。しかもこのまま何もしない方が」


 知宣はしきりに首を捻る。確かに、白頭巾の語った天下を作り上げたら、ぼんくらな秀次は思った政治ができなくなる。下手すると後継者の座を追われかねない。自分の手で政権から追い払えないのは残念だが、今の話であればいずれはそうなる。


「今のままでは尾藤殿は歴史の舞台から完全に消え去りますぞ。それに対して秀次は豊臣政権の二代目として、その後政権を追われたとしても名は残る」


 知宣の顔から夢見るような表情が消えた。代わりに、頭から冷水をかけられたような、そんな険しい表情が浮き出た。

 今の自分は秀吉の帷幕の末席に座ることさえ、許されない身だ。残念に思う気持ちが、再び秀次を恨みに思う気持ちを増大させる。

 心の中に火がつき、黒い炎が噴き上がった。


「わしの半生が雑兵と変わらぬものに成ると申されるのか?」

「いかにも。これから起こることが偉大なほど、これまでの尾藤殿はいなかったも同然の存在と化すのです」


 知宣は下を向いた。両手でお椀を持つようにして、手のひらをじっと見つめた。

 よく働いた手だった。

 他の者は知宣を軍際に長けた知謀の士と称したが、そんなことはない。秀吉のためにいつも忙しく動かしていたのは、頭ではなく今見ている両手であり両足であった。

 それが全て後生には伝えられぬ。

 無念だった。

 そんなことが許されていいはずがない。


「何をするのですか?」

 知宣の低い声が部屋の中にゆっくりと響いた。


「真野勝悟は、大坂について三日目に大阪城で秀吉と謁見する。その前日、秀次に招かれ屋敷に行く。そこで真野勝悟の命を奪う」


 白頭巾の間から覗く目が、かっと見開いていた。

 その目を見ながら、知宣は反射的に呟いた。


「わしは何をすればいい」

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