第24話 悪魔のささやき

 そこは、今や武士をも上回る勢いで大坂の新興勢力と成った、町人たちが毎夜集まる陽気な酒場だった。

 成功を信じてこの地に集い、昼間は手間を惜しまず全力で働き、夜はここに集まった者同士で酒を飲み飯を食いながら大いに語る。それが今日一日の疲れを癒やし、明日の力と成っていく。


 今夜もそんな挑戦者たちが楽しげに語らっているが、中には語ることもなく黙々と酒を飲み続ける者もいる。

 きっと仕事で壁にぶち当たり、つい最近まで輝いていた未来に少しだけ影を感じて、陽気に振る舞うことができないのだろう。


 それでも、真っ直ぐに家に帰らずここに来るのは、同じように夢を持つ者の明るく騒ぐ姿を見て、明日は自分もその輪に復帰することを誓うためだろう。

 だから他の者もいたずらに話しかけたりしない。ここに来る者は皆、同じような経験を一度や二度はしてきている。

 最後は自分一人で不安を振り払わないと、希望に満ちた明日は永遠にやって来ない。


 そんな語らない者の中に、一人だけ異質な雰囲気に包まれた男がいた。

 その男のおもてには、心に深く刻まれた後悔が陰りと成って表れていた。


 男の名は尾藤知宣とものぶ、根城坂で行われた島津との戦で軍監を務めた際、終始消極的な作戦を展開し、島津殲滅の絶好の機会を逸したことから秀吉の逆鱗に触れ、所領を没収され豊臣から追放された過去を持つ。


 知宣は安酒を飲んでる間中、視線は手元に向けたまま眉間に皺を寄せていた。頬の強ばりは無感情を表し、肩から背中にかけての力の無さは、まるで死人のようだった。


 この場には明らかにそぐわない異端者に、周囲の者も視線に入れないようにして、あえてその存在を無視した。

 大勢の中にいながら一人放置される孤独は、今の知宣にとってありがたかったが、みじめでもあった。秀吉の側近を務めていた頃は、うるさいぐらい周りが寄ってきて、めんどうではあったが、自身の存在感に自尊心を擽られもした。


 杯も一向に進まない。

 秀吉が出世の階段を駆け上がり始めてからは、ついぞ口にしたことのないまずい味の酒だ。今の知宣の窮状からすると、この酒でさえ過分であるのだが、舌を刺すような低質な味が九州での苦い経験を思い出させる。


 それでも酔いに任せて自暴自棄に成れたら、むしろ明日は今よりも前を向いて生きれるのかもしれないのだが、そうなる前に杯を置いてしまう性格なので始末が悪い。

 今日も酔えないまま、暗い気持ちを抱いて帰ることに成りそうだ。



 虚しい気持ちがいっぱいになって帰ろうかと思ったとき、向かいの席に人の座る気配がした。音ではなく何かが前に現れた感じだった。

 知宣が顔を上げると、姿形は人間だが生きている感じがまるでしない。そんな幽霊のような男がいた。その存在感のなさは、知宣の前に座っているのに、周りの人間に一切気づかれることはなかった。


「尾藤知宣か?」

 音としては感じられなかったが、確かに名前を呼ばれた気がした。

 この感じは記憶にあった。


「そうだ。お前は忍か?」

 返事はなかったが、知宣は気にしない。忍が目的もなくこちらの質問に答えるはずはなかった。答えがないことで、逆に相手が忍だと確信した。


「何か用か?」


 訊く必要はなかった。忍が目的もなく姿を見せるはずはない。

 不思議なことに忍が現れても、恐怖心はなかった。

 今の自分は忍を使って殺す価値もない男だ。

 それよりも果てしなく広がる孤独な世界に身を置いてから、尾藤知宣という個人に対して積極的に接してくる相手に飢えていた。

 その飢えがただひたすら接してきた理由を欲した。


「恨みは深そうだな」

 忍が再び口を開いた。


「恨み? 誰に――」

 知宣は言いかけてやめた。

 確かにこのやりきれない思いは恨みなのかもしれない。

 自分の取った行動に対する悔いだけなら、とっくに立ち直って別の生き方を探したはず。

 仮にも戦国を生きてきた戦人のはしくれとして、そのぐらいの切り替えはできると思う。


 いつまでも次に進めないのは、恨みの思いが強いからなら納得できる。

 しかし自分はいったい誰を恨んでいるのだ・・・・・・。


「豊臣秀次」

 忍の口から思ってもみない男の名が出た。

 豊臣を去ってから一度も思い出したことがない名前だ。

 要領を得ない顔で固まる知宣に、忍が再び声を発した。


「この転落は全てが小牧長久手から始まった」

 知宣の脳に強い衝撃が走り、頭の中に封印していた悪夢のような記憶が蘇った。


 小牧長久手の戦で編成された中入り軍に、秀次の軍監として出動したが、白林山で休憩中に徳川の奇襲に遭い壊滅した。全ては大将たる秀次の動揺が敗因だが、そのとっばちりを受け、軍監である自分も周囲の信頼を失った。


 悪いことに同じ秀吉直下の将である仙石も、次の島津討伐戦で軍監として差配し、戸次川で大敗した。これにより、秀吉側近の将たちは、戦における能力を誰もが疑うことになり、自分も白根坂では思い切った指揮をとれなくなった。


 その結果自分や仙石は責を問われ追放されたが、一人秀次だけはのうのうと中央でふんぞり返っている。憎いと思った。心の底から憎悪が溢れ出して、身体中を覆っていく。


 秀次への憎しみに支配されたとき、それまでどんなに強く思っても力が入らなかった身体に、一本筋が通ったような感じがした。気のせいか筋肉がうずいているように思える。

 恨みを晴らそうと思うことが、これほど力に変わるとは思っても見なかった。


 知宣は周りの者から頭の良い皮肉屋と思われていたが、決して自分の責を人に押しつけるような者ではなかった。それは誇りが許さなかったからだ。

 しかし、今全てを失って自信が潰えたとき、生まれて初めて人を恨んだ。責任を全て他人に押しつけると心が軽くなり、力が湧いた。もちろん復讐のための力だ。


「お前の言うとおりだ。あの戦からわしは坂道を転げ落ち始めた。その元凶たるあやつは、未だにのうのうと天下人の跡取りの座にいる。なんとかして引きずり下ろしてやりたいものよ」


 黒い感情が全身を駆け回っている。何と言う心地よさだろう。

 知宣は追放されてから初めて笑いが浮かんだ。


「今はまさに引きずり下ろす好機だ」

「何だと。そんな機会があるのか」


 半信半疑の気がした。

 自連、北条との戦が終結し、世はまさに太平に向かって一直線に進んでいる。

 今後、秀次が失脚するなど考えられなかった。


「真野勝悟が大阪に来る」

「それは聞いておる。和平の調印をするために参るのであろう」


 真野勝悟の来阪と秀次が関係あるとは思えない。

 だが、そのとき初めて忍の顔に笑いが浮かんだように見えた。


「クク、あるのよ。真野勝悟を使って秀次を失脚させる手が」

 忍の言葉が陽の光のように、真っ暗な知宣の心に差し込んだ。


「それはいったい?」

 知宣は思わず身を乗り出していた。

 忍の顔が不用意に近い。

 その瞳はどこまでも深い闇に続いているようだった。


「ここでは多くを話せぬが、うまく嵌まれば確実に秀次は失脚する」


 忍の言う通り、ここで陰謀を話すのは危険すぎる。

 何と言っても秀次は天下人の甥なのだ。

 そう思うと急に不安が襲ってきた。

 いくら恨みに駆られたとは言え、今自分は天下人の甥を追い落とす陰謀を話している。


「お前はいったい何者だ。なぜ秀次の失脚を画策する?」

「クク、ここに来てようやく事の大きさに気づいたか。尾藤知宣も落ちぶれてすっかり鈍くなったものだ。自分が何者か教える気があるのなら、話を始める前に言っておくとは思わないのか」


 確かに忍の言うとおりだが、どこの誰とも分からぬ相手とこれほど危険な話をこれ以上することはできない。


「教えぬのであれば、話はここまでだ。わしは恨みで身を滅ぼすほど愚かではない」

 知宣はきっぱりと断って席を立とうとした。


「急がずともよかろう。先ほどまで死んだ魚のような目をしていたのに、それほどの元気が出たのだ。恨みの思いは力が湧くだろう」


 忍の言うとおりだった。

 ここに入る前とは段違いの充実した気力が身体を包んでいた。

 認めがたい真実を指摘されて、さすがの知宣も次の言葉が出てこない。


「本当に復讐の機会を見逃していいのか? こんな絶好の機会は二度とやってくるとは思えぬぞ」


 悪魔の誘いだった。

 もし、この忍が確かな策を持っているのなら、ここで別れれば一生悔いるかもしれない。


「話だけなら聞いてもいいぞ」


 ついに悪魔を受け入れてしまった。

 やらなかったら、明日から死んだも同じ毎日が待ってるだけだ。

 陰謀が明るみに出て処刑されたとしても、これからそのときまで充実した時間を過ごせるなら、それでもいいと思った。


「ついてこい」

 忍が席を立った。

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