第12話 歪み

「おお、笑った」

 正直は、戦場ではついぞ見せたことのない蕩けきった顔で、腕の中の我が子を覗き込んでいた。

 保科家は既に三人の男子がいるが、待望の姫がついに生まれた。


 息子たちは男らしく育てようと、何事にも厳しく接してきた正直だが、娘に対してはそんな父親の威厳をかなぐり捨てて、さあ泣いた、今笑ったとその表情に一喜一憂し、家の中にいるときは恵那が呆れるほど長い間抱いている。


 普段厳格な印象が強い正直の変貌は、光や八重には好評で、逆に勝悟や孫一は、正直を見習って在宅時は家族へ奉仕するよう求められ、辟易としていた。


 時節は、四国に攻め入った羽柴が、長宗我部を降伏させ四国を平定した。西はいよいよ九州を残すのみだ。

 一方、北信濃の攻略に失敗した徳川は、羽柴の宥和政策を受け入れそうな状況だ。

 万が一、徳川が羽柴に従属しようものなら、自連のすぐ隣に全盛期の織田家を凌ぐ超大国が生まれることになる。


 北の上杉は対柴田で結んだ羽柴との同盟関係を活かし、羽柴傘下の有力大名の道を進もうとしている。

 徳川、上杉の動き次第で、東の勢力図が大きく変わろうとしていた。


 自連としては、建国以来最も厳しい外交を迎えており、交渉の重要要素である軍部を預かる正直の役割は大きかった。そこは責任感の強い正直なので、毎日の軍の務めに出ているときは、前にも増して厳しい総帥であり、そのあまりの変わりように、愛娘を溺愛する正直を知る者は驚きを感じた。



 世の中が風雲急を告げる中、幸せに溢れている正直の屋敷に忍び寄る影があった。


 今日も軍部は、より強くなるために厳しい調練を行った。

 軍がその力を十分に発揮するには、各部隊の運動能力の向上と、部隊間の連携をどれだけ円滑にできるかに掛かっている。

 調練の間中、正直はそれらの点において一分の隙もないかを厳しく確認した。少しでも問題が見つかれば、容赦なく指摘し繰り返し綻びを修正する。実戦で紙一重の勝利を手にするために、妥協は許されなかった。


 身も心もくたくたになって帰宅するわけだが、寧音ねねと名付けた娘の顔を見れば、再び力が湧いてくるから不思議だ。

 寧音のためにも、この国を守りたい。この仕事に関われることが喜びであった。


 恵那と二人で寧音との時間を楽しんでいる最中さなかに、正直は戦場の気配を感じた。非情に微かな気配だったが、人生の多くの時間を戦場に費やした正直は、見逃さなかった。


「恵那」

 妻に注意を喚起させようと呼びかけた正直の顔は、戦場で見せる厳しい表情だった。

 恵那はすぐに刀を正直に渡し、郎党の又兵衛を呼んだ。

 現れた又兵衛は既に槍を持ち、小手などの簡易装備をしていた。


「どうも良からぬものがこの屋敷に来たようだ」

「忍でございましょう」


 又兵衛は正直の初陣から付き従って来た、最も信頼できる郎党だ。

 多くを語らずとも意思は通じる。

 何も言わずとも又兵衛の指示で、息子の心太と次郎が、他の郎党に指図しながら、侵入者の探索を始めていた。


 最初に遭遇したのは次郎だった。

 屋敷の外回りを中心に捜索していると、庭の東に設置された石灯籠の側で黒い忍衣装を着た三人の男を見つけた。


「くせ者!」

 他の者が気づくように、次郎は大声で侵入者を威嚇した。

 その声に次郎の指揮下の三人の郎党が集まった。

 侵入者たちは三方に跳んで、闇に姿を隠した。


 次郎が闇の中で目を閉じて、侵入者たちの気配を探す。

 右に僅かに殺気を感じ、抜刀して振り抜いたが、手応えはなかった。

 その瞬間、右後方にいた郎党の一人がうめき声を上げて倒れた。

 後ろから首を一突きされている。


「隠形だ。背中を互いに守れ」

 次郎の言葉に呼応して、残りの二人が互いに背を合わせる。

 緊張を強いられる時間が続く。


 一人目がられてから、まったく気配を感じない。完璧な隠形かそれともこの場を去ったのか。何れにしても背後を空けられないから、動きがとれない。

 次郎の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。

 もしかしたら侵入者は、自分たちをこの場に釘付けにするために、わざと殺気を漏らしたのではないか?


 疑問は頭の中でどんどん膨れ上がる。

 このままじっとしているうちに、正直と家族の身に危機が迫るのではないか?


 しかしうかつに動いたら殺られるかもしれない。

 疑問は迷いを呼び、次郎の集中力を奪う。

 思考を切り替えようと空白が訪れた一瞬、次郎は胸に生温かいものを感じた。

 胸を見ると、生温かいものは次郎の血だった。着物全体に血が滲んで広がっている。


 いつ刺されたのかまったく分からない。

 きっと棒状の刃物を近距離で突き刺している。

 敵の技は完璧な隠形だった。


 意識が急速に遠のいていく。もう声も出せない。無念の二文字が浮かんだ。

 次郎がばたりと倒れた拍子に、他の二人の注意が向く。

 二人の視線が次郎に向いた直後に、首筋に棒手裏剣を差し込まれて、二人とも地面に倒れた。



 心太は一人で屋敷の奥の部屋に入った。

 正直たちの部屋に行くには、正面から入るか天井を伝わってこの部屋に降り立つか、二つに一つだ。


 心太が部屋に踏み込むと、奥の一角で微かに人の気配がした。

 だが、心太は備えるだけで、そちらには向かわない。

 心太は五感で感じる力を全て心に集中した。

 音でも光でもない、鍛錬で養った危険を感じる力だ。


 三方から凶刃の接近を感じた。

 抜刀と同時に心太の刃が一閃する。

 三体が畳に伏せた。

 心太は戦場では槍を使うが、こうした個別戦闘では居合いを使う。

 刀が鞘を滑る速度は武気なしでも、肉眼で捉えることは不可能だ。


「ククク」

 闇の中で笑い声がした。

 心太は心を揺らさずに澄ませたままで笑い声がした方向の距離を測る。


「凄まじい抜刀術だ。そうなるまでの修行の日々が頭に浮かぶわ。爪の先ほどの進歩を毎日繰り返し、果てしなき日々を積み重ねてたどり着く境地。それを叩き潰すのが俺の無上の喜び」


 心太は心を揺らさない。

 感情を消して、敵の刃を待つ。


 声のした方向から動きを感じた。

 剣か?

 心太が間合いを測った瞬間、首がポロリと落ちた。


 朱い光の筋、薄い炎の刃が、超高速で心太の首を切断したのだ。

「クックック、お前は強かったぞ」

 声だけが部屋の中に響いた。



「来る」

 行灯の淡い光の中から浮かび上がった男は、服部半蔵の叔父道元だった。道元は伊賀忍としては高名で、又兵衛も二度ばかり義元の配下として働いているのを見たことがある。

 相手が忍なので、又兵衛は槍を捨て、小回りの利く刀に獲物を切り替えた。


 道元は両手に錐刀を持って、いつものようにだらんと下におろして構えている。

 襖の向こうには正成とその家族がいる。

 絶対にこの危険な男を近づけない。


 道元は足音もなく近づいて来た。

 又兵衛は抜き打ちの構えで距離を測った。


 居合いの制空権内に道元が入る。

 音もなく刀身が鞘を走る。

 道元の胴体が真っ二つと思われたが、道元の身体は蛸のようにくねって、ブリッジして剣先をかわす。

 道元はブリッジの体制のまま、首だけ又兵衛をむいたまま、滑るように近づいてくる。

 バネ仕掛けのように状態が起きて、左手の錐刀が突き出される。


 錐のような切っ先が又兵衛の胸に吸い込まれるように近づくと、又兵衛は刀の柄でそれを受ける。

 左の攻撃を受けられた道元は、右手の錐刀を又兵衛の左足目がけて突き出すと、又兵衛は小手として付けた鉄甲でこれを受け、右足を跳ね上げる。


 道元は紙一重でこれをよけたように見えたが、又兵衛のつま先は微かに道元の顎に触れた。道元の顎は跳ね上がり、頭蓋の中の脳を揺らした。

 一瞬、道元は意識を失う。

 又兵衛の居合いがもう一度鞘を走り、道元を斬った。


「フー」

 又兵衛は難敵を破り、ため息をついた。全ての技が紙一重で、最後は運が又兵衛に傾いただけだ。


「クックック、道元の爺もついにあの世に行ったか」


 無明が闇から浮き出るように現れた。

 又兵衛は無明を見ただけで死を予感した。

 戦場においてもこれだけの死の匂いを発する者は滅多にいない。


「お前の居合い、先ほどの男と同じ筋だな」


 その言葉で又兵衛は心太の敗北を悟った。

 心太は既に居合いの速さでは又兵衛を凌ぐ。

 又兵衛は無明を倒すことは諦め、部屋の中の正直のために、せめて腕の一本だけでも奪ってやろうと、心に誓った。


 無明が無造作に近づいてくる。

 又兵衛は腹を斬ると見せかけて、無明の足を奪うことにした。


 約四尺の距離で無明の足が止まった。

 又兵衛は後の先を取ろうと、無明の攻撃を待った。

 無明が頬を膨らませ息を吹いた。

 息は途中で炎に変わり、又兵衛の顔を炙り、視界を初めとした又兵衛の五感を奪う。


 無感覚の闇の中で又兵衛の首は無明の手刀に斬り落とされた。

 床に又兵衛の頭が転がる。


「だまし討ちのようで申し訳ない。忍は光が無くても武気が使える。もう教えても聞こえぬか。クックック」



 ついに無明は正直と家族のいる部屋の襖に手をかけた。

 襖を開け放すと、正直が瞑目したまま正座していた。背中には恵那と寧音がいる。


 無明が部屋の中に一歩足を踏み入れると、正直の目がカッと開く。

「暴虐を尽くしてここまで来たか」

 正直は立ち上がり、刀を抜いた。

 正眼に構え、きっさきを無明に向ける。


「いいねぇ。家族への思いが気迫になって剣に宿るか。クックック」

 無明は獲物を持たずに腕を交差して構えた。

 手には鉄甲、両腕の手首から肘にかけては鎖が巻いてある。


 正直は、この無明という忍の技が健のものと同じことに気づいていた。

 結局は武気なので、こちらの武気が強ければ、火炎であっても払うことは可能だ。

 しかし、夜ではそれだけの武気を発揮するには光が足りない。

 この男は忍の技で光の力を溜めているはずだ。

 となれば、溜めた力を吐き出させればいい。


 剣を握った右腕に力を込める。

 無明はまだ笑いを浮かべている。

 この圧倒的に有利な状況を楽しんでいることは間違いない。


 忍とは本来、感情を持たないで依頼を遂行する者だ。

 その点ではこの男はどこか性格が歪んでいる。

 殺す対象が積み上げた努力や誇りを踏みにじることに、喜びを覚えながら戦っている。


「一つ訊いてもいいか?」

 正直が切り出すと、無明は眉をピクリと動かして、続けて目を細めた。

「ずいぶん冷静だな。これだから戦人ってのはきらいなんだ。どんな困った状況でも、最後まで慌てずに対処を考える。まあいい。どうせ死ぬんだ。何でも訊け」


 無明は余裕を見せていた。この絶対的優位な状況が楽しくて仕方ないのだ。


「お前は忍にしては歪んでいる。仕事に感情を持ち込まないのが、いい忍の条件だろう。それなのにお前は、忍としては最高に近い力を有している。教えろ。お前は過去に何を経験した」


 正直の問いに無明の顔から笑いが消えた。

 代わりに強い怒りの表情がちらっとかいま見えて、すぐに消えた。


「いいだろう。教えてやる。俺がどれほど世の中を憎んでいるか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る