第11話 火炎
健は火の手を見て、やられたと思った。
攻め手が城下町に火を放ったと思ったからだ。
だが、火をつけた徳川勢が混乱しているようにも見える。
「やったな」
太郎が興奮して城下町に上がる火を見ながら言った。
健は何が何だか分からなくて、思わず太郎に訊いた。
「やったって、何が?」
「昌幸殿が敵を二の丸まで誘い込んで、城下町に火をつけたのだ」
「自分の町をわざわざ焼いたのか?」
「そうだ。こんな発想は聞いたことがない。徳川勢の大半が城下町に入ったところで、後ろからいきなり火を放ったのだ」
太郎に説明され、そう思ってみると、火は徳川勢を囲うように回っている。徳川勢は退路を火に塞がれて、明らかに混乱していた。
「見ていろ健。昌幸殿のしかけはもっと奥が深いぞ」
太郎の言葉に呼応したかのように、城壁から一斉に弓兵が姿を現した。
弓兵は、火を逃れようと城壁に近づいた敵兵を、一斉射撃し始めた。
「あの城壁は人が立てるのか?」
「そうだよ。最初見たとき、城壁にしてはやけに分厚いと思ったが、あれは城壁全体を櫓のように、弓兵を配置できるようにしてあるんだ。敵は火のせいで矢の射程圏から逃れられないから、一気に討たれるぞ」
「かかれー」
前方で、幸村の指示が飛んだ。
幸村隊二百が、後方を火の手に遮断された敵の先手に襲いかかった。
敵は混乱しているので、討たれるがままだ。
「太郎、ここからは掃討戦になるから、私は幸村殿に同行して一暴れしてくる。お前は健たちと本丸の館に行って、昌幸殿とこの戦の全容をみるんだ」
掃討戦では敵は手負いの獣となって、思わぬ事態に遭遇しかねない。太郎たちに危険が及ばないようにという、梨音の配慮だった。
「承知しました。兄上もお気をつけて」
太郎は梨音に従順だ。
健もこんな兄がいれば、自分も素直に言うことを聞くのにと思った。
本丸の館の二階では、昌幸が敵を満足そうに見下ろしている。
太郎と共に二階に上がった健は、昌幸の背中がやけに大きく見えた。
本丸の館は、やや小高い丘の上にあるので、遙か大手門の方までよく見える。
徳川勢は味方が放った火と勘違いして、後方からどんどん押し寄せている。
一方城内の兵は火から逃れようと、必死で出口に向かっているから、大手門の前後は大混乱になっていた。
所々で、逃げようとする兵と押し入ろうとする兵との間で、同士討ちが始まっている。
「そろそろだな」
昌幸が控えている兵に狼煙を上げる指示をした。
本丸から城下町の黒煙とは違う真っ白なのろしが立ち上った。
戸石城の真田信之はこれを合図に、城門前で混乱する徳川本陣に攻めかかった。
伏兵として現れたのは、信幸だけではない。
上田に済む農民の中から、屈強な者を選んで編成された農民兵も、一斉に蜂起した。
その数は約三千。普段であれば精強な三河兵に立ち向かうなど不可能だが、混乱した状態では士気も下がる。
元々北信濃の兵は強い。過去にはあの武田信玄でさえ、北信濃攻略で二度も大敗を喫している。
さすがの三河兵も、押し寄せる敵の伏兵に抗しきれず、退却を始めた。
ところが攻めるときは簡単に渡渉した神川が、戻るときは三途の川に変貌していた。
徳川兵が神川を渡り始めたところで、信幸が上流で水を堰き止めていた堰を切ったのだ。
北信濃の雪解け水が、一斉に神川に注ぎ込まれる。
いきなりかさを増した水深と、ごうごうと音をたてて押し寄せる水流に巻き込まれて、重い鎧をつけた徳川兵が次々に溺死する。
それでも追い詰められた敵兵は、次々に鎧や武器をその場に捨てて、水に飛び込んでいく。勇猛なる三河兵が、もはや欠片ほどの戦意も残っていなかった。
「お味方の大勝利ですね」
太郎が感激した面持ちで、昌幸にお祝いの言葉を述べた。
昌幸は満足そうに頷いた。
誰もが予想していなかった一方的な戦になった。
徳川軍の敗因は明らかに油断と言える。
信長の死後、一挙に勢力を拡大し、五カ国を統べる大大名と成り、そこから派兵された真田勢の四倍の兵力。
全盛期の武田軍と三度の野戦を行い、破れはしたが全滅しなかったしぶとさと、小牧長久手ではあの羽柴の大軍とさえ、互角以上に渡り合った武力。
これらが複合的に重なり合って、兵の心に慢心と油断を引き起こしたとしても無理はない。引き締めるとしたら、大将の役割であるが、ここにも問題が隠れていた。
徳川軍はこれまで格下の敵と戦う経験があまりにも少なかった。
常に大国織田の別働隊として、同じく大国武田が相手だった。
それは一つの油断が全体を壊滅させ、常に緊張を強いられる戦だ。
そこをくぐり抜けることで、三河兵は強くなり、小牧長久手でも兵数の劣勢をさほど苦に思わない強い精神力が育った。
ところが今回は明らかに、国力で圧倒し兵力で遙かに劣る敵が相手だ。
当然兵の関心は勝った後の恩賞に向かう。
それを適切に導く術を、徳川の将は経験が無いゆえに知らなかったのだ。
昌幸の策はそれを前提に組み立てられていた。
神川に至るまでに奇襲するのに適した地はたくさんあった。
しかし、昌幸は全ての奇襲を放棄した。
そして神川渡渉後に初めて幸村に奇襲を行わせた。
幸村は十分に力を発揮し、これが真田の最後の抵抗と思わせるのに十分な働きをした。
これを混乱なく収めたところで、徳川の将兵は逆に安心してしまった。
そのまま勢いに乗って幸村隊を追撃すると、なんと城門が開かれそのまま流れで城内に突入できた。ここで踏みとどまっていればなんとかなったが、逆に徳川は勝利を確信してしまった。
健は昌幸の手際を手品のようだと思った。鮮やかな勝利への称賛は、全て昌幸に捧げられる。戦国の智将がまた一人この戦で誕生した。
羨望を込めて昌幸を見ていた健の目に、異質な影が見えた。
その影はゆっくりと昌幸に近づいている。
他の誰も戦の勝利に目を奪われる中、健の目はその影に釘付けになった。
影の動きが突然早まったとき、健は思わず叫んだ。
「危ない!」
健の身体は反射的に動いて、小刀を抜いて昌幸を庇うように影との間に入った。
白刃がきらめき、影の凶刃と健の小刀が交わる。
ガチンと大きな音が響き、皆の目が健の前に立つ忍びの姿に注がれた。
「お前は誰だ」
健が影に詰問する。
「伊賀の忍び、服部
無明は忍刀を構えて、忍びには珍しく名乗りをあげた。
「俺はこの瞬間をずっと待っていた。戦が始まる前から、徳川が負ける予感がしていたから、お前たちが奇跡の勝利に酔い痴れたときを狙って、昌幸を暗殺しようとしたのだ。しかし、その小僧だけは俺の存在に気づいた。しかも俺の刃を防ぐとは、正直俺も驚いたわ」
無明は若かった。顔を見る限り梨音よりも五、六才は若いか。
「お主の暗殺は失敗に終わった。勝ち戦に免じて見逃してやるゆえ、早々に姿を消せ」
昌幸は相手の若さに免じて、見逃そうとした。
二階には、健の声に気づいて、警護の兵が集まってきた。
「見逃すだと。俺の力を侮っているな」
無明の身体から火が立ち上った。
「我が力を見よ」
無明の刃が振り下ろされると、火球が昌幸目がけて放たれた。
太郎が咄嗟に氷の壁を作る。
火球は氷の壁を砕いて消えた。
「ほう、凍結能力か」
火球を発した無明の方が、太郎の能力に感心していた。
「取り押さえろ」
昌幸の指示に警護の兵が無明に向かっていく。
無明の身体を取り巻いていた火炎が、槍の形を為して取り巻く六人の警護兵の胸を、同時に貫いた。その場に倒れた六人の胸には、鋭い槍が貫いたような穴が開いていた。肉が焦げたような匂いが周囲に立ちこめる。
「ククククク」
無明の高くて乾いた声が響く。
「この場で一番強いのは俺だ。命が惜しかったら、近づかないことだ」
無明はゆっくりと昌幸に近づく、既に勝利を確信した表情だ。
太郎が氷のつららを無明に投げつける。
無明の左手が振られ大きな炎の壁が、つららを消滅させる。
炎の壁はそのまま太郎に向かう火球に変わった。
太郎は両手で氷の壁を作り、この火球を受け止めたが、その衝撃で後方に吹っ飛ばされる。
無明は太郎を一瞥し、起き上がれないことを確認してから、再び昌幸の方を向き突進してきた。
昌幸に向いた
健の小刀からも炎が吹き出した。
無明の刃を下から跳ね上げ、返す刀で無明の首を狙う。
無明の身体を纏う炎が、再び壁になって健を吹き飛ばす。
床に叩きつけられた痛みで、健は起き上がれない。
「ほう、お前は俺と同族か。自分以外の火炎持ちを初めてみたぞ」
無明は健を見て、不気味な笑いを浮かべた。
「俺以外の火炎持ちはいらぬ。お前は死ね」
無明の火炎球が健を襲う。
健が死を覚悟したとき、冬馬が現れて火球を刀で吹き払った。
「まだいたのか。お前は風使いか」
無明は異能力者が次々に現れるのを見て、益々嬉しそうに表情を緩めた。
「ちょうどいい。まだ力が弱いお前たちを、今纏めて殺してやる」
無明は火炎をさらに大きくして、冬馬に迫る。
冬馬は刀を風車のように回して、つむじ風を無明に当てるが、大きくなった火勢は弱まらず、無明の右手の忍刀が冬馬の忍刀を払い、左手が冬馬の胸に押し当てられた。
肉の焦げる匂いがして、冬馬が悶絶しながら床に倒れる。
「とどめだ」
無明が冬馬の胸に忍刀を突き刺そうとしたとき、無明の右肩が炎ごと斬られた。
無明が忍刀を落として、血が噴き出す肩を押さえる。
「誰だ」
無明が振り向くと、そこには刀を抜いた梨音が立っていた。
梨音のかまいたちが無明の肩を傷つけたのだ。
「真野梨音か」
梨音の登場に無明の顔が歪む。
「お前たちの命預けておく」
無明はそう言い捨てて、二階から城外に飛び出した。
梨音は慌てて無明が飛び出た窓を除くが、外には警護兵の姿しかなかった。
「冬馬!」
太郎と健が身体の痛みを堪えながら、倒れている冬馬の側に駆け寄る。
冬馬の胸には手形の火傷の跡があった。
太郎が冬馬の首に手をやって、脈を診る。
「大丈夫だ。息はある」
太郎の声に健はホッとした。
「医師を呼べ」
昌幸の声が場内に響く。
「すまぬ。油断していた」
昌幸が梨音たちに頭を下げる。
「いや、あれほどの忍が徳川にいるとは知りませんでした。しかも健と同じ力を持っているとは」
「俺の能力よりも遙かに強い火でした」
健が梨音の言葉を訂正する。
「これから暗殺への対策は強化する必要があるな」
梨音の頭には父勝悟や氏真など、自連の要人の姿が浮かんでいた。
「再び血が流れそうだな」
昌幸の言葉は重くその場にのしかかった。
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