第11話 自分の道

「愼君は外交官に成る才能があると思う。大学校では政治学に進むといいわ」

 桜はまるで希少な宝石を見つけたような目で愼を見た。


「僕は、大学校には進めません。父母からは、小学校を卒業したら、花を作って売る商売を手伝うように言われています」

 愼は特に気負うわけでもなく、淡々と自分の進路を説明した。

 桜は驚きを顔に表しながら、再び訊いた。


「それが愼君の希望なの?」

「希望かと訊かれると、はいとは言えません。もし商人に成るとしても大学校で商学を学べれば嬉しいです。でも家の事情は全てに優先します。僕は働き手として、一刻も早く家の力に成りたいと思っています」

 桜は愼の顔を見ながら軽くため息をついた。


「そうよねぇ。親の意識が変わらないと、子供の進路も正しく決められないわよね。やはり、進路面談は必要なんだわ」



 その夜、桜はじんを蕎麦屋に誘った。若い女性に誘われたので、仁は少しばかり緊張していた。

 二人で蕎麦を食べながら、仁は楽しそうに桜を見ている。

 二十年以上戦場で過ごし、若い女性と食事などしたことのなかった仁にとって、向かいで蕎麦を食べている桜先生の存在は、失った青春を彷彿させ、生まれて初めて体験する甘い感覚だった。


「仁先生は家庭に対する教師の介入についてどう思われますか?」

「いきなり難しい問題だねぇ。わし自身、今の子供たちの親と会ったのは、入学時の一度きりだからな」

「でも。親の都合で子供たちの未来が決まるのはどうかと思います」

「今日、何かあったのかな」


 仁は興奮して話す桜を優しい目で見ながら、思いが高じた理由を訊く。


「細野愼君のことです」

「愼がどうかしましたか?」

「あんなに、ものごとを深く理解して、伝える力があるのに、親の意向で大学校に進まないということでした。私はそれを聞いてすごくもったいないと思いました」


 桜はここまで言えば、仁はすぐに分かってくれると期待した。

 ところが、仁は桜の思うようには答えてくれなかった。


「あの家に育って今の愼がある。愼が大学校で学ぶことが、家業を継ぐことに優先すると、我々が決めてはいけないのではないですか」


 先輩の仁にいさめられ、桜は咄嗟に返す言葉を失った。

 しかし諦めきれないのか、少し考えてまた愼の話を再開した。


「でも先生、愼君は大学校で学びたがっています。今日もはっきりと大学校で商学を学んでから、商人の道を進みたいと言いました」


「それは商学を学びたいのか、学校での生活を続けたいのか、真意は分かりません。まだ愼は大学校で学ぶことや、学んだ末に何を得るのか知りませんから。一つ言えることは、愼は春瑠や健と一緒に学ぶのを楽しんでいます。この生活が続くことが夢と成っても、不思議ではありません」


「でも愼君のような子供こそ、大学校が求めている学生像ではないですか」

「それはこっちの押しつけにしか過ぎません。問題は愼がどういう人生を歩むかでしょう。親を説得して大学校に行くことが、愼にとって正解とは誰も言えないはずです。我々にできることは、愼にいろいろな可能性を教えてあげて、自分で判断することを助けてあげるだけです」

「それでは、私たちはあまりに無力じゃないですか」

「当然です。我々は知識があって、子供たちより人生経験が少し多いから、先生などと呼ばれているが、人一人の人生を変える力を持っているわけじゃない」


 桜は黙ってしまった。たった一日子供たちと接しただけの自分が、長い間子供たちと接してきた仁の哲学に抗することはできない。


「うちの教室にたけるという子がいますが、彼は代表に成りたいと常々言ってますが、大学校に行きたいと言ったことは一度も無い。実は私は健の可能性を信じているんですよ。もしかしたら、健は社会を経験しながら代表に成って、やめた後で大学校の教授になるかも知れません」


 桜は思わず「あっ」と声をあげた。確かに今の教授は、みんな社会で何らかの功績を残した人ばかりで、大学校で学んできた人ではない。商学の特別教授の土屋長安などは、全て独学で商学教授を上回る知識を有している。


 桜はここに来て初めて、自分の生き方を見直す機会に直面した。それは人の人生を語るよりもずっと難しいことだった。


「桜先生、来年大学校を休学して、一年間先生をやってみてはいかがですか?」

「えっ」

「子供たちを通して自分の生き方を見つめ直すことは、これからの桜先生の人生にとって、決して損な時間にはならないと思いますよ」


 桜はいつの間にか「はい」と返事していた。たった一日でこれだけの気づきを得たのだ。一年間先生に成って、自分の人生を見つめてみるのも悪くはない。




 愼は父親の太兵衛が花の手入れをするのを手伝いをしながら、今日の桜の言葉を思い出していた。

 大学校に進む――それが自分にとってどれだけの益に成るのか、今は分からない。

 しかし、学校は楽しい。健や春瑠と過ごす時間は、愼にとって最も大事な時間となっていた。大学校に一緒に行けるなら、何としても行きたいと思ったが、春瑠はともかく健は絶対に行かないだろう。あいつは代表への道をまっすぐに突き進むに決まっている。


 それでも大学校には行ってみたいと思った。桜先生のような人と一緒に勉強できるなら、楽しいに決まっている。


 愼は思いが募って、思わず太兵衛に話しかけていた。

「おとう、大学校ってどう思う」

 唐突な愛息の質問に、太兵衛は作業の手を止めた。


「なんだ、お前もそんなことを考える年か」

 いつも仕事中は厳しい顔をする太兵衛が、少しだけ嬉しそうな表情を見せて愼を見た。


「今日学校に、大学校で勉強している先生が来て、授業をしてくれたんだけど、その先生が帰り際に、大学校を薦めてくれたんだ」

「そうかありがたいことだな」


 愼は父親の予想外の言葉に驚いた。きっと訊いただけで反対すると思っていたからだ。


「反対しないの」

「息子が認められたことを喜ばない親がどこにいる」

「そうなんだ」


 愼は意外だった。思い返せば、太兵衛から跡を継げと直接言われたことはなかった。

 太兵衛が仕事の話ばかりするので、勝手に愼がそう思っていたにすぎない。


「おとうの仕事を継がなくてもいいの?」

「なんだ、そんなことを考えていたのか」


 太兵衛は真っ直ぐに天を見上げた。

 今日は梅雨の合間を拭うような、初夏らしい晴天だ。

 太陽の光を浴びて、畑の花も一段と色艶よく見える。

 この仕事は雨が大事だが、やはり太陽の下で仕事をするのは気持ちいい。


「わしがお前のことで代表と相談したのも、こんな晴れた日だった」

「代表と」


 意外な人の名前が出てきた。一百姓に過ぎない父と代表が、愼の頭の中で結びつかない。


「ああ。うちの花を政庁に収めていることは知ってるだろう。そこでたまたま代表が通りがかって、うちの花を褒めてくれたんだ。聞けば学校を作ったのは代表だというじゃないか。それで思わず代表にお前のことを話してしまったんだ」


「それで代表は何て言ったの?」

 愼は今の自分の悩みが解決できるのではと思って、話をせき立てた。


「今のお前みたいに私も必死で聞いたのだろう。忙しい人なのに、代表はわざわざ席を設けて話をしてくれた」


 太兵衛はそのときを思い出したのか、勝悟に対する感謝を口にした。


「それで、わしがお前を大学校に進ませた方がいいか迷っていると言ったら、代表は今はまだ悩むときではないとおっしゃったんだ」

「今は?」


「そうだ。まだお前が判断できる年ではないからという意味だ。そして、今できることは自分の仕事について、お前にいっぱい話してくれと言われた。私が人生をかけて取り組んでいる仕事の話をすれば、仕事の内容だけじゃなく、そこにある人間関係や、世のしくみの話も聞き取れるのだと言われた」


 愼はそう言われて納得した。確かに今の自分の考える素になっているのは、太兵衛から聞いた話だ。自分はそこからいろんなことを学んでいる。


「小学校では、これからお前に、大学校で学ぶことや、これから先の人生について、考える機会や知識を得る時間を作るそうだ。だけど人は必ず比較するものが必要だから、こんなわしの人生でもいいから、それをしっかりと伝えて、お前に考える力をつけさせてくれと言われた」


 愼は父親の真意を知り、その後ろに控えた代表の考えを知って、心が軽くなった。こんなにも自分のことを考えてくれる人が、この国にはいる。何も焦る必要は無い。

 太兵衛は愼の顔が明るくなったのを見て、自分の話が伝わったと、ホッとした顔に成った。


「それからこういう話もしてくれた。大学校の門戸は働いた後でも開いている。学びたくなったときに学べる。そういう準備を大学校はしているのだと言われた。いいか焦って決める必要はまったくない。ゆっくりと時間をかけて自分の進む道を見つければいい」


 愼は太兵衛の顔を見て、しっかりと頷いた。


「それから、赤根先生のことは代表もよくご存じだった。戦場で知り合って、教員になって欲しいと代表が頼まれた人だそうだ」


 仁先生が!

 愼は思いもよらぬ所から敬愛する師の名前を聞き、びっくりした。




 翌日、愼は健と春瑠の顔を見て、元気よく話しかけた。

「今、ここで一緒にいる時間を大切にしようね」

 春瑠は唐突な愼の言葉に戸惑っていたが、健は何も考えずに答えた。

「あたりまえじゃん。俺はいつもそう思って、一生懸命話してるぞ」


 真剣な健の顔に、愼は思わず笑顔を返していた。

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