第10話 転身
まったく、よくもまあ、こんな突飛な策を思いつくものだ――正直は勝悟が武田に現れて以来、その頭脳から打ち出された数々の妙策を思い出していた。
勝悟の打ち出すどの策も、全て未来を見通したような策だった。
神の目の諱は伊達ではない。
今回はどのような見通しがあって、伊豆に目をつけたのか、聞くのが楽しみだった。
「石高的には、二九万石と七万石だから、圧倒的に損な取引だ。北条が了承したのも、この点が大きい」
「確かにな。米だけではなく、野菜や生糸など生産物も豊富じゃな」
経済の話だけに、正直に代わって氏真が応えた。
言葉の割には、氏真は惜しそうな顔をしていない。
逆に正直が心配そうな顔をした。
「それだけの生産物を失って大丈夫なのか?」
「自連はこれから商業国家として大きくなる。その点は心配するな」
「お主、伊豆をどのように使おうと思っておる?」
孫一がにやけながら訊いてきた。
「伊豆は魚が捕れる。干物も旨い。しかも温泉も多い。だから箱根のような保養地にしようと思っている」
「保養地?」
聞き慣れない言葉に孫一は面食らった。
「うむ。孫一のような男が、女と一緒に連れ立って行くところだ」
勝悟の話に、ますます皆は分からなく成った。
それを見て、勝悟は話を続けた。
「これから自連領内は、もっと民を増やそうと思っている。生まれた子供は大事に育てるし、他国からの民もどんどん受け入れる。今の民の数は、領内全部で三十万人ぐらいだが、これを三倍以上の百万人にする」
「百万!」
驚く三人に対し、勝悟は大真面目だ。
「それだけの人の食い扶持も用意しなければならないが、人は食っていくだけでは生きていけない。そのためには文化面の充実は必要だ。それは学校であり、氏真殿が催している新しい蹴鞠の普及などが大きい」
その話には三人とも納得できたのか、素直に頷いている。
「だが、そういう頑張る事だけでは、ある日突然人間という者は駄目になるらしい。気がつくと何もしたくなっていくのだ。だから、遊べる場所、そうだな心の洗濯ができるような場所を用意する。それが伊豆だ。温泉に入って旨いものを食って、素晴らしい景色を眺めて一日過ごす。どうだ、疲れた心が癒やされて、また頑張る気持ちになると思わぬか」
勝悟の話に孫一が乗った。
「確かにな。そういう場所には人も集まる。集まれば銭を落とす」
「そういうことだ。私は代表である間に、そういう国の形を作っておきたい」
正直にもようやく勝悟の意図が理解できたのか、表情が明るくなった。
「だがお主のことだ。それだけではあるまい」
勝悟はそれまでの夢見るような顔から、厳しい顔に変えた。
「まず、私は昌幸とは戦いたくない。真田はいずれ生き残りをかけて、上野に手を伸ばしてくるだろう。そのとき、当事者でいたくないという思いがある」
「旧友とは戦いたくないということか」
「それに海軍の充実が図れる。駿府港や浜松港には、商人の船がいっぱいで軍艦を置くスペースはない。だから下田を開発して、大きな海軍基地を作ろうと思う」
確かにこれからの戦は、海軍の占める割合は大きくなる。攻め寄せる敵の後背に回り込んで、補給を叩くことも可能になるから、防衛上でも大きな意味がある。
「上野の軍はどうする?」
「細かい差配は正直に任せる。上野を離れたくない者は、北条軍に編入できるように氏政殿に話をつける。駿府に来たい者は軍に限らず受け入れるつもりだ」
「分かった。早速昌盛と話をしよう」
軍事的な話が一段落して、話は経済に移った。
氏真が切り出したのは、物価の高騰についてだった。
「武具はともかく米の値上がりがひどい。各地で戦が多いので、大名が買いあさるせいだ。このままでは高くて民が米を口にできなくなる。そこでじゃ。自由の精神とはちと離れるが、米に関しては政庁で米価を決めて一律に買い上げたいと思う」
「なるほど、米価の安定ですか」
経済への政府の関与について、勝悟は少しだけ躊躇した。自由を国是とする自連の根幹に関わる問題だからだ。ただ一方で民の暮らしを安定させ、最低限の人権を保障することも国是の一つだ。
「いいでしょう。政府による米の買い上げを実施しましょう」
氏真はホッとしたようだ。
その顔つきからして、物価の高騰は相当なレベルに達しているのだと、勝悟は思った。
これから戦乱が拡大するならば、物価の高騰はますます激しくなる。
打てる手は今のうちに打っておくべきだと強く感じた。
「わしは、名を変える」
唐突に孫一が切り出した。
「何が起こったのだ?」
さすがの勝悟も面食らった。
孫一の名は日の本でも知れ渡っている。変えるメリットが感じられなかった。
「わしはこれから商人に成る。だからこれまでの傭兵としての名は捨てるつもりだ」
「ふーむ。それで、何という名にするのだ」
「友野
「友野康三、そうか友野の家の人間として生きるのだな」
勝悟は相変わらず、孫一、いや康三の思い切りの良さに舌を巻いた。
「もう一つ報告がある」
康三は珍しく真面目な顔で切り出した。
「わしは明国に行ってみようと思う」
「明国!」
勝悟よりも氏真が強く反応した。
好奇心旺盛な氏真は、自分も行きたくてたまらない顔だ。
「信長は商いに関しては、あまり干渉しなかったが、今後の権力者がどうかは分からない。これからは商いの相手も、もっと外に求めるべきだと思う。まあ八重が言い出したことだが。それで交易先を確保するために明に行くことになった」
「相変わらず、思い切ったことをするものだな」
「まあ、それがわしだからな」
康三は少し崩れた顔を見せた。
「さては、お主明国の女に興味を示してるな」
勝悟が指摘すると、康三は再び顔を引き締める。
「何を言う。あくまでも商人友野康三の商才を試すためにだな――」
八重にばらされてはたまらぬとばかりに、康三は必死で言い訳を取り繕った。
いつものことなので、三人とも酒の肴ぐらいに聞いた。
その日は、通常の授業は取りやめて、自連を取り巻く諸国との関係について討議する授業に変わった。
授業内容の変更に伴い、仁先生に代わって山本桜という名の若い女の先生がやってきた。
桜先生は大学校で政治学を研究していて、特に外交の専門家らしく、仁先生も教えてもらう目的で生徒側の席に着いた。
学校ではあまり見ない、大人の女性の色気に、思春期に差し掛かった教室の男子は一斉に恋心を抱き、いつもでは見られない気合いの入りようで授業に臨んだ。
逆に女子は素直に憧れる子や、男子の態度に反発する子など、反応は様々だったが、総じていつもより活気があるように見えた。
桜先生は二七才の若さにも関わらず、近隣の国々の情勢や歴史をよく勉強していて、九才児たちにも分かりやすい平易な言葉で説明してくれた。
一通り前提となる知識を学んだところで、今日の目的である子供たちの討議が始まった。
最初に口火を切ったのは、桜先生の登場にひときわ張り切った仁左だった。
「やっぱり、他の国に舐められないために、軍隊の強化が一番じゃないかと思います」
甚左は桜先生を意識して、言葉遣いまで丁寧になっている。
やればできるじゃないかと、健は恋する力は偉大だと思った。
「相変わらず単純な奴だな。武田の崩壊は軍部よりも経済の崩壊が要因としては大きい。結局民の口を潤す国力が無ければ、軍隊だけが肥大しても意味がない」
太郎は相変わらず仁左に厳しい。
難しい言葉が多いから、皆も圧倒されるが、実際には分かってない者が多いはずだ。
かくいう健も太郎の言うことはよく分からない。
「戦が続けばお腹が減るから、たくさんのご飯を用意しなきゃいけないし、ご飯を用意するにはお金がいる。そのお金を稼ぐ力がないと駄目だと言うことだね」
やはり、愼は普段から健と話すことが多いから、簡単な言葉で説明してくれる。
健は愼と友達で良かったと本気で感謝した。
「今、戦になることが当たり前のように話をしたけど、戦にならないようにする方法も考えてみたらいいんじゃないかな。代表は他国への侵攻を禁止しているけど、これも他の国に攻められないための一つの方法だと思う」
愼が不戦を持ち出すと、仁左と仲がいい又吉が反発した。
「でも、自分の国の方が強いと思ったら、攻めてくるぞ」
「どうして、他の国を攻めようと思うのかな」
又吉の意見に触発されて、健が独り言のように呟いた。
健は特に意図なしに言ったのだが、その一言は意外に教室の注目を集めた。
「確かに何の目的でわざわざ戦をするんだ」
正太が健の発言に追従すると、他の者もざわめき始めた。
「そんなの、強いってことで威張りたいからだろう」
「いや、他の国の人の持ち物を盗るためだろう」
「国が大きいと大名が威張れるからじゃないか」
「いろんな国のものを食べたいからじゃないか」
皆がてんでに思ったことを口にするので、まとまりはつかないが、討議に活気は出てきた。
「最終的には平和な国にしたいからさ」
太郎が混乱に終止符を打つつもりで発言したが、皆意味が分からずに余計にざわめきは大きくなった。
「平和のために戦争するって変じゃないか」
「平和って戦をしないことじゃないの」
「皆でもう戦は止めようって言えば済む話じゃね」
「豊かさが平等じゃないから、戦になるんだよ。それに国同士で共通の規則もない。そういうものを一つ一つ実行していけば、きっと戦はなくなる」
愼は戦がなくなると言い切った。その言葉は妙な説得力を持って皆の心に響いた。
そんな普段の愼から想像できない姿を見て、健はへんな感動を覚えた。
授業が終わると、桜先生が愼に近寄って来た。
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