第9話 勇将の最期
光秀は結局何もしないまま五日が過ぎた。
その間に、秀吉は姫路から摂津まで軍を進め、高山右近ら摂津衆と合流した。
それまで日和見を決め込んでいた畿内の国人衆は、こぞって秀吉の元にはせ参じ、大坂には五万を超える兵が集まった。
これに備え、明智秀満は淀城、勝竜寺城の修復に向かったが、光秀は依然として兵を起こそうとはしない。
業を煮やした斎藤利三は、伊勢貞興と共に光秀の部屋に乗り込んだ。
そこで利三が見た光秀は、やつれ果てて顔も青白く目に隈が出て、とても信長を討った男には見えなかった。
「いったい、どう成されたのか。あの自信に満ちあふれた光秀様は、どこに行かれたのですか?」
利三は主君の変化に驚くあまり、目の前の光秀を別人のように言い立ててしまった。
「わしにも分からんのだ。とにかく信長公を討った瞬間から、全ての気力が吸い取られてしまったように、身体から消えてしまった」
弱々しく説明をする光秀の姿に、利三はもしや信長の武気の影響を疑った。
兵を死兵に変える武気ならば、逆に兵の気力を吸い取ることも可能ではないか――脳裏に浮かんだその考えを、利三は慌てて否定した。
これまで戦の中で、信長がそんな武気を発揮したのを見たことがない。
第一武気ならば、武気を発した者が死んで、効果が続くなど有ろうはずがない。これは武気よりも・・・・・・
またも利三は脳裏に浮かんだ考えを否定した。
この世に呪いなどあるわけがない。
呪いで人を変えられるならば、呪術師は世の中で一番の戦人となる。
「体調が悪いのは分かり申した。しかし今は天下分け目の決戦が迫っております。何としても戦場にその姿を見せていただかないと、味方の士気に関わります」
利三は、戦は自分が指揮するしかないと覚悟を決めた。それでも光秀には戦場に立ってもらわねばならない。士気の問題もあるが、光秀が戦場にいなければ、例え勝っても光秀の武名は高まらない。
光秀には返しきれない恩があった。冷遇され諫言も斥けられた稲葉一鉄は、致仕した自分の他家への仕官をとことん邪魔した。光秀はそんな自分の力を認めてくれて、信長にも逆らって召し抱えてくれた。
「さあ、早く甲冑にお支度ください。出陣の準備はもう済んでおります」
光秀は気が乗らないながらも、利三に急かされて、のろのろと立ち上がった。
今の光秀を動かしているのは、家中の者を引き込んでしまった責任感だけだった。
羽柴軍は先導する摂津衆が山城の南端の山崎を占拠している。
利三は山崎の沼地が多くて隘路となる地形を利用して、西国街道の出口に蓋をするように布陣した。
光秀は利三の差配を見ながら、天王山の山頂への布陣が漏れていることに気づいた。
ここを取れば麓に向けた南蛮気道の斉射が可能になる。
孫子の兵法にも隘路と高地の占拠は、勝利への必須条件にあげているが、利三は高地を見落としている。
それなのになぜか利三に注意をしなかった。
気づくだけで意見を出さないところからも、光秀がこの決戦を既に他人事のように考えているのが窺える。
「光秀殿ともあろうお方が、天王山の山頂の押さえを怠っているようです」
黒田官兵衛は驚きも含みながら、秀吉に報告した。
報告を聞いて、最初秀吉は信じなかった。
何かの罠に違いないと思ったからだ。
ところが次々と入ってくる物見からの報告では、埋伏などではなく、あきらかに山頂の備えがないことを知った。
「光秀はいったいどうしてしまったのだろう。そもそも信長様への謀反からして、気が触れたとしか思えぬ行為。彼奴に何があったのであろうか」
秀吉は光秀の行動の変貌ぶりに、さすがに驚いて考え込んでしまった。
「ぐずぐずしている場合ではございませぬ。せっかく敵方がくれた好機ではございませぬか。ただいまから、わたくしと秀長殿で山頂に南蛮気道隊を送り込み、麓の敵を一網打尽にしてくれましょう」
官兵衛は勇んで帷幕を出て行った。
後に残された秀吉は、まだ光秀の変貌ぶりに考え込んでいた。
何か恐ろしい力が世の中に働いているとしか思えなかった。
今のところ自分にはその力は働いてないようだが、いつ降りかかって来るか分からない。
早く力の正体を暴かないと、この戦に勝っても後がない。
秀吉は優勢にも関わらず、背筋にゾクッと寒気を感じた。
戦は湖沼地を嫌い、天王山の山裾を進もうとした摂津衆の中川清秀の軍に、伊勢貞興の軍が突撃したことから始まった。
貞興の厳しい攻めに中川隊は劣勢を強いられるが、共に進んでいた高山隊が加勢に入る。
挟撃によって貞興の軍が不利に見えたが、斎藤隊が高山隊に斜め前方から襲いかかり、四巴の乱戦となった。
時間の経過と共に、斎藤隊の勢いが高山隊を上回り、高山、中川の両隊は次第に押され始める。
このままでは持たぬと判断した秀吉は、名人久太郎こと堀秀政を送り込み、前線をなんとか持ちこたえさせた。
この頑張りがこの戦いの全てだった。
前線の要となった堀隊を崩そうと、松田政近と並河易家が、更に山の中腹まで上がり逆落としをかけようとしたとき、山頂に陣取った黒田隊から、南蛮気道の矢が両隊に降り注いだ。
一撃で兵士を大きく削られた松田、並河の両隊は、今度は羽柴秀長隊の南蛮気道の一撃を受け、更に兵力を削られた。
黒田、秀長の両隊に交互に南蛮気道の攻撃を受けた両隊は、六撃目に完全に消滅した。
勢いづいた黒田、秀長の両隊は、堀隊と高山隊の二隊を相手に善戦を続けていた、利三の隊に南蛮気道を浴びせかける。
斎藤利三はこの一撃で深手を負い、斎藤隊は後退を始める。
羽柴軍の前線三隊は斎藤隊の後退により、力関係が崩れた前線を制し、伊勢隊を押しまくりながら、ついに貞興が討ち死にした。
迫り来る羽柴軍を食い止めようと、津田信春が円明寺川を挟んで踏ん張るが、蜂須賀小六が右から密かに渡渉し、津田隊の左翼を突いた。
津田隊が混乱する中、堀隊、高山隊、中川隊が渡渉を終え、正面から激突する。
津田隊が崩れるのを見て、もはやこれまでと、光秀は本陣を捨てて退却した。
光秀は僅かな兵と、勝竜寺城に逃れようと退却を続けたが、蜂須賀小六が放った乱破に先導された近郷の農民兵の手にかかり、あえなく最後を遂げてしまった。
勝利が確定後、送られてきた光秀の首を見た秀吉は思わずつぶやく。
「なんと無残な」
その首は秀吉が知る織田軍一の勇将として、いつもキラキラと輝いていた面影はなかった。
諸将たちが口々に「おめでとうございます」と秀吉に賛辞の言葉を贈るが、秀吉の耳にはまったく入ってなかった。
秀吉の勝利が自連の政庁に届いたのは、戦の翌日の昼過ぎだった。
伝書鳩の足につけられた書簡には、天王山を制した秀吉の勝利が、事細かに書かれてあった。
勝悟はその内容を右筆に筆写させ、自連の議員、正直を始めとした軍幹部に届けさせた。
更に畿内での秀吉の勝利と光秀の敗死は、高札にして広く民にも知らせた。
勝悟の政治理念の原点は、民の政治理解と参加にあるから、重要な情報の民への開示は最も大切な政治活動であるが、当時これだけ徹底した情報開示を行う大名は他にないため、当時の自連領内の民は日本で最も情報通と言えた。
夕方、政庁に氏真、正直、孫一が勝悟を尋ねてやって来た。
彼らの目的は一つで、秀吉の勝利を受けて、それぞれの立場から勝悟と意見を交わすことだった。
もう政庁が閉まる時間なので、四人は例によって今川屋敷で話をすることにした。
屋敷に戻ると、高札を見て今日は来客があると予想した光と早川殿が、酒や食べ物を用意してあった。
食事に箸をつけ、杯に口をつけた後、最初に話の口火を切ったのは正直だった。
「畿内で秀吉が勝利して、これから柴田や信長の遺児たちと覇権を争うわけだが、軍としては家康の動向の方が気になる。政庁は今後、家康に対して、どのような外交を行おうとしているのだ」
徳川軍が強大になっていくことを、正直は案じていた。
徳川は生粋の軍事国家だ。全盛期の武田軍との戦で鍛えられた将が、皆一軍を率いる侍大将として育っている。
「徳川はしばらく放っておこうと思っている。まだ甲斐、信濃を手中にしたばかりで、民政の充実もこれからだ。今は自連にかまうよりも、織田との関係をどうするかの方が優先だろう。それに――」
正直は勝悟が言いかけたことが気になった。
促すように黙って勝悟を見た。
「気になるのは昌幸の動向だ」
「真田か」
「そうだ。織田が甲斐、信濃から撤退して大きくなったのは徳川だけではない。真田も小県一群から、それなりに勢力を広げつつある。徳川が近隣国で最初に対処しなければいけないのは、真田になることは間違いない」
真田昌幸の名を聞いて、正直は考え込んだ。なんとも正体のつかめぬ不思議な男だった。
信玄に鍛えられたその知謀は、戦略的にも戦術的にも抜きん出たものがあるが、いかんせん真田の本領である小県への拘りが強過ぎた。せっかくの戦略眼も、土地に対する拘りが強いと活かせぬことが多い。
また土地への拘りを優先する余り、外交上の信もおきにくい面がある。いずれにしても今後の信州の火種は、真田を中心に起きることは間違いないだろう。
「真田については正直に相談がある」
「わしに相談とはいったい何じゃ」
「西上野のことだ」
西上野と聞いて、氏真と孫一も身を乗り出した。
上野は大国だが、自連の本拠である駿河からは遠すぎる。
他国への侵攻を考えるならば、ここに拠点を置くことは意味があるが、専守防衛が国是の自連においては、地勢的な旨みがない土地と言えた。
「西上野をどうするのだ?」
「西上野を北条に譲ろうと思う」
「北条に?」
正直だけでなく、三人とも驚いた。地勢的には意味はないが、経済的にはなんと言っても二九万石の穀倉地帯だ。ただで手放すのは惜しい気がする。
「ただでは譲らん。伊豆と交換できないか氏政殿に打診してみた」
「伊豆か。それで氏政殿はなんと?」
伊豆は北条建国の地だ。いくら友好国と言っても、精神的に手放すのは抵抗があるだろうと、正直は考えた。
「氏政殿は交換してもいいと言っている」
「え!!」
三人が三人とも驚きの声をあげた。
中でも氏真が一番びっくりしている。
今川と北条は同盟国に成るまでは、国境を巡って度々争っている。
そこをあっさり手渡すとは思いも寄らなかった。
「この交換にはいろいろな意味がある」
そう言って、勝悟は楽しそうに微笑んだ。
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