第8話 家康の躍進
滝川一益が明智光秀の反乱の知らせを受けたのは、本能寺が焼けて二日たった後だった。
一益は武田氏滅亡後、信濃国の
小県郡の真田を懐柔し、西上野への侵攻を画策していたが、自連と信長の外交交渉が進み、真田の懐柔までで手を止めていた。
自連との協定後、北条か上杉か、次の侵攻先を巡って評定をしている間に反乱の報が届き、評定は対明智戦略の策定の場に変わった。
越前の柴田勝家や中国遠征中の羽柴秀吉に比べ、一益の軍勢規模は小さく、統括地もまだ掌握していない。信長亡き今、尾張や美濃からの支援は期待できない上、畿内は遠い。
一益は自身のおかれた不安定な地勢に、不安の色を隠せなかった。
唯一期待できるのは三河の徳川軍だが、信長亡き後、家康がどこまで友好を保ってくれるのか分からない。
そんな状況で行われる評定がうまくいくはずもなく、臣下の意見は様々に分かれ、皆の注目は一益がどう決断するか、それを待つのみとなった。
ところが肝心の一益が混乱して、何をしていいか迷っていた。
これまでの一益の思考は、全て信長中心で、何をすれば信長が喜び、何をすれば激怒するか、行動の評価軸が信長だったので、いざ自分の評価軸が必要と言われても、すぐには作ることができなかった。
一度は集まった国人衆も、そんな一益の様子を見て遠のいていった。
寂しくなった高遠城の一益の部屋に、津田秀政が飛び込んできた。
「たいへんです。信濃の国人衆が一斉に蜂起しました」
「なに、首謀者は誰だ?」
「諏訪頼忠と原
「して、反乱軍の兵力は?」
「八千でございます」
一益は言葉に詰まった。
反乱と聞いても、せいぜい千か二千の小勢と踏んでいたが、とんでもない大兵力だ。
直ちに近隣国人衆に緊急出動を命じた。
一刻後、集まった国人衆は僅かに千、他の国人衆たちは敵方についたか、日和見を決め込んだ。このままでは城内の五千の兵と合わせても六千に過ぎない。一益は敗北を覚悟した。
反乱軍との戦闘は翌未明に行われた。
たいした後詰めも期待できぬ中、籠城しても益なしと、一益は果敢に打って出た。
先鋒は長崎弥左衛門慰が兵千で受け持ち、反乱軍原胤従と激突した。
弥左衛門慰は、巧妙に胤従の攻めを受け流しながら、胤従の中心部隊を味方の陣深くまで呼び込み、相手の戦線が伸びきったところで、滝川益重が敵を分断する横槍を入れて、胤従の隊を混乱させた。
胤従は、敗走しそうになる兵をよくまとめて、壊滅は免れたが、前線は押し込まれた。
弥左衛門慰は勢いに乗って敵の本陣に迫ったが、今井信俊が僅か五十騎の寡兵ながら、武田家のお家芸である運動量の多い突撃で、数度に亘って敵の気勢を削ぐことに成功した。
戦はその後、一進一退の攻防となったが、先鋒戦で勝利した分、滝川勢がやや優勢に戦を進めた。
戦局が大きく転換したのは、陽が落ちかけた酉の刻に入る直前だった。
北信濃の国人の栗田国時が、三百人で滝川本陣を背後から急襲した。
本陣の兵が裏切りと勘違いして動揺し、一益が国時の兵に注意を奪われたとき、諏訪頼忠が兵二千で、左翼の津田秀正を打ち破り、援軍がないまま秀正は潰走した。
ここから滝川軍は総崩れに成り、秀正を始めとして宿将六人が討ち死にした。
一益は高遠城を捨てて、木曽義昌を頼って木曽に落ち延びた。
反乱軍は難なく高遠城に入城し、諏訪頼重が城主となった。
信濃の滝川軍の敗北は、甲斐の国人衆にも刺激を与え、駒井正直を頭に反乱軍が立ち上がった。
穴山信君は反乱を抑えようと、国人衆に召集をかけたが、滝川一益が信濃を撤退したことで、誰も信君の呼びかけに応じず、不利と悟った信君は五百の兵と共に、妻子を連れて駿河に逃げ込もうとした。
信君は国境付近の本栖湖の北側まで逃れたが、今井信衡の追撃軍に追いつかれ、迎撃したものの兵力差を覆せず、城山に追い込まれ家族郎党三十人と共に自刃した。
甲斐と信濃が反乱軍の手に落ちたと聞いて、小躍りして喜んだのは、三河の徳川家康だった。家康は、すぐさま兵を起こし、保護という名目で織田軍が管理していた長篠城、飯田城を占拠し、高遠城の諏訪軍と対峙した。
当初、信濃反乱軍の諏訪頼忠は、徳川軍が八千と大軍ではないことを見て、城を出て戦った。滝川軍に勝ったことで勢いがあったからだ。
徳川軍を指揮する酒井忠次は、これを見て勝ったと思った。
高遠城に籠もられて、甲斐反乱軍が連携して後詰めに来たら、長期戦に成ると案じていたからだ。
徳川軍にとって最もやっかいなのが、織田軍が体制を整えて、信濃に再侵攻をかけてくる、あるいは明智光秀が美濃、尾張を制して三河に迫る事だった。
反乱軍の先鋒は前回と同じ原胤従が務め、徳川軍の先鋒大久保忠世相手によく戦ったが、三河兵の粘り強い戦いに次第に押され始め、後退を始めた。
忠世はそのまま勢いに乗って諏訪頼忠の本陣に迫ったが、再び今井信衡が騎馬五十で忠世の腹背を突いた。
徳川軍も反乱軍の動きをよく見ていて、信衡の横撃に小笠原
頼忠はこの挟撃に抗することができず、高遠城に戻ることもできずに潰走した。
酒井忠次は、主のいない高遠城に悠然と入城し、一日にして高遠城を落とした。
信濃反乱軍は僅か十日で壊滅し、反乱に加わった者は各地に逃散した。
家康は小笠原信嶺に高遠城の守りを託し、酒井忠次に休むことなく甲斐侵攻を命じた。
迫り来る酒井軍五千に対し、駒井正直は一戦も交えることなく降伏した。
元々、信君憎しで立ち上がった軍だけに、本懐も遂げて戦意が著しく落ちていたことが原因だった。
こうして、家康は電撃的に甲斐、信濃二国を手中にし、瞬く間に東海甲信に跨がる大勢力にのし上がった。
家康は高遠城に本田正信を送り、武田の旧臣の取り込みを命じた。
武田家が滅びてから、頼るべき主家を持たなかった武田の旧臣たちは、悉くこれに応じて家康に従属した。
甚左が興奮しながら仁先生に訊いた。
「徳川ってずっと武田に負け続けていたのに、どうしてこんな大きな国になったのですか?」
元々戦を望んでいた甚左は、自連がこの機に領土拡大に転じなかったことが不満だった。
健たちにそれ見たことか、という思いも籠もった質問だった。
勇猛とか果敢という言葉を期待した甚左に対し、仁先生の答えは皆の意表を突いた。
「負け続けたからだろうな」
仁先生はそう言うと、昔を懐かしむような顔をして、ひととき物思いに耽った。
「負け続けたって、どういう意味ですか?」
仁先生の答えに、甚左が不満そうに理由を問う。
「家康は武田に戦っては負けを繰り返したのだが、最後まで討たれることはなく生き延びた。それが大きい。徳川軍は負け続けることによって、逆に粘り強い精強な軍に成長できたんだ。だが、徳川が大きくなったのはそれだけではないぞ。誰か分かるものはいるか?」
仁先生はいたずらっ子のような顔で、皆を見回した。
健を始めみな先生の問いかけに、思考が止まりぽかんとしているだけだった。
仁先生は、皆の顔を見てよしよしと頷きながら、答えを話し始めた。
「家康はどんなに苦しいときも、信長を裏切らなかった。周りを大国に囲まれ、三河一国の小国であるにも関わらず、ずっと信長との同盟を守り続けたんだ。その姿に周辺国の者は、自分でも気づかないうちに、家康は信義に厚い人だと思い始める。特に戦った武田の者の思いは強い。だから駒井正直は戦うことなく降伏した」
仁先生の答えに甚左は不満そうだった。
「何か気に入らないな。強いからじゃなくて、信頼が勝ちにつながるって」
釈然としない甚左の顔を見て、仁先生はクスッと笑った。
「では訊くが、何を考えているか分からない者が、甚左に喧嘩で勝って俺の家来に成れと言ったとする。お前はおとなしくそれに従うか」
「従わない。強くなって、いつかもっと強くなって、そいつを倒そうと思う」
「なるほど、じゃあ、甚左がこいつはいい奴だと信じている奴が、どうしてもやりたいことがあるから家来になってくれと頭を下げたらどうする?」
甚左は少し考えてから言った。
「家来になるのは嫌だけど、信じている者に頭を下げて頼まれたら、家来になるかも知れないな。俺頭が悪いからやりたいことって訊かれてもよく分からないしな。そいつがやりたいことをできるように力を貸すと思う」
甚左の答えを聞いて、仁先生は今日一番嬉しそうな顔をした。
「大人でもそれは一緒なんだよ。駒井正直は甲斐を手に入れても、別にやりたいことが有ったわけじゃない。穴山信君へ恨みを晴らしたら、後はどうでも良くなったんだな。そこに家康が家来になれと言ってきた。家康は信頼できる人間だと思ってるから、素直にこれに応じた。それだけのことさ」
「じゃあ、戦に弱くても国は大きくできるのか?」
甚左は驚いたように、仁先生に確かめた。
「徳川軍は決して弱くないが、まあ、甚左の言うとおりだ。大事なのは信頼されて、他の者が託せる夢を持っていることなんだ」
健は愕然とした。自分は代表に成る夢は持っているが、他の者が託せるような夢は持っていない。信頼される方法もよく分からない。
考え続けている内に、頭が熱を帯びて顔が真っ赤になってきた。
「おい健、大丈夫か? 何か顔が真っ赤になってるぞ」
仁先生が指摘するとみんな一斉に健の方を向いた。
健の朱くほてった顔を見て、春瑠が心配そうな顔になる。
「大丈夫だ。今先生が言ったことを考えていただけだ」
「お前考えると、そんなに熱くなるのか。まさに知恵熱だな」
仁先生の言葉に、教室の者がどっと笑った。
世の中は激動しているが、駿府の小学校はまだまだ平穏だった。
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