第4話 失踪
戸に手をかけたとき、中から話し声が聞こえて、男が一人ではないことを知った。
よくないと思ったが、男のことが心配でつい聞き耳を立ててしまう。
「決行は明日早朝だ。議員が今川屋敷から政庁に出たところで、政庁に火をかける。もし火から逃れて出てくる奴がいたら、弓で射殺すんだ」
健は身体が硬直してその場に立ちすくんだ。
とんでもない反乱の話が行われている。
すぐに駿府軍に知らさなければと思ったが、身体が動かない。
必死で来た道を引き返そうと身体に動けと命じていると、何者かが首筋に刀を当てた。
「騒ぐな、声を出したら、首を掻ききる」
健は生まれて初めて殺気を感じた。
冷たくて乾いた決意が、首筋に当てられた刃から伝わってくる。
「開けろ」
男が納屋の中に向かって呼びかけた。
すぐに納屋が開き、健は納屋の中に蹴り入れられた。
床に伏せたまま周りを見ると、中には七人の男がいて健を見ていた。その中には健が手当てした男もいた。
「この餓鬼が納屋の前で聞き耳を立てていた。何が目的かは知らぬが我々の存在を知られた以上、死んでもらうしかあるまい」
刀を持った男はゆっくりと、健の側に近寄ってゆく。
健は反撃しようと思ったが、納屋の暗い灯りでは満足に武気が使えない。
まともに戦っては、八人の大人相手に勝てそうもなかった。
「待ってくれ。その子は昼間、怪我した俺を助けてくれた。縛ってここに監禁すれば、明日の朝の襲撃の邪魔にはならん。どうか命だけは助けてやって欲しい」
「源五郎、お前は甘いな。大義のための犠牲は、軍人ならば覚悟することだ」
「その子はまだ何も知らない子供だ」
「関係ない。我々の大義の邪魔になる。それだけだ」
「それなら、わしはお主と戦わねばならない」
源五郎と呼ばれた男は、健を庇うように、刀を抜いた男の前に立った。
刀を持った男が源五郎を斬るために、刀を振り上げると、様子を見ていた男たちの一人が、立ち上がった。
「まあ、待て。昌種も刀を収めろ」
「なんだ、虎孝も源五郎に感化されたか」
「そうではないが、ここで源五郎を失うのは痛手になる。弓の上手はこの作戦に不可欠だ」
虎孝と呼ばれた男に続き二人の男が立ち上がり、三人で源五郎の横に並んだ。
他の四人の男たちは、狼狽して様子を見ている。
男たちは、互いに睨み合っていたが、やがて昌種がため息をついた。
「仕方ないな。ではその小僧は縛り上げて、そこに転がせておこう」
昌種は刀を収めた。
殺し合いが行われるのではと緊張していた健は、ホッとして身体の力が抜けた。
源五郎は健の身体を縄でぐるぐる巻きにし、口には手ぬぐいで猿ぐつわを噛ませた。
総じて優しい手つきだった。
作業している様子を見て、健はようやく源五郎のことを思い出した。
高遠に迎えに来てくれた人だ。
確か、市川源五郎と名乗っていた。 髭が伸びて髪もボサボサになってるので気づかなかったが、あの優しい目は覚えている。
父と同じ三枝隊の歩兵班長で、高遠城の戦で部下を全て亡くしたって言ってた。
源五郎が健の視線に気づいた。
「そうか、わしのことを思い出したのか」
源五郎は梨音の髪を優しく撫ぜた。
「すまないなぁ。こんなことに巻き込むために連れてきたんじゃないんだが」
源五郎は焦点が合わない目で宙を見た。
「わしとお前の父五平は、三枝守友様の隊で弓兵を率いていた。五平とは年が同じで弓の腕も互角だった。二人でいつも手柄を競い合っていたが、高遠城から逃げる途中、敵の騎馬隊に追いつかれそうになったとき、五平は
源五郎はそこで大きなため息をついた。
「くすぶっていたわしを、今福虎孝殿が駿府攻めの同士にと誘ってくれたのじゃ。我々は何度も政庁に掛け合ったが、代表の真野勝悟は侵略戦争はしないの一点張りだ。業を煮やした浅利昌種が政庁の議員を皆殺しにして、我々の武威を示そうと提案したのじゃ。わしは最初反対した。そんなことをして何に成ると思った」
源五郎はそこで、悲しい目で健を見た。
その目を見て、政庁焼き討ちは源五郎の本意ではないと、健は思った。
何か言おうとしたが、猿ぐつわが口を塞いでいるので、うめき声にしかならない。
「ところがじゃ、昨夜あの大きな彗星を目にしたとき、わしの心の中に怒りの神が宿った。一族衆でありながら、武田が滅ぶきっかけになる裏切りをした穴山信君だけは許せん。それを討とうとしない政庁も許せんと思ったのじゃ」
「その通りだ。お主もようやく政庁のだらしなさに気づいたか」
いつの間にか昌種が近づいていた。
源五郎の振り絞るような思いを聞き、満足げに笑った。
「明日は頼むぞ」
「おう」
源五郎は、言われるまでもないという顔で、昌種の求めに応えた。
春瑠は健が刀を突きつけられて、納屋の中に押し込まれるのを見て、ガタガタと震えていた。
このまま走って逃げ出したい思いが、頭の中で膨れ上がる。
同時に健が殺されるかもしれないという恐怖が、逃げたい気持ちを押しとどめる。
春瑠は必死でどうすればいいか考えた。
このまま家に帰っても、母親しかいないのでは何もできない。
かといって健の家でも状況は同じだ。
駿府城に行っても、子供の自分じゃ軍は相手にしてくれないかもしれない。
政庁はもう閉まっている。
どうすればいいのか、分からなく成って、涙が出そうになるが、囚われた健のことを思って懸命に堪える。
混乱する頭の中に姉の顔が浮かんだ。
友野家は、父親の宗善が議員になったので、港近くから政庁の近くに引っ越した。
そのとき母親と一緒に挨拶に行ったことがある。
友野の家はあの辺りでは、今川屋敷と並んで大きな屋敷だった。
行けばすぐに分かる気がする。
姉ならばなんとかできるかも知れない。
春瑠はすぐに走り始めた。
ここから友野の新宅までは、約十町ほどだ。
毎日学校まで通う道と同じ道なのに、暗いだけでまったく違う道のように感じる。
暗い夜道を走っていると、さっきの刀を持った男が追いかけて来るような気がして、恐くて後ろを振り向けない。
たまに行き交う人は、こんな夜に一人で走る娘を見て、奇異な目で見る。
春瑠は男の仲間のような気がして、走る速度を速めた。
しばらくすると政庁の近くに来た。もうみんな帰ったのか、どの家も真っ暗だ。
友野屋敷を探したが、夜の風景は記憶とはまったく違った。
どれが友野の家か分からなくて、政庁の辺りをぐるぐる回る。
この間にも健の命が危険に晒されていると思うと、気が気ではない。
夢中で探しているうちに、歩いている人とぶつかって、道に転がった。
「大丈夫か? こんな夜遅く女の子が一人かい」
ぶつかった男が軽い身のこなしで、転んだ春瑠に近づき助け起こしてくれた。
「おや、お前は確か八重の妹の春瑠じゃないか」
春瑠は夜目が利かないので、男の顔はよく分からないが、声には聞き覚えがあった。
「春瑠です。健が、健が殺されそうなの」
男は春瑠の頭を撫ぜて、ゆっくりと話した。
「いいか、落ち着いて話すんだ。健と言うのは誰だ?」
「小学校の友達です」
「今、健はどこにいる?」
「健の家と私の家の途中にある納屋の中です」
「健はどうしてそこにいるのかな?」
「刀を突きつけられて、納屋に連れ込まれました」
「納屋の場所は、案内できるか?」
「できます」
「よくできた。春瑠、健はわしが助けてやるから安心しろ」
男は春瑠を連れて、友野の屋敷に入った。
屋敷に入ると、すぐに大声で叫んだ。
「八重、清吉、すぐに来てくれ」
すぐに八重と清吉が奥から出てきた。
八重は春瑠の姿を見て驚いた顔をした。
「春瑠、どうしたんだい」
「話は後だ。わしは春瑠と一緒に、春瑠の友達を助けに行く。清吉、お前は場所が分かったらすぐに戻って、八重と一緒に今川屋敷に行き、梨音に孫一が賊退治に行ったと伝えてくれ」
「賊って、何者なの?」
「分からんが、刀を突きつけて子供を攫ったんだ。まともな相手じゃないことは確かだ」
「一人で大丈夫かい?」
「わしを誰だと思っている」
八重はその言葉を聞いて安心した。
「分かった。じゃあ、春瑠を頼むよ」
「任せておけ」
孫一は春瑠と清吉を伴って友野の屋敷を飛び出した。
春瑠は来た道を再び走り始めた。
孫一が負ぶおうと言っても拒否した。
今、負ぶわれたら、気を失いそうな気がしたからだ。
ようやく納屋の側まで来た。
春瑠は案内した安堵で、気が遠くなった。
孫一は清吉に目で合図した。
清吉は元雑賀衆だ。孫一を慕って、友野家の手代となった。
戦場を傭兵として駆け回ったので足には自信がある。全速力で走り出すと、あっという間に闇の中に消えていった。
「ここで休んでいろ。健はすぐに救い出してやる」
孫一は春瑠を木の側に座らせた。
「これからわしはあの納屋の中に入る。お前は清吉が戻って来るまで、ここでじっとしているんだ」
春瑠は口を利く力が残って無くて、ただ頷くだけだった。
孫一は納屋に向かって歩いて行く。
その後ろ姿を目で追いながら、春瑠は健の無事を祈った。
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