第2話 非絶対山の神

 驚きや恐怖によって、反射的に声が出る者と、むしろ黙り込んでしまう者がいる。

 なぎさは後者だ。

 山中を歩く彼女は、宙ぶらりんになった死体と出会って沈黙した。

 しかし、驚きや恐怖で押し黙ったわけではない。

 そんな感情はとうに失われ、今はただひたすらとげんなりするばかり。

 その日に首吊り死体と出会ったのは、これでもう十二回目のことだった。


 ***


 商店街の福引きで旅行券を当てた瀲は、旅先にて慣れないハイキングを敢行した。

 別に山歩きを楽しみたかったからではなく、山頂近くの茶店で出されるというイワナの塩焼きが目当てだった。

 はじめは整備されたハイキングコースを歩いていたはずが、いつの間にやら獣道に迷い込んだらしい。

 周囲は代り映えのしない木々が立ち並ぶばかりとなり、進んでも戻っても、道らしい道がない。

 慣れないことはするものじゃないな、と瀲は独り言ちた。

 疲れと不安もあって、彼女は一本の木に寄り掛かって息を吐いた。何気なく対面の木を見上げると、高い所からこちらを見下ろす者がいる。

 きゅっと喉が閉まるような感覚があって、彼女は呼吸を止めた。

 薄汚れたジャンパー姿の男が、首に括られた紐一本で吊り下げられている。

 目玉は見開かれ、顔は赤黒く変色していた。

 瀲は思わず走り出した。

 誰もいない森の中で、死体と二人っきりというのは勘弁願いたいことだった。

 真っ直ぐな木々が等間隔で並び、足元は枯草の絨毯ばかりで勾配なだらかだったのが幸いして、山慣れしていない瀲でも全力疾走することができる。

 しばらく走って、立ち止まり、一息吐いた後で、彼女は絶句する。

 先程と同じく、見上げるような高い枝に人が宙吊りになっていた。

 先程の首吊り死体より腐敗が進んでいるのか、顔や手足の形が崩れ中の骨らしきものが露わになっている。

 周囲には腐臭が漂っており、吐き気を覚えるくらいだった。

 その後、森をさ迷い歩いた瀲だったが、とうとうハイキングコースには戻れず、他の観光客と出会うこともなかった。

 代わりに、首吊り死体は驚くほどに見た。

 自殺スポットか何かかと問いたくなるほどに。

 どれも全くの別人であったため、同じところをぐるぐると回っているという心配はなさそうだった。

 どれくらい歩いただろうか。

 夕日で真っ赤に染まる森の中、壁のような巨岩が先を塞いでいる。

 すぐ側には、倒れた立看板があった。

【当地には二柱の山の神があって、一つは絶対山之神大山祇命なり。もう一つは】

 辛うじて読めたのはここまで。

 他は朽ちて無くなっていたり、カビのせいで判別できない。

 久方振りに、看板という――朽ち果ててはいても――全うな人工物を見かけたことで、瀲は少しだけ安堵した。

 ひょっとすると、巨岩はこの山の名所なのかもしれない。

 周囲に道は見えないが、物好きな観光客の一人や二人くらい通りがかるかも、という淡い期待を胸に、彼女は岩へともたれ掛かった。

 すでに日も暮れかかっている。

 暗い中で下手に動くよりは、じっとしていた方が良い選択に思えた。

 ずるずるとその場に座り込んだ。目を閉じると、どこからともなく鳥の薄気味悪い声が聞こえた。

 歩き疲れていたのか、そこで瀲は意識を手放した。


 ――ペチャ。


 遠くで柔らかい何かを潰すような音が聞こえた。


 ――ペチャリ。


 息苦しさを感じて、微睡みの中からゆるやかに意識が浮上する。

 近くに何かがあると思った。

 その何かに自分が覆い被さり、顔を押し当てていることに気が付いたところで、ようやく瀲は覚醒した。

 慌てて体を起こすと、干し柿を千切るようなねっとりとした感触があって、ひどく生臭い匂いが鼻をいた。

「……うっ、おえっ、うおええええっ」

 咥えていた死肉を吐き出して、彼女は即座に嘔吐えずく。

 周囲は森の中とは思えない程、西日が差し込んで全体が朱に色付いていた。

 そんな赤い景色の中で、しばらく瀲は吐瀉し続けた。

 脂汗やら涙やらを垂れ流しながら、何が何だかも分からず彼女は睨むようにそれを見る。

 赤黒かったり、紫だったり、ブヨブヨとふやけたところがある死者が地面に転がっていた。首には頑丈そうな紐が巻き付けられている。

 所々に白い米粒のようなものが見えた。

 それは、餌を食べて丸々と太った蛆だった。

 また吐き気が込み上げて来る。

 前後不覚となってその場にへたり込んだ瀲は、息も絶え絶えだった。

 遭難し、首吊り死体だらけの森を歩いていた時よりも、今の方が遥かに狼狽えていた。

 四つん這いになり、何とか息を整える。

 その時、彼女は大きな足を見た。

 木を二三本束ねるより太い足で、形は人のようだったが、とても人のものとは思えない大きさだった。

 頭を上げると、粗末な毛皮の服に、藁で作られた脛巾はばきと手甲という奇妙な風体が目に入る。頭は、木の上の方で茂る葉を突き破って隠れていた。

 その巨人は長い腕を伸ばして、紐を摘まみ上げた。

 すると、それまで微動だにしなかった死体が手足を振り回し暴れ始める。巨人はそんなことはお構いなしに、ひょいと高枝に紐を括った。

 足場になりそうなものが何処にもないのに、なぜ死体はどれもこれも宙吊りといえる程に高い場所にあったのか。

 どういう状況かさっぱり分からない中で、唯一解けた謎だった。

 明らかに腐りかけの死人は、宙吊りになっても暴れていた。

 やがて、皮を無理やり引きちぎるような、ブツブツという音を出し始める。

 皮膚や臓物の欠片が辺りに飛び散った。

 何度かそれを繰り返した後、未だに動けないでいる瀲の顔に目掛けて、死体の体液が飛んできた。


 ***


 目が覚めた瀲は、しばらくは起き上がる気力もなかった。

 髪は乱れに乱れ、寝巻ははだけ、心身ともに酷い疲労状態だった。

 その日は、福引きで当てた券で行く旅行の当日だった。

 部屋の片隅には、昨日の夜に準備した荷物が置かれている。

 彼女は、キャンセルの連絡を入れることにした。

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