2-3
馬車は瞬く間に距離を狭めてくる。
「おい! ふざけんな止まれ!」
ジャックが振り向きざま怒鳴ると、馬車はさらにスピードを増した。それが答えだ。明確な害意、疑いようのない殺意。
小石を踏んだのか、馬車の車輪ががっと鈍い音を立てて車体が少し浮いた。鞭を振るう御者のかぶった帽子がはずみで飛ぶ。
旭ははっとした。燃えるような赤毛だ。――どこかで、見たような。
御者と目が合って喉がひゅっと音を立てた。冷ややかな眼光に射貫かれて心臓がはねる。
「……っ」
馬車に追いつかれる寸前、木のドアを蹴破ったジャックは旭を荷物のように放り投げると自身も敷石を蹴った。中は開店前の酒場の厨房だ。ふたりはそのままジャガイモのカゴの列に突っ込んだ。
馬車が走り去っていく音を聞きながら、カゴとジャガイモに埋もれた旭はうめいた。
「…ぅ…ぅぅ…」
ひっくり返ったかごをかぶった旭をジャックが乱暴に引き起こす。
「おい、大丈夫かアーサ」
「…い…て…て…」
せっかくおさまった打ち身の痛みがぶり返し、旭は涙目だ。
ようやく立ち上がった旭は、鼻をすすりながらカゴを戻すと、よろよろしながら散らばったじゃがいもを拾いはじめた。
ジャックはひとつ瞬きをした。
「……アーサ。お前、律儀だな」
「だって…悪いじゃん……」
ふたりでジャガイモをもとに戻したところへ、酒場の女将が現れた。
「ジャック? なにやってんだいあんた」
目を丸くする女将はどうやらジャックと顔馴染みらしい。
事情を話してドアを蹴破ったことをジャックが詫びると、女将は怒りもせずにふたりの無事を喜んでくれた。
「轢かれたら死んじまうことも多いからね……。怪我がなくて本当によかったよ」
いやに実感のこもった女将の言葉にジャックが瞼を震わせたのを、旭は見た。彼の両親のうちどちらかが事故で、と聞いたのを思い出す。もしかすると馬車の事故だったのかもしれない。
酒場を出たふたりは急いでオールド・タウンを抜けた。人通りがそこそこある広い通りに出てようやく速度をゆるめる。
ガードレールはないけれども、車道と歩道が分かれた通りだ。
蹄の音、がらがらという車輪の響き、雑踏とまではいかないが絶えず行き交う人々の声。
それらが聞こえることに、旭は無性にほっとした。
さっきの御者の目が頭から離れない。思い出すと身震いしそうになる。でも、こんなに交通量が多くて人目のあるところなら、そう簡単に襲ってくることはできないはずだ。ジャックには鼻で笑われそうだが、旭の感覚ではそうなのだ。そうであってほしいと、なかば祈るような気持ちだ。
ふたりはリース・ストリートに入った。ここまでくればドイル家まであと少しだという。
背中と腰の痛みで顔をしかめながら歩く旭に、ジャックが険しい目を向けた。
「アーサ、あの赤毛に見覚えはあるか」
周りに聞かれないように、ジャックは声をひそめている。
馬車を操っていた御者のことだと察せられ、旭は強張った面持ちで頷いた。
「階段のところに、いたやつだと、思う」
目が覚めたとき環状に並んでいたいくつかの顔を全部を覚えているわけではないが、あの赤毛の男は強く印象に残っている。
険しい顔で旭を――アーサーを凝視していた男。階段から落ちた際に何か迷惑をかけたのだと思い込んでいたのだが、どうもそうではない気がしてきた。
「知り合いじゃないんだな?」
「俺の、だったら、知り合いなんてここにはいないって。あと確信はないけど、アーサーの知り合いにしても、ちょっと……」
果たして知り合いをあんな目で見るだろうか。
そう口にすると、ジャックも納得だという顔になった。
「ま、お前とあいつじゃどう考えても
「クラス?」
ジャックが窓ガラスを一瞥する。
コートにネクタイ、ズボン。この時代のことはよくわからないが、そこそこの家庭の学生らしい服装、なのだろう。きっと。
並んで映るジャックのいでたちとはだいぶ雰囲気が違う。かっちり気味なアーサーの服装に対して、ジャックのそれはかなりラフな印象だ。赤毛の男はマントをまとっていたが、階段の下で見た印象ではたぶんジャックに近い。
「あの赤毛、たぶん地下のやつだ」
「ちか?」
「地下に、ごろつきだのすりだの人買いだの、たちの悪いのが集まってる区域があるんだ。たまに人殺しが逃げ込んだりもするな」
「へえぇぇぇ…」
冷や汗が出てきた。
「あいつ、間違いなくお前を
「えええええ……」
そうだろうなと思っていても、断言されると結構な衝撃だ。かなりこたえる。
心臓がどきどきして気分が悪くなった旭に、ジャックは思慮深い目を向けた。
「ドイルに心当たり…あっても確かめようがないな」
旭がいる限り、アーサーは目を覚まさない。
「お前を抜けばドイルに訊けるけど、そうしたらお前が消えそうだしなぁ」
ため息まじりの言葉を聞き流しかけて、旭はついと眉をひそめた。
「……はい?」
思わずジャックの肩を掴む。
「抜く? どういう意味で?」
「あ? だから、お前をその体から抜けばドイルが目を覚ますって話だ」
旭は目を見開いたままジャックに迫る。
「そんな、ことが?」
できるというならなぜもっとはやくに。
と、言いかけた旭をさえぎるようにジャックはこうつづけた。
「俺ができるのは抜くだけだ。戻れないからお前はそのまま消えるけど、それでいいなら」
「うん、遠慮するわ」
身を引いた旭は、胡乱な顔で尋ねた。
「……てか、なに? お前、そういうこと、できるひとだったの?」
ジャックは目をすがめた。
「霊媒師やってんだ、当たり前だろ」
そういえば、霊媒師と呼ばれることもあるとアイリーンが言っていた。
霊媒師。詳しいことは知らないが、旭の時代で霊能者とかスピリチュアル何とかとか呼ばれているあんな感じのひとたちと、たぶん同じような職業。……あれは職業なのか?
とりあえず、そう思っていてもきっと間違いはないはず。
「霊媒師って、お前もそうなのか?」
「まぁな。お前のほんとの顔も見えてるぜ。黒髪と黒目なのな」
意表をつかれた旭は一瞬反応できなかった。
「…、合ってる……」
「いつもはばあちゃんの手伝い。ばあちゃんの都合が悪いときとか交霊会が重なったときは、厄介じゃないほうに俺が行く」
コウレイカイとは。
霊媒師が具体的にどんなことをするのか訊こうかと思ったが、なんとなく知らないほうがいい気がしてきて、旭は話題を変えた。
「さっきの赤毛男はなんで
「さぁな。でも、あれは諦めてない。きっとまた来るぞ」
「ええ……」
あの明確な殺意。ただのいち医学生に過ぎないはずのアーサーが、殺されかかるような何をしでかしたのだろう。
こんなときシャーロック・ホームズだったら、なんか色々やって魔法みたいに謎を解くんだろうが、ただの大学生である旭にはとてもできない。
旭はううんと唸った。こんなことなら読んでおけばよかった。読んだから謎が解けるなんてことはないだろうが、気休めくらいにはなったかもしれないではないか。
そのとき、ふたりの間に漂う深刻な空気を割くような明るい声がした。
「やぁドイル、いいところに!」
ジャックが首をめぐらせる。
呼びかけられたのはドイル。―――ドイル?
「……あっ俺か!」
旭も慌てて振り向いた。
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