2-4
笑顔で駆け寄ってきたのはアーサーと同世代らしき青年だった。
「会えてよかった。きみの家にこれを届けに訪ねていくところだったんだ」
手に持っていた帽子と鞄を軽く掲げてみせる。黒い帽子は皇族や貴族が正装するときにかぶるのと同じ形。いわゆる
「とあるご婦人がオールド・タウンで拾ったそうだ。エディンバラ大学に通う学生のものだろうと、うちの寮にわざわざ届けてくれた」
なお、寮に届けたのはご婦人本人ではなく、ご婦人に仕える執事であった。
執事を抱えるようなご婦人がなんのためにオールド・タウンに訪れたのかは、あえて深く追究しなかったということだ。
「ドイル、最初に詫びておくよ。この鞄の持ち主の手掛かりを探して、手帳を見てしまった」
コートの内ポケットにあった手帳と同じように、おそらく最後のページに持ち主の名前が書かれていたのだろう。
「勝手な真似をしたこと、許してほしい」
少し申し訳なさそうな目でそう言うと、青年はふいに破顔した。
「でも、嬉しかったよドイル。書く気になったんだな」
「はい?」
「僕が前に言ったこと、覚えてるだろう? きみの手紙は生き生きと鮮やかだから、きっと売れる文章が書けると思うって」
「―――――」
ひとつ目をしばたたかせて、旭は考えた。
手帳。この鞄にくくりつけられている手帳を見たという青年。
アーサーのコートのポケットに入っていた手帳は十ページほど使われていたが、実はあれは二冊目だったと仮定する。一冊目はハンドルにバンドで括りつけられているそれで、そっちにもたくさんの書き込みがあり、この青年はおそらくそれを見た。そして、いまの彼の発言から察するに、アーサーに文章を書くよう勧めたのはこの青年。
つまり――あの名探偵が生まれるための最初のきっかけを作った人物。
「それはそうと、きみ、鞄と帽子を落としてどこに行っていたんだい?」
旭はとっさに目を泳がせた。
「ええと……実は、階段から落ちて…ちょっと、前後不覚に……で、このひとに、助けてもらって…これから家に……」
ちらりとジャックを一瞥する。嘘はひとつも言っていないのに、なぜかドキドキする。
青年は驚いた顔をした。
「それで…鞄も帽子も持たずに……。そういうことか、なるほど」
しきりに頷く青年にジャックが手を差し出す。
「鞄と帽子を」
青年が確認するように旭を見つめる。旭は頷いた。
「心配してくれて、家まで送ってもらう途中で…っ…」
ここで旭は軽く顔をしかめた。訝った青年が首を傾ける。
「ドイル? どうした?」
「あ、ちょっと、落ちたとき背中を打って。……ええと…」
言いよどむと、青年ははっと目を瞠り、失望したように眉を曇らせた。
「ええ? ドイル、まさか僕の名前が出てこないなんて言うんじゃないだろうな? 階段から落ちた拍子に頭を打って、物忘れとか?」
そのまさかである。正しくは忘れた、ではなく、知らない、なのだが。
あいまいに笑って見せると、青年はわざとらしいため息をついた。
「モリアーティ。ヴィクター・ジェームス・モリアーティだ。この女王陛下と同じ誉れ高き名を、二度と忘れないでくれよ」
モリアーティは据わった目で旭を睨めつける。だが本気で怒っているわけではないと、その口が微妙に笑いの形になっていることから読み取れた。
旭は神妙に応じた。
「わかったよ、モリアーティ。ヴィクター・ジェームス・モリアーティ。ちゃんと覚えた。絶対に忘れない、大丈夫」
何しろ、アーサー・コナン・ドイルがものを書くきっかけを作った、シャーロック・ホームズにとって非常に重要な人物の名前だ。きっと忘れたくても忘れられない。
「ありがとう、モリアーティ」
様々な意味で万感の思いがこもった礼に、モリアーティは微笑んだ。
「ああ。ではまた明日」
帽子を取って軽く掲げ、軽やかに去っていくモリアーティに、旭はぶんぶん手を振り、肩と背中と腰の痛みでひとしきりうめいた。
モリアーティの姿が見えなくなってからジャックが口を開いた。
「おい。何か盗まれたりしてないか確かめたほうがいいぞ」
「あのモリアーティが!?」
旭は信じられない思いでジャックを見た。あんな好印象の、どうやらアーサーの友人らしい青年にそんな嫌疑をかけるとは。
帽子と鞄を旭に渡しながら、ジャックは嘆息まじりに首を振る。
「違う」
「じゃあまさか親切なご婦人が!?」
「それも違う。その婦人に拾われる前に誰かが抜いてるかもしれないだろ」
「あ、なるほど」
その可能性はあるかもしれない。
「でも俺じゃわからないよ」
「財布ぐらいならわかるだろ。まぁ、大学に持っていってんなら中は教科書とかノートくらいだろうが」
「そっか。じゃあ、一応……」
旭は、中身が詰まっていて結構重たい鞄を開いた。
両手をあけるために頭にのせた帽子がちょっと気になる。こういうかしこまった形の帽子をかぶるのは初めてだ。普段の旭がかぶるのはせいぜい野球帽かニット帽。シルクハットなんて、一生のうちでかぶる機会が果たしてあるかどうか。
モリアーティも同じ形の帽子をかぶっていた。街ゆく人々の中で身なりのいいコート姿の紳士たちもみんなシルクハットだった。
思い返すと、裕福そうな紳士たちも、肉体労働系の仕事についていると思しき男たちも、形は違うがみんな帽子をかぶっていた。あの赤毛の御者もそうだった。
目の前にいるジャックも、そういえばハンチング帽をかぶっている。
もしかするとこの時代、帽子は必須アイテムなのだろうか。だとしたら、ずっと帽子をかぶらずに歩いていた旭、ではなく、アーサーの体面は。
「………」
旭は考えるのをやめた。いまさらどうしようもないことだ。胸の中で、ごめんアーサー、と詫びるにとどめる。
「えーと…」
鞄の中身は、予想通り教科書と筆記用具。分厚い辞書もあった。財布とハンカチ。それから古びた小説が数冊。重いわけだ。
陽が落ちてきて薄暗くなってきた。見えにくい。
まだかろうじて射しているかすかな夕陽で照らせるように鞄を傾けた旭は、その瞬間目を射るような青いきらめきを見た。
「なんだ?」
教科書の陰を探ると、指先に冷たく硬いものが触れた。ウズラの卵くらいの大きさのそれを抜き出す。
ジャックが息を呑む気配が伝わってきた。旭も同じだ。驚きすぎて瞬きもできない。
「…………」
見たことがないほど大きな、太いアーモンド型の真っ青な宝石だった。
全体に精緻なカッティングが施されており、夕陽を反射して、きらきらきらきらきらきらきらきらきら……。
見ているうちに喉がからからに乾いた。
「ス…スワロ…かな……?」
ようやく呟く旭の額に冷や汗がにじむ。思い起こしたのは、姉が彼氏からもらったというきらっきらのネックレスだ。うわっめっちゃきらっきら、と思ったが、あれよりもっときらきらしている。それになんというか、きらきらの品がよくて細やかな感じがする。
大きな宝石。アーサーのものだろうか。いやしかし、一介の医学生にこんなものが買えるとは思えない。それに、仮にドイル家がとんでもない大富豪だとしても、この大きな宝石をはだかで持ち歩くのはどう考えても変だ。
茫然とする旭の耳に、ジャックの呟きが飛び込んできた。
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