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 なぜならば、旭には小説なんてとても書けないからだ。国語は常に平均点よりちょい上程度。作文は大の苦手だった。読書感想文なんて、考えたくもない。

 しかしそれが普通なんではなかろうか。そして普通のひとは小説なんて書けないし、書く気も起きないものでは。

 旭に言わせれば、本になるくらいの長文を書ける時点で相当人間離れしているのだ。頭の中に別の世界があって何人も何十人も何百人もいてそれぞれが勝手に動き回っているなんて状態、想像もつかない。

 あれは、良くも悪くも選ばれた者だけができることに違いない。そして、どう考えても旭は選ばれていない人間で、選ばれたいとは思わない。ていうか、無理。無理すぎる。絶対無理。

 ひとには向き不向きというものがある。超常現象もそういうことをちょっと配慮してほしい。

 閑話休題。

 もし良い方法が見つからなくて旭がこの体から出ていけなかったら、アーサーの未来だけでなく、世界中のファンの人生も変わってしまう。

 だってそうだろう。シャーロック・ホームズに出会わない人生になるのだから。

 シャーロック・ホームズが存在しない世界。

 それは、小説が存在しないというだけでは、きっとない。

 あまたの何かが、たくさんの事柄が、多くの人々の嗜好や思想、その生き方に至るまで。

 あらゆるものが、まったく別の形に成ってしまうのではないだろうか。

 あれだけ有名な作品なのだ。世界に及ぼした影響は、旭の精一杯の想像を軽く超えているに違いない。

 そのおおもとが、そもそも存在しない未来。いったい何が起こって何が起こらないのだろう。

 世界規模は範囲が広すぎるので身近なところで考えてみる。たとえば、まず親の本棚からあの古びた文庫が消える。あれは母親が祖父から譲り受けたものだ。祖父は確か昔イギリスで製作されたというドラマのディスクセットを持っている。あれも消える。ということはそれを作った人たちにも当然影響が。

 それに、あの本を読んだりディスクを視聴したりすることに使われていた時間は別の何かに割り振られて、そこで生まれていた感動なども別の――細かいことを考えると頭がパンクしそうなるのでここでやめておく。

「…………」

 一度も読んだことのないあの文庫。あまりにも有名で、有名すぎるので、なんか別にいいかな、とかえって手に取らずにいた。

 あれがなくなるのは、なんだかものすごく、巨大な喪失感に襲われそうな予感があった。

 いやしかし、最初からそもそも存在しないなら喪失感もへったくれもないのか。いやならばいまあの物語が――と、考え出すと収拾がつかなくなるのでやめ。

 とにかく、道井旭は、本来であれば存在していたはずのあらゆるものが失われるきっかけになるのだ。なってしまうのだ。

 旭はどこかを見はるかす目になった。

「……………て…それって、レキシというホウテイに立たされちゃうやつでは…?」

 呟いて、自分の言葉にぞっとした。ぞっとした、では弱い。戦慄した、という小難しい表現がぴったりな気分だ。

 歴史という法廷。子どもの頃にニュースか何かで耳にして、なんだかかっこよくて覚えていた言葉である。

 確か、有名な化学者の発言だ。詳しいことはよくわからないが、『歴史という法廷に立つ覚悟はできているのか』と語気を荒らげる怖い顔がニュース映像で流れていたことを鮮やかに記憶している。

 当事者になってよくわかった。あれは、なんだかかっこいい、どころの話ではなかった。

 最初からなかったことになるんだから別にいいじゃん俺のせいじゃないし俺関係ないし。

 と、思える性格ならよかったのに…!

「うおぉぉぉ…こわすぎる……」 

 うなだれて頭を抱えると、コートの裂けた袖口が目に入って、さらに憂鬱な気持ちになった。

 家族で住んでいるなら母親がいるだろう。母親というのは、こういうものを目ざとく見つける。そしてこうなった原因を、母親が納得できるまでどこまでも追究してくるのだ。そういうときの母親の鬱陶しさときたら相当なもので―――。

「…………」

 ――もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。

 なんてことにうっかり気がついて、旭は頭をぶるぶる振った。なんとかして帰る。きっとどうにかなる。映画や小説や漫画ではなんか色々あるけど大抵都合よくもとに戻れるものなのだ。だからきっと大丈夫。

 気を取り直して周りを見た旭は瞬きをした。

「あ……この辺……」

 旭が、というか、アーサーが転げ落ちた階段の近くだ。

 確かめるように目をやれば、足を止めてこちらを振り返っていたジャックが黙って頷き、あれだというように指をさす。その先に、ひとがふたりすれ違えるかどうかという幅の階段があった。

 さっきは焦っていたので気づかなかったが、あんなに狭い階段だったのか。

「この辺は狭い路が多いんだ」

 ジャックの言葉にも納得だ。

 石の建物が密集していて、段差があって、隙間を縫うように狭い路と階段があるのだ。

 転落現場はオールド・タウンの大きな通りの近くだ。時間と場所から、大学を出て自宅に帰る途中だったのだろうと思われた。

 アーサーが階段から落ちなければ、旭が入る体はアーサーではなかったかもしれない。

「なんで落ちた…よりによって、アーサー…! コナン・ドイルなあんたがどうして…っ」

 アーサー・C・ドイル本人が聞いたら、そんなことを言われても、と困惑しそうなセリフを真顔でこぼす旭である。

 すると、いつの間にかそばにいたジャックが半眼で言った。

「あのなアーサ。一応言っておくが、お前の言葉、ドイル本人に全部聞こえてるからな」

「えっ」

 旭は目を剥く。

「半分寝てるようなもんだから意味はわかってないかもしれないが、聞こえてるのは間違いない」

 たとえるなら、夢を見ているように。旭の思いはアーサーに伝わっている。声も聞こえている。旭がどこに行って何をしたかもわかっている。

 だが、いつか目覚めることができたとして、その記憶を持ったまま目覚めるかはわからない。夢と同じで覚醒と同時に忘れる可能性が高い。

 しかし、それでも、記憶の断片はどこかに残るかもしれない。思い出せなくても、忘れることはないかもしれない。

 ジャックの言葉に旭は変に感心した。

「そうなのかぁ…」

 本当に、この体の奥底にアーサー・C・ドイルがいるのだ。旭が生まれたときにはもうとっくに鬼籍に入っていた超有名な作家。その若い時分の。

 絶対に交差するはずのなかった相手と不思議なかかわりができている。間違いなく奇跡が起きていて、旭はいま奇跡の中にいるのだ。

 半分眠っているというが、どういう場所でどんなふうになのか、ちょっと気になる旭だ。

 蹄と車輪の立てる音が近づいてきたのはそのときだった。

 首をめぐらせたジャックは軽く目を瞠って、やにわに身をひるがえした。

「走れ!」

「え?」

 周りを見た旭は、猛スピードで迫ってくる馬車を認めた。

 黒いマントをまとって黒い帽子を目深まぶかにかぶった御者が、二頭立ての馬車を操っている。

 ふたりがいる道は狭い。馬車の車幅は道幅ぎりぎりだ。

 このままだと旭もジャックも馬車に――――。

 気づくより先に、ジャックが旭の腕を掴んで駆け出した。

 ここは石の建造物が隙間なく並ぶ路だ。逃げ場がない。

 覚悟する旭をジャックはすごい力で引っ張る。彼の視線の先を見れば三十メートルほど戻ったところに木のドアがあった。

 あそこに飛び込めれば。





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