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 空の色が赤っぽくなってきた。

「あっちが西か…」

 傾く太陽は左側にある。日中は涼しい程度だったが、だんだん寒いと感じるようになってきた。コートを着ていてちょうどいい。

 旭はのろのろと空を見上げた。徐々に色が変わりつつあるこれが十九世紀の空だと、いまも信じられない。そして、いま立っているここが、スコットランドの首都エディンバラであることも。

 そう。ここはイギリスのスコットランド、エディンバラ。初の海外である。ただし、旭が生きている時代より百ウン十年前の。ちなみに四月の終わり頃。

 船にも乗らず飛行機にも乗らず列車にも乗らずバスにも乗らず、知らないうちに来てしまったエディンバラ。来てしまったというか、いきなりここにいたというか。とにかく、いまいるこの地はエディンバラ。繰り返すが、旭の生きていた時代より百ウン十年前の。

 風の匂いに街並み、人々の顔立ちや色味が見慣れているものとまったく違うから、確かに別の国なのだけれども。

 実感がまるで湧いてこない。移動の行程をしっかり味わわないと異国の地に降り立った感動は生まれないのだと、旭は初めて知った。

「あれがエディンバラ城。ドイルが通ってるエディンバラ大学は向こうだな。あの高いのがスコット記念塔、アーサーの玉座アーサーズ・シートが…」

 指をさしながら説明してくれるジャックは、ちょっと目つきが怖くて口が悪いだけで根は親切で優しい、かもしれない。

 しかしいまの旭には呑気にエディンバラ観光を楽しめる心の余裕がなかった。

「へぇー……」

 気遣ってくれているのに悪いなと思ってはいるのだが、力のない相槌を打つだけで精いっぱいだ。

 手帳の住所を書き写したメモを片手にすたすた歩いていくジャックのあとを、旭は気の進まない足取りでついていく。

 気が進まないから足取りは重く、ジャックとの距離がどんどん開いていくのだった。

 アーサー・C・ドイルは医学生。持ち主のデータとしてエディンバラ大学医学部と手帳に記すくらいだからきっとそう。

 学生は大概寮に入っているか、実家で家族とともに住んでいるものらしい。そう教えてくれたのはアイリーンだ。

 手帳に書かれていたピカーディ・プレイスは大学から少し離れた場所で、寮があるようなところではないそうだ。ということは、家族と同居か。

 同居家族がいる家にアーサーとして帰る。そしてアーサーとして振舞い、アーサーとして生活し、朝になったらアーサーとして大学に通い、アーサーとして医学部の講義を受け………。

「……無理だ……無理が過ぎる……」

 頭を抱えて立ち止まる。ちなみに立ち止まるのは十三回目だ。

 うめきが聞こえたのか、ジャックが振り返った。

「アーサ、いい加減腹ぁくくれ」

「無理だよぉぉぉ。俺はアーサー・コナン・ドイルじゃなくて道井旭なんだ、絶対どっかでミスする、バレる」

 道端でしゃがみこむと、ジャックは大きく嘆息してから引き返してきた。ちなみにしゃがみこんだのはこれが最初だ。

「中身はともかく見てくれはドイルだ、問題ない。とにかく立て」

 襟を掴まれて立たされ、そのまま引きずられそうになる。

「歩く、自分で歩くっ」

 慌てて訴えるとあっさり解放された。往来には通行人が多い。駄々っ子がされるように襟を掴まれて歩かされるのはさすがに恥ずかしい。

 世話の焼けるやつ、とジャックの目が語っている。

 痛み止めのハーブティーと湿布薬は劇的なほどの効力を発揮して、背面の痛みはほぼ治まった。ハーブティーと湿布薬で治まるような痛みではなかったのに、だ。

 アイリーンは魔女じゃないと言っていたが、どう考えても魔力を使える魔女そのものである。

 旭は胸のあたりを押さえた。シャツの下の硬いものが掌に当たる。

 青い石が三つついたアイリーンの指輪だ。

 出てくるとき、老女はおもむろに人差し指の指輪をはずし、くすんだ金のチェーンを通して旭の首にかけた。護符代わりに持っていろと告げる老女の目はいやに真剣で、旭はおとなしく従った。あれは逆らっちゃならないやつだった。

 そして、それを見ていたジャックが意味ありげな様子でしきりに頷いていたのが地味に怖い旭だ。

 歩きながらジャックが教えてくれたのだが、指輪にはめ込まれた青い石はラピスラズリというそうだ。古代エジプトの占術師だった先祖から代々伝わっているもので、アイリーンが継承した際に指輪に加工したのだという。

 先祖が古代エジプトの占術師。よくわからないけどなんかすごそう、効き目ありそう。

 前の旭だったら、うわぁ胡散臭いと白い目で見たところだ。が、別の時代の別人の体の中に、魂か心か意識か、とにかく道井旭という人格がまるっと入り込んでしまっている現状である。

 これからの人生、どんな荒唐無稽な不思議な話でも疑わず真剣に受け止めようという心持ちになっていた。

 ジャックはアイリーンの曾孫で、なんと十五歳だという。歳を聞いたときは耳を疑った。十八の旭と同じくらいだと思っていたのに、十五。旭より三つも年下。しかしとてもそうは見えないくらい大人びて、少しれた雰囲気を漂わせている。いったいどんな人生を歩んできたのか、怖くてとても訊けない。

 前を行くジャックの後ろ姿を見つめる。旭より少し背が高くて細身のジャックには、隙がまったくない。彼は常に注意深く周りを窺っている。旭がちょっと足を止めるとすぐ振り返るのも、こちらに絶えず気を配っているからだ。

 彼は、疫病と事故で両親を早くに亡くし、曾祖母のアイリーンとふたりであの建物の三、四階に下宿しているのだそうだ。

 彼らの住まいがあるあの地域一帯は、身のすくむような、肌がひりつくような、独特の空気に満ちていた。平和な日本で生きている旭がそれを感じたくらいだ。相当治安の悪い地域なのだろうと察せられた。

 ドイル家までジャックが道案内をしてくれるのも、旭には土地勘がまったくないというだけでなく、一人歩きは危険だからだと思われた。

 傷の手当てや湿布の用意などかなり手馴れていたし、ジャックの日常では荒事がごく当たり前なのかもしれない。

 迎えに行かなかったらごろつきか強盗かすりの餌食、今頃海に浮かんでいてもおかしくないと言われたのを思い出して、いまさらぞっとした。あれは脅しではなく、そうなる可能性が確かにあったということだ。

 旭は間違いなくアイリーンとジャックに助けられた。そしていまも助けてもらっている。

 だが、いつまでもこのままではいられない。いていいわけがない。なんとかしてもとの時代の自分の体に戻らなければ。

 でないと、アーサー・C・ドイルの人生が変わって、あの超有名な名探偵が誕生しない恐ろしい未来に向かうことになる。

「…………」

 背中がひやっとした。

 超がつくほど有名な名探偵。その名はシャーロック・ホームズ。

 原作小説を読んだことのない旭でも知っている名探偵。名探偵だということしか知らないが、よく知らないのに名前は知っているのだ。それがいかにすごいことか。すごさの度合いがわかろうというものだ。

 世界中に熱狂的なファンがいる。熱狂とまではいかないファンはさらにたくさんいる。旭のように、名前を聞けば「ああ、あの」と反応できるレベルのひとまで数えたら、とんでもないことになるだろう。

 この時代にアーサー・コナン・ドイルという作家はまだ存在していない。シャーロック・ホームズという名探偵が活躍する小説は世界のどこにもない。

 それはアイリーンとジャックに訊いて確かめた。ここがどこでいまが西暦何年なのか、その際に教えてもらった。

 いまのところコナン・ドイルという作家はまだ世に出ていないそうだ。ということは、これからだ。いつかはわからないが、いま医学生のアーサーはやがて小説を書いて作家になる。そしてあの名探偵が誕生する。国境も時代も超えて、世界中の人々に愛される名探偵が。

 だがもしアーサーが作家にならなかったら。あの小説を書かなかったら。シャーロック・ホームズはこの世界に生まれないことになる。

 旭がこのままもとに戻れなかったら確実にそうなる。





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