1-3
そうしてジャックは苛ついたように頭をがりがり掻いた。
「めんどくせぇな。お前、名前は? あとそいつの名前」
そいつ、つまりこの体の本来の持ち主のことか。
「知るわけねぇだろ」
偉そうな物言いにつられてつい語気が荒くなる。
普段はこんな物言いはしない。旭はどちらかというと穏やかな、嫌なことをされてもできる限り事を荒立てないで、なんとなくなあなあなにして流してしまう人間だ。トラブルになるくらいなら我慢したほうがいい。それで、嫌なことからそうっと離れるのだ。
しかし、いまはそれができない。怖くて不安で仕方がないから、それを怒りにすり替えて八つ当たりをしているのだと、自覚しても止まらない。
そうしていないと自分を保てないくらい、旭はとてつもないショックを受けているのだった。
「自分の名前くらい言えるだろ」
「…っ」
反射的に怒鳴りそうになって、旭は一度深呼吸をした。この不愛想で乱暴な物言いには腹が立つが、名乗らなければずっと『お前』とか『こいつ』呼ばわりだ。そのほうがむかつく。
「…俺は、道井旭。…ええと、アサヒ・ドイ、だ」
名前を先にしたほうがわかりやすいかと思って言い直す。
「……アサ……ヒドイ…、アーサでいいか」
「なんでそこで切るんだよ、アーサとか言われたことねぇわ」
子どもの頃から愛称は大概あっくんかあさくんで、アーサは自分史上初の呼ばれ方だ。
「呼びやすくていいじゃねぇかアーサ」
「やめろ、あさひだ、あさひ」
噛みつきながら、この体の持ち主がどこの誰かわかるようなものがないか、シャツやズボンを探る。
脱いだコートをあちこち確かめて、旭は思わず声を上げた。
「うわ、なんだこれ…」
右の袖が切れていた。肘のあたりから袖口までまっすぐ裂けているのだ。
「落ちたときにひっかけたか? これ、どうしよう…」
リフォームとかリペアの店は近くにあるだろうか。料金はどのくらいかかるんだろう。しかし根本的な問題として、頼むにしても払える金があるのだろうか。
申し訳ない気分でコートを探ると、胸の内ポケットに何か入っていた。
財布か、と期待したが、違った。
「手帳?」
出てきたのは手のひらサイズの手帳と銀色の筆記用具だった。筆記用具はいわゆるシャーペンぽいが、旭が使い慣れたものとは構造がちょっと違っているように見える。
手帳を開くと、たくさんのローマ字が視界に飛び込んできた。
英語だ、と思った次の瞬間、言葉の意味が頭の中にわっとあふれた。まるで漢字やひらがな、カタカナで書かれたものを読むように、あまり得意でないはずの英語がすらすら読める。
「!?」
不揃いに書きつけられている英単語。しかも筆記体だ。書き手のくせもある。到底読めそうもないのに。
旭は目をしばたたいた。
そういえば、日本人ではないはずのひとたちの言葉も、ジャックや老女の言葉も、旭にはずっと日本語に聞こえていた。いや、日本語だと信じて疑っていなかった。
だが、もしかして。
本当は日本語ではなく英語なのに、旭はそれを日本語を聞くようにごく自然に聞き取って意味を理解できていた、ということなのか。
旭はこれまでとは違う方向に、静かに動揺した。
なんでそんな都合の良すぎることが起きているんだ。いくらなんでも世界が俺に優しすぎる。もしかしてあれか、魔力とか魔法とか魔術。
そういった超自然の力が働いているとしか思えない。
そう考えて、旭ははっとした。恐れおののきながらベールをかぶった老女を見やる。
「……魔女…?」
きっとこれは罠だ。ジャックや老女が、ただ親切なだけの人々だと思えるほど旭は子どもではない。世の中そううまくいくわけがないのである。禍福は
この見返り、はたして何でどうやって払うことになるのか。めちゃくちゃ怖い、怖すぎる。
老女は肩をすくめた。
「残念ながら魔女じゃないねぇ」
彼女は優雅な手つきでめくったカードを目の高さに掲げた。使い込まれて擦り切れたカードには、中央に大きな輪が描かれていた。
「あたしは占術師アイリーン。霊媒師と呼ばれることもあるね。この界隈じゃ、少しは名が知られてる」
静かに笑う老女の目がきらりと光ったように見えた。
「このカードが示したのさ。幸運をもたらす者が訪れる、とね。ま、どんな幸運なのかはまだわからないけど。はてさて、あんたはあたしたちに何をくれるんだろうねぇ?」
旭はごくっとつばを飲み込んだ。
「……」
ヘビに睨まれたカエルはこんな気持ちなんじゃないだろうか。
手帳を開いたまま固まっている旭の背中をジャックが軽く叩く。
「っだだ…」
痛みで飛び上がりそうになった鼻先を湿布の匂いがくすぐった。
「あれ…」
旭は瞬きをした。さっきより痛くないような。
「結構、楽……?」
あちこち動かしてみる。思った以上に痛みがおさまってきていた。
「だろ。ばあちゃんの湿布はよく効くんだ」
ジャックは自慢げに目じりを下げる。そうすると険しい雰囲気がちょっと和らぐ。
「たしかに…」
とすると、もう一度飲めと言われたら躊躇するまずさだったあのハーブティーも、それなりに効いているのかもしれない。ていうか、それがいわゆる魔力とか魔法とか魔術なんでは。
旭は気を取り直して手帳をぱらぱらめくった。
さまざまな単語が乱雑に書き込まれている。罫線のない無地だからか、文字の大きさはばらばらだ。斜めの、とっさの走り書きと思しき部分もある。詩のような短い文章に、何かの予定らしき日付、場所と考えられる単語。
意味のわからない言葉の羅列、数字、簡単な図形、何かのスケッチ。十ページほどがそういうもので埋まっていて、残りはまだ白紙だ。
なんなんだろうと首をひねりかけて、ふとひらめいた。旭は軽く目を見開く。
「…これって」
意味がわからないと思った言葉の数々を改めて眺める。
「アイディアノート…的な…?」
旭はレポートを書く前に、題材や頭に浮かんだ適当な単語、書きたいことなどを、まずノートに書き出して整理する。考えがまとまるまでひたすら言葉を羅列する作業。あれに似ている気がする。
それにしても。
「……殺害…? 推理……幽霊……人食い……念力…発砲…どろぼう…………」
書かれている単語がいささか、いや、かなり物騒だ。この男の思考回路はいったい。
変質者とか犯罪者じゃないといいなぁと思いながら、持ち主につながる手がかりを探して最後のページをつまぐると、エディンバラ大学医学部の文字と、住所と名前が記されていた。
「あ……」
ほっと胸を撫で下ろす。良かった。犯罪者じゃなくて医学生っぽい。医学生らしからぬ言葉ばかりであることにはいったん目をつぶる。
猟奇殺人の犯人が天才精神科医だった映画が一瞬頭をよぎったが、あれはフィクションだから。現実にそんなことはない。あまりない。きっとないはず。たぶん。
「えーと、名前は…………………………は…?」
この体の持ち主は――――。
「………………………………………」
ある人物の顔が、脳裏にぽんと浮かんだ。
直接知っているわけではない。旭が生まれるずっと前に亡くなっているから、見たことがあるのは大抵モノクロの写真だ。なんでカラーじゃないのか不思議だったが、撮影されたのが古い時代だったからと知って納得した。その人物が生きていた時代には、まだフルカラー写真はなかったか、あってもそれほど広まっていなかったらしい。
旭が知っているのは、四十代くらいの、ちょっと恰幅のいい感じの紳士。紳士という形容が相応しい男性だ。きれいに撫でつけた髪、やや広めの額、鼻の下に見事な髭。
そんなに何度も見たわけでもじっくり見たわけでもなかったはずなのに、こんなにはっきり思い出せるとは。非常時の人間は驚くような能力を発揮するんだなぁと変なところで感心した。
「……………………………………」
たとえば、あれをもっとずっと若くして。前髪を下ろして、髭がなかったら。
通り沿いの店の窓ガラスの中で。額を押さえて、渡されたハンカチをひらひらさせる、旭とあまり変わらない年齢の男に、なるのでは。
旭はもう一度、手帳の最終ページを凝視した。
Arthur C Doyle。
その名前には覚えがあった。
「アーサー…C……ドイル……」
その名前を持つ人物を、ひとり、知っている。
世界一有名な探偵の生みの親だ。
実はその小説を読んだことはない。
読んだことはないのだが、親の本棚に古びた文庫本が並んでいたから作者の名前は知っていたし、著者の写真も見たことがある。
手のひらサイズの手帳。最後のページにArthur C Doyleと書かれているということは、おそらくこれが持ち主の名前だろう。
さて、問題がいくつかある。
この手帳が、自分が着ていたコートのポケットから出てきたことと。
窓ガラスに映った自分と思われる面差しが、本やらネットやら何やらで見たことのあるアーサー・コナン・ドイルをかなり若くしたような顔だということと。
いま起こっているすべてが、まぎれもなく現実であるということ。
「…………ええええ……」
手帳を開いたまま、アーサー・コナン・ドイルの体に入った旭は、カエルが潰れたような声でうめいた。
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