1-2

 連れて行かれた先は、なんとなくがらの悪い感じの寂れた通り沿いにある、石造りの建物だった。この辺りの建物はほぼ全部、同じ灰色の石で造られているようだ。

 玄関を入ってすぐに、奥につづく廊下と階段。男は廊下には目もくれずさっさと階段をのぼっていく。

 旭は玄関を入ったところで立ち止まった。いまさら警戒心が湧いてきたのだ。我ながら遅い、遅すぎる、と胸の中でつっこむ。

 ついてこいと言われるままついてきてしまったが、はたしてここはどこなのか。

 あの男は何者で、なんのために連れてこられたのか。

 棒立ちの旭は、ふと瞬きをしてぽんと手を叩いた。

「そっか、これは夢だ」

 夢なら納得。だからみんな日本語でしゃべるんだななるほど。

 が。

「夢じゃねぇよ」

 凄んだ声が降ってきて、旭の希望は儚く散った。

「早く来な」

 一段低くなった声に急かされて、痛む体を引きずり男についていく。泣きたい気分で三階まであがると、扉がふたつあった。

「ばあちゃん、連れてきた」

 奥の扉を開けた男がそう告げると、しわがれた声が聞こえた。

「ご苦労さん。おや…」

 びくびくしながら入った旭を見て、声の主が首を傾ける。

「怪我の手当てをしてやらないといけないね」

「ああ…」

 肩越しに旭を一瞥した男が目をすがめた。額を押さえたハンカチに血がにじんでいるのだ。

 しかし、出血のわりに怪我はそれほどひどくなかったようで、ハンカチで押さえているうちに血は止まっている。押すと痛いが触らなければどうということはない。それよりも、頭や背中や腰や尻のほうがよほど痛い。

「おいで。取って食いやしないから」

 かけられる声は優しい響きだ。

 濃い緑色の目に行けと促され、旭は怖々足を進めた。

 よくわからないガラクタのようなものがたくさん並んだ部屋だった。窓はカーテンで覆われて全体的に薄暗い。香を焚いているのか、奇妙な匂いが漂っている。

 中央に置かれた小さな丸テーブルについた老女が微笑む。彼女の前には古びたカードが並べられていた。似たものを見たことがある。占いに使われる色々な図柄のカードだ。

 黒っぽい燭台にロウソクがひとつ灯っていて、その炎がゆらゆら揺れるたびにあちこちで影が踊るのが不気味だった。

「ジャック、水を出しておやり」

 どうやら男はジャックというらしい。

 広い窓台に、ひと抱えもありそうなほどの花を活けた大きな花瓶と、陶器の水差しが置いてあった。その横にカップがふたつ伏せてある。

 ジャックはカップにやや乱暴な動作で水を注ぎ、黙って旭に突き出してきた。

「ど、どうも……」

 気圧されて受け取ったものの、口をつける気分には到底なれない。

 ジャックは目をすがめてふいっと部屋を出ていった。

 旭はカップをそうっと窓台に置いて、窺うように視線をめぐらせた。

 老女は濃い色の長いベールをつけていた。赤いしずく型の額飾りがロウソクの炎に照らされる。かぶったベールから一房覗いた髪は白っぽく、ゆるやかに波打ち、胸の下まで届く。加齢とともに色素が抜けたのか、もともと薄い色なのかはわからない。

 カードを並べる節くれだった指にはめられた指輪が妙に目についた。人差し指、中指、薬指にくすんだ金の太い指輪がひとつずつ。人差し指の指輪には、きらきら光る金のラメが入った濃い青色の石が三つ。中指は重たい感じの緑色の石がふたつ。薬指の指輪には額飾りと同じ色の赤い石がひとつ。それぞれ星形の彫り込みにセットされている。

 老女は口を開いた。

「災難だったねぇ」

「え……」

 うまく言葉が出てこない。

 そこにジャックが、白い布と、ミントのような匂いを放つ壺と、湯気の立つカップを持ってきた。カップには、薬っぽい匂いの液体がなみなみと注がれていた。

「服脱ぎな。ばあちゃん秘伝の湿布薬だ、打ち身くらいすぐ治る」

「え」

「感謝しろよ。俺が迎えに行ってやらなかったら、ごろつきか強盗かすりの餌食だ」

「え」

「今頃海に沈んでてもおかしくないぜ」

「え」

 それしか出てこない旭にジャックの目が据わった。

「感謝しろって言ってんだよ、聞こえてんのか」

「…………………………あ、ああ! ありがとうございますっ!」

 慌てて頭を下げた旭は次の瞬間背の痛みで悶絶した。

 半泣きでコートとシャツを脱ぐと、まず濡れた布で額の血が拭われた。きついアルコール臭がして傷にひどくしみる。ぐっと唇を噛んで悲鳴を飲み込んだ。

「これなら包帯はいらないな」

 ほら、といぶし銀の手鏡を渡される。傷は髪の生え際だ。妙にきれいな傷だと思った。石段のふちか何か、鋭利なものがかすめたのだろう。思ったとおりそれほど深くもない。これならすぐ消えそうだと思って、なんとなくほっとした。

 次に、壺の中身を塗った布を背中一面にべたっと貼りつけられた。

「つめたっ!」

「我慢しろ。これを飲め」

 涙目でシャツを着て、言われるままカップの中身をすする。まずい。口が曲がりそうだ。

「痛み止めのハーブティーだよ。まぁ、おいしくはないね」

 苦笑する老女を困惑気味に見つめると、彼女はさらりと言った。

「あんたはね、その男に入っちまったのさ」

 言葉の意味を理解しようと努力したが、無理だった。

「………………え?」

 ジャックが息をつく。

「お前、さっきからそればっかだな」

 そんなことを言われても。

 非難がましい顔が手鏡に映っている。見慣れない、見知らぬ顔だ。しかしそこに宿る表情は明らかに自分のもので、気味が悪くて仕方がない。

「ジャーック。そんな冷たい物言いはおやめ。こんなところに飛ばされてきたんだ、わけがわからないのも当然さ」

 旭は目だけを動かして老女を見た。

 飛ばされてきた、というのは、いったい。

「…………」

 急に心臓がばくばくし出した。混乱と動揺と不安と恐怖が入り混じって、叫び出したくなる。

「あんたは本当はここにいちゃいけない人間だ。原因はわからないが、別のところからここに来て、その体に入り込んじまった」

 老女の言葉に鼓動がひときわ激しくはねた。

 窓ガラスに映った自分の姿は見知らぬ誰かだった。

 つまり、自分の意識が別の誰かの体に入ってしまっていると、いうことか。

「……なんで」

 ようやく絞り出した呟きに老女は首を振る。

「さぁねぇ。あんた、心当たりはあるかい?」

 旭はぶんぶん首を振った。その動きがあちこちに響いてうぐぐぐっとうめく。

 痛みに悶絶しながらふとひらめいた。

「もしかして…階段から落ちたから、とか…?」

 階段から落ちた拍子に別の誰かと心が入れ替わるとか、魂が抜けてしまうとか、その手の話はドラマや映画や漫画でならたくさん見た。

 しかし、それがまさか自分の身に降りかかったというのか。そんなばかな。

「やっぱり夢なんじゃ……」

「夢じゃねえって言ってんだろ」

 間髪入れずに凄まれて、旭はまたもや泣きたくなった。現実逃避もできないなんて。

 ジャックは呆れたようにため息をつく。

「ばあちゃん、こいつ捨ててこようぜ。親切に助けてやろうってのに、俺らのことまるで信じねぇときた」

「お前みたいに怖い顔してちゃ信じてもらえるもんかね」

「ぐ」

 渋面で押し黙るジャックを旭はそうっと見た。

 語気は荒いし目つきも鋭くて怖い。しかしジャックは、彼らの言葉を借りるなら、飛ばされてきてこの男の中に入ってしまった旭を保護して怪我の手当てをしてくれたのだ。

 彼が来てくれなかったら、旭はどこともわからない場所で、見知ったひとのひとりもいない状況で、茫然と立ち尽くすしかなかったはずだ。

「……」

 意識が別の体に入り込んだ。これは、別の人間の体。

 だんだん現実味が湧いてきて、同時に薄ら寒くなった。

 そうして、ひとつのことに思い当たった。

 もともとこの体には、この体の持ち主の魂というか心というかがいたはずだ。

 旭が入ってしまったというなら、もとの主はどうなったのだろう。

 まさか、追い出されて、そのまま行き場がなくて消えた、なんてことになっていたりしないだろうな。もしそうだとしたら、あまりにも寝覚めが悪すぎる。

「……………………」

 ざあっと血の気が引いた。真っ青を通り越した真っ白な顔になったのが、手鏡で確かめるまでもなくわかった。

 そんなつもりはなくても、結果として、つまり、ひとをひとり死に至らしめ―――。

 かたかた震え出した旭に、めくったカードをひらひらさせながら老女が目を細める。

「どうやらあんたの体は無事だよ」

「そんなことよりっ! ……え? おれのからだ?」

 盛んにまばたきをする旭にジャックがぶっきらぼうに言った。

「あんた、自分の体のほうがどうなってるか、考えもしてなかっただろ」

「して……なかったね……」

 何しろ『自分』がいまここにいて当たり前のように物を考えているし、打ち身であちこち痛くても一応動き回れるし。

 しかし、考えてみれば、自分の体は意識が抜けているわけで。

「あれ? もしかして、戻れなかったら俺の体、……どうなんの?」

 つぶやいてからはっとした。

「あっそうか! この体の主が俺の体にはいっちゃってるというよくあるパターンだ!」

「ねぇよ」

 間髪入れずに言い切って、ジャックは斜に構えた。

「お前の体はいまからっぽだよ」

 瞬間、猛烈な怒りが込み上げてきた。

「……なんでお前にそれがわかんだよ!」

 ジャックの胸ぐらを掴む。

「あと、この体のほんとの持ち主、どこ行ったんだよ! …っだだだだっ」

 シャツを放してうずくまった旭の目に涙がにじむ。これは痛いからだ。不安だからでも怖いからでもない、断じてない。

 掴まれて乱れたシャツを、ジャックは渋面で整えた。

「どこにも行ってねぇよ」

 降ってきた言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。

 旭はのろのろと顔を上げる。

「……は…?」

「ずっとそこにいるんだよ」

 ジャックの荒れた指が旭の胸のあたりをさす。

「お前が入っちまったから奥の深いところに追いやられて、眠ったまんまだ」


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