シャーロック・ホームズを読んだことのない俺、目が覚めたらコナン・ドイルでした

結城光流

1-1

 それはまるで、ほんの一瞬に見た、夢のよう。





     1



 Arthur C Doyle



 その名前には覚えがあった。

「アーサー…C……ドイル……」

 その名前を持つ人物を、ひとり、知っている。

 世界一有名な探偵の生みの親だ。

 実はその小説を読んだことはない。

 読んだことはないのだが、親の本棚に古びた文庫本が並んでいたから作者の名前は知っていたし、著者の写真も見たことがある。

 手のひらサイズの手帳。最後のページにArthur C Doyleと書かれているということは、おそらくこれが持ち主の名前だろう。

 さて、問題がいくつかある。

 この手帳が、自分が着ていたコートのポケットから出てきたことと。

 窓ガラスに映った自分と思われる面差しが、本やらネットやら何やらで見たことのあるアーサー・コナン・ドイルをかなり若くしたような顔だということと。

 いま起こっているすべてが、まぎれもなく現実であるということ。

「…………ええええ……」

 手帳を開いたまま、アーサー・コナン・ドイルの体に入ったあさひは、カエルが潰れたような声でうめいた。





     ◇ ◇ ◇





 痛い。

「…………」

 頭がズキズキする。あと、背中と腰も、ものすごく痛い。

「………か……」

 遠くで聞こえていた声が、だんだん近づいてきた。

「…………」

 道井どい旭はぼんやり目を開けた。

 なんだか、火花が散っているように目がチカチカする。

 何度か瞬きをしてわずかに身じろぐと、頭と背中と腰に激痛がして、半分眠っているような夢見心地がどこかに吹っ飛んだ。

「……っっっ!!」

 しゃれにならない痛みで声も出ない。

 激痛で完全に覚醒した。と、色を失った叫びが耳に突き刺さった。

「大丈夫か! しっかりしろ!」

 痛む頭に無意識に手を当てる。なんと、頭と背中と腰に加えて肘も痛い。どこかに強くぶつけたか、ぶつかったかしたらしく、体の後ろ側全体がまんべんなく痛むのだ。

「……、………、……」

 涙目で何度も瞬きしているうちに、ようやく視界がはっきりしてきた。

 いくつもの顔が、自分を見下ろすように環状に並んでいた。

 どれも知らない顔だ。

「気分はどうだ、吐き気は?」

 これは、一番距離が近い顔の主の言葉だ。英国貴族が主役の海外ドラマに出てくるような帽子をかぶった恰幅のいい中年男性。

 問われて、どうだろうかと考える。

「…きぶん……や……とくに………」

 気分はこれといって悪くないし、いまのところ吐き気もない。それより何より背面全体の痛みがつらい。

 何度か深呼吸をして、腕に力をこめてのろのろと起き上がる。

 良かった、動ける。足も腕もほかのあちこちも痛むが、それなりに動かせるからどこも骨は折れていないようだ。

 なんとか上体を起こしてから改めて触ってみると、頭はコブになっていた。頭にコブを作るなんて子どもの頃以来だ。

 なんでこんなことになったか考えた旭は、すぐそばに石段を認めた。

「……あ」

 記憶を手繰る。後ろから何か聞こえて、振り返って、急にバランスを崩して、そして――落ちた。正しくは、転げ落ちた。

「病院へ……」

 気遣ってくれる帽子の男性に、反射的に声が出た。

「や! 大丈夫なんで! 階段踏みはずして落ちただけなんで!」

 ほらあれですあれ、と近くの石段を示しながら這うようにじりじり移動する。

「いや、しかし」

「大丈夫、大丈夫です、やばそうなら自分でちゃんと病院いくんで!」

 必死で言い募ると、周りに集まっていた人々が、察したような表情で視線を交わしながら少しずつ離れはじめた。

 そうです。恥ずかしいんです。いい歳して階段踏み外して転げ落ちた人間の気持ち、しかも大した高さでもなかったのに打ちどころが悪くて数十秒だか数分だか完全に気絶した気持ち、ぜひともわかっていただきたい。痛切に。

「心配してくれてありがとうございます! ほんと平気なんで気にしないでください!」

 相手に反論の隙を与えまいとまくし立て、がばっと頭を下げる。ここで身体のあちこちがまた痛みを訴えたが、無視。泣きそうだけど。

 が、悠長に痛がっている余裕はない。

 もたもたしていたら面白がった見知らぬ誰かたちに写真を撮られて、SNSに載せられて拡散されて、明日から「あれ昨日階段踏み外して転げ落ちて気絶した子だよ」と、入学したばかりの大学で話のタネにされる。へたしたら卒業するまで、いやいや卒業後も延々と語り継がれてそして伝説に。

 うわぁ泣きたい。痛みよりそっちで泣きそうだ。

 とりあえず逃げよう。

「じゃっ!」

 何度も頭を下げながら身を翻し、人混みをかきわける。

「あっ、おい…」

 後ろから聞こえた声に、半ば反射で肩越しに振り向いた。

 誰かわからないが頼むから黙って見送ってくれと心で叫ぶ。

 ざっとめぐらせた視界に映るたくさんの顔。心配そうな顔、驚いた顔、興味津々と書いてある顔。あとから来たらしく何があったかわかっていない顔。どれも知らないものばかりだ。

「――――」

 ふいに視線がかち合って、喉がひゅっと音を立てた。びっくりして心臓が跳ね上がる。

 相手は燃えるような赤毛の中年男だ。ものすごく険しい顔で凝視されている。

 うわぁこれは多分あれだ、なんか迷惑をかけたっぽい感じごめんなさい。

 心の中で平身低頭しながら、足は止めずに動かしつづける。

 背中や腰や尻が一際激しく痛んだが我慢した。うぐぐぐ痛い痛い痛い、よく動けてるな俺、どこか物陰でうずくまって泣きたい泣こう。

 だいぶ距離を稼げたあたりでやっと速度をゆるめる。

 ちらりと後ろを顧みて、旭は眉をひそめた。

「ん……?」

 なんだかおかしい。

 さっきは慌てていたから気づかなかったが、旭を囲んでいた、いまや徐々に散開していく人々は、年齢も性別も目の色や髪の色も服装も多種多様。というか、誰ひとり日本人ではなく、みんな妙にクラシックな、ちょっとした仮装パーティーのような服装なのだ。

「んんんん?」

 思わず立ち止まった旭は、周りを見回して瞠目した。

 いくつもあった校舎がない。アスファルトで舗装された道がない。桜の並木もなければ守衛さんもいない。門を入ってすぐの目立つ場所に立っていた創始者の銅像すらもだ。

 旭がいまいるのは。知らない街の、たくさんのひとが行き交うにぎやかな通りで、見える範囲はぜんぶ石造の建物と石畳。

 どこかで聞いたことのあるぱかぱかという固い音とともに石畳の車道を通りすぎたのは、二頭引きの馬車だった。ぱかぱかという音は馬の蹄の音だったのだ。

 通り沿いに並んだ店は、外装も内装も取り扱っている品物も、ついでに店員たちの装いも、何もかもが西洋系のクラシックな印象のものばかり。ばかりというよりも、そういうものだけ。それに、ローマ字がそこかしこに踊っている。なんだかローマ字がとても目立つ。いや、そもそもローマ字だけしかない。どんなに目を凝らして探しても、日本語の看板どころか漢字もひらがなもカタカナも皆無だ。

 通行人たちが着ている服も、少し昔の時代が舞台の海外ドラマでしか見ないような、いやに古めかしいデザインのものだらけ。

「……どこだ……ここ……」

 大学の構内にいたはずなのに、ここはどう見てもどう考えても、どこか別の国の街中だ。

 わけがわからなくて混乱している自分を、すれ違うひとたちがなぜか驚いたような顔で見る。

 なんだ、何が起こってるんだ。

「……えっと、誰かに…」

 連絡しようと尻ポケットに入れていた携帯に手をのばしたが、あるはずのものはそこになかった。

「え、ない? なんで? つか、やばい、落とし…た…」

 青ざめたのが自分でもわかった。大学合格祝いで最新機種に替えてもらったばかりだったのに、失くしたりしたら親父にぶっ飛ばされる。

 あるとしたら転げ落ちた階段のあたりだ。慌てて引き返そうとして、違和感を覚えた。

 今日の服装は、無地のパーカーと黒スキニーとスニーカーだった。基本いつもそんな感じのラフな服だ。こんなズボンや革の靴じゃなかったことだけは確かだし、膝丈のコートらしきものを着ていた覚えもない。

 それに、手ぶらであることにもいまさらびっくりした。教科書やタブレット、筆記用具などを入れたトートバッグはどこへいった。

「あ、さっきコートの上から触ってた?」

 だからスキニーパンツの尻ポケットがないかのような手触りだったのかそれで携帯がないと勘違いしたんだなそうかそうか。

 裾を払って尻に手をやり、――薄くて固い板がないことを再確認してがっくり肩を落とす。

「やっぱ、ない…」

 うなだれて、いま履いている革靴の先端を凝視していたら、その横に赤いしずくがぽたっと落ちた。

「………………ん?」

 額に手を当てて、離す。指先が赤くなっている。

「げっ」

 出血している。どうりでさっきからすれ違うひとたちが驚いた顔をするわけだ。

 落ちたときに切ったか裂けたか。とにかく止血しないと。

 額を押さえておろおろしていると、横から使い古しと思しきハンカチが突き出された。

「あ、どうも」

 反射的に受け取ってから相手を見た。

 自分と同じくらいの歳の男だ。全体的に長めの髪は栗色でさらさら。旭よりわずかに高い位置にある濃い緑色の目。ちょっと鷲鼻気味で色が白く、よく見ると薄くそばかすがある。この男もやはり日本人の顔立ちではない。

 ほかの通行人たちとはちょっと違う系統の服を着ている。なんというか、インドとか、アラブとか、あっち側っぽい雰囲気だ。

 男は顎をくいっとしゃくった。

「あんた、俺についてきな」

 どう見ても日本人ではない外見なのに、その口からイントネーション完璧なぶっきらぼうな日本語が出てきて、旭は混乱極まってフリーズした。

 そういえばさっきのひとたちもみんな、日本語で話していた。

「え……あの、ええと…」

 いきなりの展開に激しく動揺して視線をさまよわせた旭は、店の窓ガラスに映ったものを見て息を呑んだ。

 目の前の男が映っている。その横にコートを着た見知らぬ男がいて、片手にハンカチを持って、出血している額を反対の手で押さえている。

 いま旭がそうしているように。

「え……」

 ハンカチを持つ手を上げ下げしてみる。

 窓ガラスの中の男の腕も上がって下がった。

 ハンカチをぱたぱた振ると、窓ガラスの中でもハンカチがひらめいた。

「…………え」

 窓ガラスの中の男が、呆然とした顔で唇を動かしたのが、はっきり見えた。






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