16日前 届けるものはこの熱意だけ
まるで柔らかな緑の絨毯みたいに、緩やかな起伏が見渡す限り続いている。地平線まで見えるなんてどれくらいぶりだろう。
降り注ぐ日差しは柔らかで、遠く草を
雪もちらほらする冬のスロランスフォードからやってきた僕たちは厚手のコートを脱いだ。
「冬、だよね」
「ええ、冬よ。地元の人もそう言ってたじゃない」
「以前のスロランスフォードに似てるね」
「そうね、確かに」
スロランスフォードは常春だった。街では薄着の観光客が夜遅くまで、路上のカフェや移動遊園地や光に満ち溢れたアトラクションなどで楽しんでいた。けれど、少し前に総督が実行した大胆な気温改変で本来の意味での冬という季節が生まれ、雪を楽しむ喜びを得たのだ。この土地の暖かさは、ロティと同時に赴任してきた年の日々を思い起こさせる。僕は目を細めて、嬉しそうに緑の中を行くロティを見た。
「わあ、すごいわね」
一見無骨な岩肌の建物のように見えていた聖堂は、近くに行けばとても繊細なものだった。自然な凹凸に見えていたものはすべて彫刻だったのだ。こじんまりとした建物は外壁からもう手が込んでいた。彩色がないから煌びやかさはないけれど、熟練の職人によるものと思われる装飾は、この聖堂がいかに敬われ大切にされているかを物語っていた。僕らは正面玄関前の石段を上がり、巨大な扉についたノッカーを打ち鳴らす。
「あっ、それ!」
「うん、マローネだね」
「ヴェッラ・デ・ラ・マロネリオンよ」
「ああ、そうだった」
マローネとは、長い正式名が言えなかった幼い頃の中尉が作った愛称。ヴェッラ・デ・ラ・マロネリオン。確かに舌を噛みそうな名前だ。それにしてもマローネとは……なんとも可愛いらしい響きに心くすぐられる。僕は、会ったことがない、天使のようだと噂される中尉を想った。小さな彼が、今にもこの扉をあけてできそうだった。
そうこうしているうちに、大きな扉が重々しい音を立てて開き、こざっぱりとした黒衣に身を包んだ男性が現れた。ロティが突然の訪問を詫び、主教様とお話がしたいのだと切り出せば、男性は静かに頷いた。「こちらへ」と誘われ奥へ進む。二、三会話を交わす。どうやらみんなこんな風にやってくるようで、無作法にならなかったことに僕らは胸をなでおろした。そのまま中庭へ進むと人影が見えた。
「主教様、お客様をお連れしました」
小さなジョウロを手にした小柄な老人がにこやかに振り返った。彼は真っ白なローブ姿だった。そして、小さなレンガで囲ったそこには白い花が咲いていた。
「ヴェッラ・デ・ラ・マロネリオン!」
「おや、よくご存知ですね」
「はい、その花が大好きな人から教えてもらいました。ああ、本物を見ることができて感激です」
「そうですか、それは良かった。もうこれだけなのですよ。かつてはこの丘陵地を埋め尽くすほどに咲いたこともあるのですが……」
それでも温暖な気候のこの土地では開花時期は長く、少ないながらにも十分楽しめているのだと主教様はおっしゃった。この土地にしか生きられないヴェッラ・デ・ラ・マロネリオンは、僕たちの育てるマローネ・デスペランサよりもずっと小ぶりだ。儚き夢の如く微風に揺れている。
ロティはじっとその様子を見ていた。総督と中尉、二人の過去が絡んだ先の任務において、ロティは思わぬ形で多くのことを知ることとなった。それは楽しいものばかりではなかった。けれど彼女はそこに総督の深い愛を見つけ、共に歩いて行く覚悟を決めた。その時から、マローネ・デスペランサは僕らの未来への希望の象徴になったのだ。
主教様と穏やかに話しながら、小さく気高い花を堪能したロティが、聖堂内を見学したいと言えば主教様は喜ばれた。他宗派の方にもぜひ見ていただきたいし聞いていただきたいのだと、先に立って案内してくださる。今ちょうど聖歌隊の練習中だという言葉に、僕らは小さく歓声をあげた。
回廊を出て石造りの廊下を曲がれば、澄んだ歌声が聞こえてきた。少年合唱団だろうか。木製の扉を押して入った先は、唯一紹介されていて、僕らが目にしたあのホールだった。今日も白い花が溢れるように飾られている。美しい旋律が高い天井にこだまする。その音に僕は思わず振り返った。
それは、オペラハウスにもある聞き慣れたパイプオルガンではない音だったからだ。同じように感じたのだろうロティが見つめる先を僕も見た。
小さな足踏みのオルガンだ。けれど十分に役割を果たしている。大きすぎず華やかすぎない音色が、透き通るような歌声に絶妙にマッチしている。
(ああ、これなんだな。中尉の歌声はこんな感じだったんだなあ……)
この旋律を、歌声を、総督に聞かせたいと願わずにはいられなかった。ロティは両手の指を耳の前の膨らみにそっと押し当てていた。音を振動としてより深くに取り込もうとしているかのように見える。その様子を主教様が目を細めて見つめていた。聞き終え、顔を上げたロティが花開くように微笑んだ。
「素晴らしいですね。本当に素晴らしい。主教様、実はお願いがあって参りました。私は惑星スロランスフォード総督府に勤めております、シャーロット・オーウェンです。彼は建築家のウィルフレッド・アーチャー・ハモンド。私たちはこの月末に開かれる式典での聖歌隊を探しているのです。銀河の多くの宗派の方々にすでにご賛同いただいています」
ロティは静かに言葉を重ねた。本当は胸が早鐘のように打ち鳴らされているかもしれない。けれどその声は淀みなく美しいものだった。
「花のことを教えてくれた友人からこちらの聖歌隊の話を聞いていましたから、ぜひにと思ったのですが、連絡先がなくて……」
「ああ、それは失礼しました。私たちは外へは出ませんので、連絡はみな直接ここへ伝言されるのです」
「外へ、出ない?」
「ええ。ずっとここにおります。代々、この聖堂内が私たちの世界の全てなのです。ですから、とてもありがたいお話ですが、そちらの式典にも……」
僕はこぼれそうになった声をどうにか押しとどめた。絶体絶命だ。けれどロティは驚くほどに落ち着いていた。氷河色の瞳を煌めかせて何かを考えている。その様子はまるで氷河の白が燃え立つかのように見えた。彼女は一つ大きな息を吸った。それから目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。やがて……目を開けた彼女はきっぱりと切り出した。
「この聖堂のことを教えてくれたのは、かつてこちらの聖歌隊で歌っていたフェルナンド・デスペランサ氏です」
「フェル……!」
主教様の目が大きく見開かれた。ロティは小さく頷き返し続けた。穏やかな声が聖堂内に流れ出す。
ロティは、中尉のことも総督のことも、その過去を遡ってすべて洗いざらし話した。それは連邦政府が関係するもので、民間人に聞かせることのできるギリギリのもの。それでもロティは臆することなく語った。先の任務以来、僕らがマローネを育てていることをそれはそれは嬉しそうに付け加え、この式典が総督の誕生日だということで彼女の話は締めくくられた。
主教様は何も言わず、じっと最後まで話を聞かれていた。時折目をつぶったり、指を組んだり、何かを思い出しているようにも見えた。話し終えたロティをまっすぐに見つめ、主教様は優しい声で言われた。
「辛いこともたくさん……ありがとう。お気持ちは十分わかりました。少しお時間をいただけますか。明日、また来ていただけると嬉しいのですが……」
僕の胸が大きな音を立てる。明日、明日……! 聖堂に満ちる甘い香りが、この時ばかりは苦しいほどに押し寄せてきた。ロティが柔らかな笑顔を見せるのを、僕は息を詰めて見つめていた。
勝負の日まであと16日。
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