#6
チリン、と澄んだ音がする。その音にひとみは目を開ける。
「……」
ゆっくりとまばたきをしたひとみはふわあ、と欠伸をする。
「起きたかな?」
囁くような声にひとみは声がした方を向く。ひとみの隣に着流しを着た男性が一人いた。どこかで見たその顔立ちにはっと息を呑む。
優しそうな顔立ちの綺麗な瞳の男。生身の姿は見たことがない、写真の中の人物だ。ひとみからすると、過去に確かに存在した血縁の男だ。
「何で……」
男は淡く微笑む。蛍火のように柔らかに笑う男はひとみの曾祖父であり、ゆり子の夫である磯貝明だ。
ひとみは明の姿をはっきりと認識した後、周りを見渡す。正面には見覚えのない庭が広がっている。背後を見ると、社会の教科書や資料館で見たことのある昔の家の居間が広がっている。畳にちゃぶ台、棚、壁掛け時計と置いてあるもの全てが古めかしい。ひとみと明がいるのは縁側のようで、軒先に百合の模様の風鈴が掛けられていて、そよ風に揺られている。いや、それよりも目を引くことがある。
太陽がゆっくりと動き、沈んでいくのだ。理科の授業で見た地球の自転や太陽、月の動きを早送りにした映像のように動いている。
何なのだ、この光景は。ひとみは記憶の糸を手繰る。
夢屋胡蝶から帰り、ゆり子に夢の話をした。槐の欠片を枕元に寝るという至ってシンプルな工程にゆり子は意外そうにしながらも了承した。今晩、早速実行するということになったのだ。ひとみもどんな感じで夢を見るのか気になったが、ゆり子の見たい夢は明との日常だ。邪魔をしてはいけないと思って言わなかったのだが、ゆり子から一緒に見てみないかと誘われ、一緒の部屋で寝ることにした。欠片はひとつしかないがいいのだろうか、と思いながら、ゆり子が夢を見られるならいいや、と思い布団に入ったのだ。
ゆり子は明との夢を見ているのだろうか。もしも、ゆり子が夢を見られずにひとみが見ているとなったら申し訳ない。
ひとみはゆり子の姿を探すように辺りを見渡すも、明以外、誰もいない。人間ではないが、一羽の白い蝶が悠々と飛んでいるぐらいだ。薄暗い中、蝶の白い羽が目立つ。
「驚かせてしまったかな?」
穏やかな声がひとみに話しかける。肉声を聞いたことはないのに、不思議と違和感を抱かない。ゆり子の声真似とはまた違うのだが、声真似の雰囲気と似ている。祖父が言っていたとおり、ゆり子の声真似ほど細い声ではない。この声で授業をされたら眠くなってしまいそうなほど、心地のいい声だ。
「えっと、その……」
「大丈夫。ゆりちゃんはゆりちゃんで僕との夢を見ているから」
「え?」
ひとみは明を見つめる。軍服を着た写真の凛々しい顔立ちとは違い柔和な表情だ。
明は手にしていた湯呑をあおる。
「僕は磯貝明。はじめまして、ひとみちゃん」
「私の名前、知ってるの?」
これは夢だ。であれば、ひとみが生まれる前に亡くなっている明が知っていても当然か。夢屋の店主は夢は変幻自在だとか言っていたし、夢というものは意外と自分の思うようになるものだと今までにも経験している。
「もちろん。僕のひ孫でしょ?」
明は小さく笑う。
「そうだけど……。どうして、私の夢に?」
「さあ、どうしてかな?」
明はさらりと流す。
ひとみは訳がわからず混乱する。明の夢を望んだのはゆり子だ。明の言葉を信じるのであれば、ゆり子はゆり子で明との夢を見ているらしい。心のどこかで明に会ってみたいというひとみの気持ちが夢になったのだろうか。
そんなことをひとみが考えていると、世界が暗くなる。空を見れば、日が沈み、月が出てきた。青空ではなく、黒が広がる空には星が輝いている。そんな空の下を蝶がひらひらと飛んでいる。
「空が……」
「またひとつ、日が沈んだか」
明は目を細め、遠くを見つめる。
「僕が死んで、どれだけの数の日の出と日没を見てきたかな」
明の言葉にひとみの鼓動がドクンと大きくなった。明は自分が死んでいることを自覚しているようだ。そして、死んでから長い年月が経っていることもわかっている様子だ。
「……ひとつ、訊いてもいいかな?」
明の声が震えている。泣き出しそうな横顔にひとみは思わず視線を逸らす。空に昇っていく月を目で追うことにする。
「答えられることなら」
何を訊かれるのかとひとみは身構える。
「僕が生きた時代に比べて、君が生きていく時代は自由で平和だろうか?」
震えた声がそう尋ねる。そんな曾祖父からの問いにひとみの胸に何か深く突き刺さる。
「ゆりちゃんの記憶を見た。ずっと苦労していたと思う。だから、穏やかな時代を迎えられてよかったと思う」
凄惨な場面に目を覆うことも、つんざくような聞きたくない音に耳を塞ぐことも、焦げた臭いに息を止めることも、肌に感じる嫌な熱を感じることも、こうしたい、ああしたいと言う口を閉ざすこともない、そんな時代。
「僕自身が生きることはない。そんな時代を生きる君に今はどう映っている?」
「……」
ひとみは逡巡し、俯く。足元にいつの間にか一本の花が背筋を伸ばしている。花と言っても、まだ蕾もついていない。それなのに、花だと直感が囁く。何の花かわからないが、淡い緑の茎を真っ直ぐ伸ばしている。その植物の葉に蝶が留まる。蝶はゆっくりと羽を休めている。
チリン、とまた澄んだ音がする。
「……平和で穏やかな時代だと思う。昔ほど制限されていないと思うし、自由だと思う。だけど、それは私の周りだけ。国内で見ても苦しんでいる人はいるし、もっと広い目、世界規模で見れば内戦や紛争で大変な地域もある」
ひとみは言葉を選びながらゆっくりと話す。
ひとみが生きる場所に戦争はない。平和で自由。命の危機に瀕するようなことはほとんどない。戦闘機が空を飛んでいることはないし、突然爆風が襲うこともない。本物の銃や刀など見たことがなく、兵器というものは写真でしか見たことがない。それぐらい、身近に戦争はなく、昔に比べればのびのびと生きられていると思う。だが、どこか遠くの国や地域では同じ青空の下でも争いが起きていて、誰かが犠牲になっている。同じ年頃の子供も被害にあっている。
「私が生きる国の今は平和な方だと思う。昔や他の国と比べてだけど、少なくとも兵器や武力による力が一般人の目に入ることが少ないから」
兵器や武力が全くないというわけではない。テレビで自衛隊の訓練の様子を見たことがある。彼らが射撃の訓練をしているものだった。ひとみたちの目に触れないところで、彼らのような人々が訓練をし、いざというときのために備えているのだ。
「……そうか」
明はぽつりとこぼす。
「……君の瞳は物事をよく見ているようだ」
明は感心したように言う。
「ひとみちゃん」
優しく呼ばれたひとみは明を見上げる。潤んだ目がひとみを見つめている。
「君は幸せかい?」
震えた声はひとみの身体にすっと溶け込むかのように馴染む。明の肉声を聞いたことはないのに、きっとこんな声だっただろうとひとみの中で確信する。
優しくて、穏やかで、温かな声。怒鳴ったりせず、諭すようにして導くような声音。
ひとみの唇が自然と弧を描く。
「うん。幸せだよ」
不満はない。家族や友人に囲まれ、日々を生きている。我慢を強いられることもあるし、喧嘩をすることもある。全てが全て幸せかと言われるとそうではない。辛いときだってある。部活や勉強が上手くいかなくて自棄になってしまうときもある。
それでも、今までの人生の全体を見たとき、幸せが占める割合の方が多い。それならば、自分は幸せだと言い切れる。
「なら、よかった」
明の目から一筋、雫がこぼれ落ちる。
「ひいおじいちゃん……」
「ごめんね。……僕のひ孫が幸せだと言える時代が来るのかと思ったら」
明は袖で涙を拭う。袖からわずかに覗いた手は小柄な身体に対して、大きく、ごつごつとしている。この手が銃を握っていたのかと思うとさらに大きく見える。
「格好悪いところを見せちゃったなあ」
「そんなことないよ」
微塵も思わない。むしろ、ゆり子から聞いた明という人らしいと思った。ここで、泣いていない、泣かないと言うのは心配性で気弱な明らしくない。人前でも涙を流す姿が明らしいような気がする。この時代の風潮からして、男は泣くな、とか言われていたかもしれない。
誰かの前で涙を流す姿は。
「ひいおじいちゃんらしいと思う」
会ったことのない曾祖父の姿。もしも、長生きしてゆり子のようにひとみと話ができたらと想像してしまう。ゆり子と同じで優しく見つめてくれただろう。
「心配性で、ちょっと気が弱くって。優しい泣き虫さんなのかなって思うの」
正直、軍人らしくない。写真で軍服を着ていた明は表情を引き締めていたが、それでも人の好さが滲み出ていた。こうして夢の世界という幻想においても、優しく、穏やかで、この人が兵士というには無理がある気がする。そんな人でも時代の流れには逆らえなかったのかと思うと胸が痛む。
「泣き虫、か……。ゆりちゃんにもよく言われるんだよ」
明は微妙な笑みを浮かべる。
「ひいおじいちゃんが泣くのは自分が辛いからじゃないでしょ? 誰かのことが心配だったり、逆にほっとしたりで泣いちゃう。違う?」
「どうだろう。気にしたことないな」
「私はそうだと思う」
実際の様子を見ていないひとみだが、ひとみが幸せだと言った後の涙はほっとしたからだと思いたい。それに、ゆり子から聞いた話によれば、誰かが病気に罹ったり、怪我をしたりしたときに慌てるような人だ。明自身の病気や怪我で泣いたという話を聞いたことがない。
あくまでひとみの勝手な願望だ。こうだったのだろうな、というひとみの予測の範疇に過ぎない。
「本当に、君は賢い子だね。周りも、人もよく見ているね」
参ったよ、と明は白旗を上げる。
「そうかな?」
「うん、そうだと思う」
明は鼻をすする。ひとみは照れるように笑うと、一息ついてほしいと思い、明に茶を飲むように勧める。明はひとみが勧めたとおり、茶を飲むと、ほう、と息をつく。
こうして見ると、明と祖父は似ている。とくに小さめの口元がそっくりだ。
ひとみがじっと見ていると、明と視線が合う。綺麗な目がひとみを捉えると、ゆっくりと細められる。
「ひとみちゃん。君の頭を撫でてもいい?」
「え? う、うん、いいよ」
明は照れ臭そうに笑いながらひとみの頭を優しく撫でる。
やはり、明の手は小柄な身体に対して大きい。髪の流れに合わせて優しく、そっと撫でる手が心地いい。幼い頃に色々な人に頭を撫でてもらったときの記憶がよぎる。
「ひとみちゃんは聡い子だね」
「そんなことないよ」
「いいや。君は賢い。頭のいい子だ」
ゆっくり撫でる手の主は本を読み聞かせるように語る。
「綺麗な瞳で物事を見極めて、よく考えることのできる子だ」
ふわり、と植物に留まっていた蝶が舞い上がりる。いつの間にやら、白く細長い蕾をつけていた植物にひとみは見覚えがあることに気づく。
明は目を細めるとひとみの頭を撫でる手が止まる。
「……ああ、早いな」
何が、とひとみが問う前に異変に気づく。昇っては沈んでを繰り返していた太陽の動きがぴたっと止まり、明け方の空模様となる。薄っすらと赤く色づいてはいるものの、少し暗い夜明けの空色になろうとしている。
「お天道様が昇って沈んでを何度数えたか。もう数は覚えていないけど、随分と長い時間が過ぎたようだ」
ふわふわと二人の周りを飛ぶ蝶が徐々に朝日に透けていく。
「夢とは言え、ひとみちゃんに会えてよかった」
「ひいおじいちゃん?」
何だか意識が遠のいていく。これは目が覚める前兆か。ひとみは抗おうと首を振るも眠気が侵食してくる。
「そろそろこの夢の世界も終わり、かな」
「そんな……」
まだだ。まだ、話したいのに。
明は目に涙を溜めながらひとみの頭を撫でていた手を頬に滑らせる。大きな手がひとみの頬に添えられる。
「お茶を出せなくてごめんね。万が一のことがあってはいけないと思って、ひとみちゃんの分のお茶を用意できなかった」
明は空になった湯呑を置く。
「ひとみちゃん、会えてよかった。君からすれば夢幻だろうけど、僕にとっては大切な出会いだ。ありがとう」
「待って、ひいおじいちゃん」
「まだ、ひとみちゃんは若いからね。こちらに引きずり込むわけにはいかない」
空が明るくなり、置いてきぼりにされた星がひとつ、暁の空に輝いている。明の肩越しに見える銀色の星が憎らしい。
「綺麗な瞳のひ孫がいて僕は誇らしいよ。どうか、元気でね。美しい瞳の先が幸いで溢れますように」
愛しそうに微笑む明の瞳から涙がこぼれ落ちる。
頬を伝い、顎まで流れ、ポツ、と。すると、ふっくらとした白い蕾がゆっくりと花開く。首を傾げるようにして咲いたその花は百合の花。その百合の花がゆり子の姿へと変わる。若いゆり子がひとみを抱きしめると小さく、ありがとう、と言った。
◇◇◇◇◇
はっと目を覚ますと暗闇が広がる。勢いよく身を起こしたひとみは寒さに身体を震わせる。隣で寝ているゆり子は、と見るとちゃんと呼吸をして眠っている。ほっと息をついたのも束の間、ゆり子の枕元に置いた槐の欠片から白い靄が出ている。その靄の先を辿った先、赤いふたつの光と目が合う。
「おや」
男が宙に浮いている。まるで、無重力空間にいるような浮き方をしている。真珠貝のように白い髪に紅色の瞳。チャイナシャツを着た男が目を丸くしている。
「本当、君って子は鋭いね」
「あなたは」
すっと男の手がひとみに伸びる。のけぞろうとしても身体が動かず、そのまま男の手によって視界が遮られる。
「まだ起きるには早い時間だよ。もう少しお休み」
真っ暗になった視界はそのままひとみを深いところに引きずり込む。どうしてこの人が、と思いながらも、ひとみは為す術もなくまた眠りについた。
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