#4

 さあっと風が吹き抜ける音がする。目を開けると空を覆いつくす緑が広がっていた。新緑が揺れる中、キラキラと光がこぼれ落ちる。チラチラと白い光が降り注ぐ様子をぼーっと見ていると、横から男の顔が覗く。細い目を何度かまばたきさせた男はほっと息をつく。


「こっちに来られたね」


 その言葉にひとみははっと息を呑み、身体を起こす。


「ここは……」


 きょろきょろと辺りを見渡す。目の前に広がる野原の緑と空の青。そよそよと吹く風が若々しい緑を揺らしている。ひとみたちは木の下にいるようだ。


「夢の中だよ」


「夢の中? 本当に?」


「そうだよ」


 本当に夢の中なのか、と頬をつねろうとする。なぜ、人は夢だと疑うと頬をつねって痛みがあることを確認しようとするのだろう、と思いながら手を頬まで持っていく。

 が、どうにも頬をつねることができない。あれ、と思い手を見たひとみはそこにあった手に驚愕する。

 黒豆のような物が並び、毛むくじゃら。降り注ぐ光の加減によっては金色に見える毛に手が覆われている。


「な、何これ!?」


 ひとみは立ち上がる。が、視線の高さが低い。自分がしゃがんだときの視線の高さと同じぐらいだ。


「あはは。面白いねえ」


 男はケタケタと笑っている。


「何ですか!? これ!」


「ちょっと落ち着いて。ほら」


 男が宙に手を伸ばすと一本の木の枝が男の手に向かって伸びる。お辞儀をするように伸びた枝の先には手鏡が行儀よくのせられていた。男が手鏡を取ると、枝はするすると元の位置に戻っていく。


「はい、どうぞ」


 差し出された鏡を見たひとみはそこに映る毛玉にパチクリとまばたきする。円らな黒い瞳に柔らかそうなベージュの毛並み、垂れた耳が愛らしい犬がそこに映っていた。ゴールデンレトリーバーだろうか。ひとみがまばたきすると鏡の中の犬も同じようにまばたきをする。ひとみが首を傾げると犬も首を傾げる。


「……えー!?」


 ひとみが身をのけぞると犬も身をのけぞらせる。


「え、私、犬になってる!?」


「ピンポーン、正解!」


 男は呑気に笑っている。


「な、な、何したんですか!?」


「言ったでしょ? お日様の下を駆け回る犬の夢だって」


「私、犬じゃありません」


「いや、今の君の姿は犬だよ」


「いやいやいや! 私、人間です!」


「そんなこと言って……。ほら、お手」


 男が手を差し出すと、ぽん、とベージュの毛に覆われた右手、と言うか右前脚が男の手に重なる。


「……は?」


 反射だ。なぜこうなったのかわからないひとみはぽかんと男を見上げる。


「可愛いわんちゃんだね」


 にっこりと余裕の笑みを浮かべる男にひとみはしずしずと手を下ろす。


「そんな……」


 クーン、と情けない声が出る。一体どうなっているのだ。


「……これ、本当に夢ですよね」


「夢だよ。起きれば君は人間の女の子の姿に戻っているよ」


「うう……」


 お日様の下を駆け回る犬の夢のはずが、なぜ自分が犬にならなければいけないのか。ひとみは不本意だと言わんばかりに尻尾を振る。ひとみが意図しているわけではないのに、身体が勝手に反応する。


「ほら、ひとっ走りしておいで」


「ひとっ走りしておいでって……」


 そんな気分ではない。犬は好きだが、突然犬の姿になって走ってこいと言われるのはまた違う話だ。


「僕はここで見てるから。その子の身体を借りて、この夢を堪能しておいでよ」


 よいしょ、と男は鏡を宙に投げる。すると、枝が鏡をキャッチし、茂る葉の中に吸い込まれていく。


「え……」


「僕はここで休んでるから」


 ふう、と息をついた男は木にもたれかかる。


「中々ない経験だよ。犬になってこんなに気持ちのいい空の下走れるなんて」


「それはそうですけど……」


 今まで夢の中で他の生き物になったことなどないような気がする。実際は覚えていないだけであるのかもしれないが。


「ほら、気持ちのいい風が吹いてきた」


 そよそよと風が吹いて男の髪を揺らす。少し長い髪を結んだ紐も髪と一緒に靡いている。


「行っておいで」


「……」


 これ以上は相手にしてもらえそうにない。そう判断したひとみは木陰から抜け出す。

 木陰から出ると眩しい光が射し込む。目を細めて空を見上げると、太陽が頭上から照らしている。夢のはずなのに、不思議と温かいと感じる。風が頬を撫でる感触もする。夢だから何でもありなのかと思いながら、ひとみは軽く走り出す。人間で言うジョギングの気持ちぐらいで走り出す。四足歩行でも軽々と走ることができる。

 肘の辺りまで伸びた草をかき分けるようにひとみは走る。いつもよりも低い視線が新鮮だ。草のはっきりとした緑が視界にちらつき、空の青はあまり目に入らない。

 風を切る音に紛れて、チチチ、と鳥の鳴き声が聞こえ、空を見上げると小鳥が大空を悠々と飛んでいる。犬って耳がいいんだな、と思いながら鳥を追うように走る。

 土を踏む感触、爽やかな風を切る感触、草をかき分ける感触、耳に飛び込む風の音や鳥の鳴き声。そのどれもが新鮮で、本当に夢なのかと疑いたくなるような様子だ。

 自分は人間ではなく、犬だったのかと思うほど自然で、違和感がない。本当は犬なのに、人間になっている夢を見ていたのかと思うほどだ。初めの驚き様が嘘みたいだ。

 ハア、ハア、と息が切れてきてゆっくりと歩き出す。とことこと歩いていると、いつの間にか男が休んでいる木の元に戻っていた。こうして木陰から出て木を見上げると大きい。枝葉が幹の遠くまで伸びていて、大きな木陰を作り出している。


「おかえり」


 ふわりと笑う男の隣にひとみは座り込む。


「……戻りました」


「どう? 気持ちよかったでしょ」


「はい。何だか、風の中を駆け抜けていく感じが新鮮でした」


 視線の高さもそうなのだが、何より、空気の抵抗が少ないように感じた。吹く風がそよ風だから、余計にそう感じたのかもしれないが、どんなに強い風でも押し戻されることなく駆け抜けていけそうに思った。


「そう。この夢はね、とある家の飼い犬が見ていた夢なんだよ」


「へえ……。そもそも、犬って夢を見るんですか?」


 人間は夢を見る。では、人間以外の動物はどうなのだろうか。犬や猫に限らず、虫や植物はどうなのか。

 ひとみの質問に男はニヤリと笑う。


「いい質問をするね。そうだね、生物学上ではわからないってなってるんじゃないかな?」


「そうなんですか?」


 詳しいことはひとみにはわからないが、よほど小さな生き物でなければ脳波を測定して夢を見ているのかどうか判断できそうだと勝手に想像する。


「仮に生き物が夢を見ていたとして、夢の内容を話されても僕らは彼らの言葉を理解できないからね」


「え、そういう話になるんですか?」


 脳波がどうのとかいう話ではないことにひとみは驚く。


「だって、人間が犬に対して夢見た? って訊いても、ワンとしか彼らは答えられないわけでしょ? そもそも、人間の言葉を理解しているのかって話にもなるけど」


「そういう次元の話なんですかね」


「僕も研究上での話は詳しくないから知らないけど。でも、見てる可能性はあるって話なんだって。脳の作りからして、犬や猫は夢を見ているかもって」


「うーん、なるほど?」


 ピンとくるようなこないような。ひとみは首を傾げる。


「ん? でも、こうやって私が犬の夢を見ているってことは……犬も夢を見るってこと?」


 研究ではまだわからないとされているようだが、今いるこの世界が夢の世界と言うならば。


「そう。実は犬も夢を見るのさ。犬に限らず、生きているもの、みんな夢を見ているんだよ」


 男はよくできました、と拍手してくれる。


「生きているものみんなってことは、花も夢を見るんですか?」


「うん」


「ミジンコみたいに小さくても?」


「もちろん」


「アメーバも?」


「そうだね」


「……ウイルスも?」


「細かいところまで突くね。ウイルスが夢を見ているのか、僕は調べたことないけど、生き物はみんな夢を見るっていう理論上、見ているってことになるね」


 なぜ微生物ばかり訊くのだろう、と思いながら男は答える。鳥とか、虫とか、他にも色々とあると思うのだが、目に見えない生物に視点がいく辺り、変わっている。


「どうして、そのことを店員さんは知っているんですか?」


 研究者たちが解明していないことを茶葉屋を営む男が知っているというのも妙だ。


「それは、僕が夢売りだから」


「夢売り?」


 夢を売っている。そちらが本業と眠りにつく前に男が言っていた。

 夢を売るとは何なのか、とゆり子におつかいを頼まれたときから思っていた。そもそも、夢屋とは何か、と最初のおつかいの時点で思った。

 眠っているときに見る夢は形ある物ではない。夢を見ていたとしても、覚えていないことの方が多い。それを目に見える形、あのビー玉のような形にして売ることなど、ありえない話だ。

 思い返して見れば、お試し、と言って目を閉じてからすぐに意識を手放したような気がする。あんなにすっと眠れたのも不思議だ。薬でも盛られでもしないとすんなりと眠れるはずもない。それに、こうやって夢の中で意思疎通がはっきりとできるのも変な話だ。

 この男は何者なのか。ひとみの中で疑問が浮かぶ。夢を売ることを生業にしているこの男が一番の謎なのかもしれない。


「夢売りってどんなお仕事なんですか?」


「そのまま。夢を売るのさ。時には買い取りもするけど」


「夢を売るって……。形のない物ですよね」


 触れることのできない、すぐに消えてしまうもの。夢を見ていても覚えていないことの多い不確かな物だ。それを売るということなどできるわけがない。

 普通ならば。

 男の細い目がすっとさらに細くなる。


「確かに形のない物だね。だけど、君は夢の形を見たよね? あの瓶の中のとんぼ玉? ビー玉? みたいな球体はすべて夢だよ。ひとつひとつ色が違うのも、夢の特徴を表しているから。この夢の色、何色だったか覚えている?」


「え? えっと、ベージュ? 金色?」


 瓶の中から取り出された球体の色を思い出す。陽だまりのような柔らかな色だった。

 ひとみは言葉にして息を呑み、自分の手を見る。黒豆のような肉球の周りの色。まさにあのビー玉と同じ色の毛が自分の身体を覆っている。


「そうだね。この夢を見ていた犬の毛の色でもあり、お日様の色だね」


 男は葉に隠された太陽を見上げる。木漏れ日がチラチラと揺れている。


「このわんちゃんは夢の中の太陽とその太陽が照らす自分の毛並みが印象的だと思った。だから、夢を形にしたとき、この色の玉になった。この玉……夢玉はね、夢を見た主が印象的だと思った物や色を表しているんだよ」


「夢を形に……」


 本来、形のない物が形を取る。犬が見た夢というならば、夢玉として、目に見える、触れることのできる物体、になっているということだ。


「でも、どうやって夢を形にするんですか?」


 現代の科学でも実現していないのだ。実際にできる未来があるのかも不明。だが、この男は実現した物を売り物にしていると言うのだ。


「それは内緒」


 男は人差し指を立て口の前に持っていく。


「企業秘密ってことで」


「そんな」


 かなり重要な話ではないか、とひとみが言おうとすると、遠くからピピピ、と音がする。それと同時に景色がぐにゃりと歪む。


「さあ、起きる時間だ」


 男の声が遠くなる代わりに、ピピピ、という音が近くなる。


「夢から覚める時間だよ」


 男が景色に溶けていく。それと同時にひとみの瞼も重くなっていく。

 薄れゆく意識の中で、男の薄い唇が弧を描いたのが見えた。

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