#2

 白い湯気がゆらゆらと揺れているマグカップ。ゆっくりと動いた喉。

 じっとそれらを見つめていたひとみは唾を飲み込む。


「美味しい」


 ひとみは緩やかな弧を描くゆり子の口元にほっと胸を撫で下ろす。


「よかった」


 説明書きを見て、ティーポッドやマグカップを見て、また説明書きを見て、と視線を行き来させながら淹れたジャスミン茶。家庭科の授業で緑茶の淹れ方の実習があったことを思い出しながら、ジャスミン茶を淹れていた。あの授業以来、お茶を急須やティーポッドで淹れるということをしていない気がする。そんな久々の状態だった。


「ひとみちゃん、上手ね」


 ゆり子はしみじみと言い、目尻を下げてニコニコと笑っている。


「店員さんが紙くれたの」


「あら、そう。いたのは男の人だった?」


「うん」


 ゆり子の話によると店員は二人いるとのことだったが、昨日見たのは男性のみだった。もう一人、女性がいるようなのだが、昨日は姿を見ていない。男性の方が店主とのことだ。


「あのね、元気なときでいいから声を聞かせてって言ってたよ」


「あら、心配かけたかしらねえ」


 ゆり子は眉を下げる。救急車で運ばれてからというもの、身体が今まで以上に思うように動かなくなり足を運ばなくなってしまった店。連絡も取っていなかったから心配させてしまったようだとゆり子は表情を暗くする。


「最近お店に来ないからどうかしたのって。それで、ちょっとお話したんだけど」


「そう。なら、電話の一本でもいれようかしら」


 軽やかな口調で話す彼はおしゃべり好き。電話口でもあの口調は変わらないだろう、とゆり子は想像する。


「うん。待ってると思う。そうだ、あのね、お茶のお金はいらないって言われたの。声を聞かせてくれたらそれでチャラって」


「そんなこと言ってたの?」


「お見舞いの品って……。私、払うって言ったんだけど圧がすごくって」


 顔つきも声音も怖くないのに、不思議なほどの凄味が出ていた気がする。目に見えない空気がどっしりと肩にのしかかったかのようなそんな感覚だった。


「お金返すね」


 これ、とひとみはゆり子のベッドの傍に置いたバッグから財布を取り出し、預かった金をゆり子に差し出す。


「あらあら、そうだったの。……うん、そのお金はひとみちゃんにあげる。お遣いに行ってくれたお礼」


「えっ、でも……」


「いいの。私はもう長くないから」


 ゆり子は寂しそうに目を細めてジャスミン茶を啜る。爽やかな香がちょうどいい。彼の店で勧められてからお気に入りになったジャスミン茶だ。彼が淹れてくれたお茶が一番美味しく、それがきっかけとなってお気に入りのお茶になったのだ。少し値は張るが、その価値はあるとゆり子は思っている。


「ひいおばあちゃん……」


 ひとみの脳裏にゆり子の長くないという言葉が何度も繰り返される。長くないとほとんど言葉にしない人だったが、ふとしたときの視線や表情が今にも消えそうな雰囲気を醸し出している。

 返そうとした金はゆり子の手によって財布に戻され、膝の上に財布が置かれる。ゆり子の手はこんなにも細く、ゆっくりと動くものだっただろうか。


あけるさんが待ってるし」


 明とはゆり子の夫であり、ひとみの曾祖父だ。ひとみは明の姿を写真でしか知らない。軍服を着た明に寄りそう若かりし頃のゆり子との写真、出兵前に撮ったであろう明一人の写真、家族写真の三枚でしか曾祖父の姿を知らない。

 ひとみは小さく礼を言うと、財布を静かにバッグにしまう。


「明さんったら、心配性な人でね」


 ゆり子が懐かしそうに語る明の話はもう何度も聞いたものだ。心配性で、ゆり子や子供たちが熱を出して伏せていると大丈夫だよね、お水いる?、と何度も尋ねるような人だったらしい。出産のときなんて、ずっと落ち着きなくうろうろしていたとのことだ。


「そう、出産のときなんてずっとうろうろしていて」


「そうなんだね」


 ひとみは何度も聞いた話に相槌を打う。この話の顛末も知っている。明はあまりにも心配で、どうか無事に生まれてきますように、と庭に膝をついて太陽にずっと祈っていたという話だ。


「服が汚れるのも気にしないで、膝をついてお日様にお願いしてたのよ」


「うん。それだけ心配してたんだよ」


 何度も聞いた話に、同じ返事をする。これを幾度繰り返したか、ひとみにはわからない。

 あまり否定しないように。母から言われた言葉だ。同じ話ばかりでも、それ聞いたよ、と言わないようにと言われたのだ。ひとみからしてみても、懐かしそうに、大切な宝物を見せてくれるように話すゆり子にそのようなことを言えない。それに、早くに亡くした夫のこととなると、若々しくなるゆり子の楽しくも懐かしい思い出に割り込むことなどできないと思うのだ。

 ゆり子が明のことを何度も語るとき、ひとみは聞き手に徹する。それがゆり子のためであると考えているからだ。何度も何度も同じ話をされてもそうすることが最善だとひとみは思っている。


「本当に心配性な人なんだから」


「そうだったんだね」


 写真を見るに曾祖父は気弱そうな人だった。戦争中ということもあり、食料不足であったり、配給だったりと満足に食事を摂っていなかったのだろう。ある映画に、少年が時には人の畑から盗みを働かないと食べ物がないからと芋を盗むシーンがあったのを覚えている。栄養が足りていなかったのか、明の身体は小さい方だと思った。当時の人の平均身長がどれぐらいだったかはよくわからないが、現代で見ると小柄だろうなという印象だ。

 真面目そうな、いかにも勉強が得意そうな人。しかし、当時の状況を見るとそんなことを言っていられないほど追い詰められていたため、明も戦場に出なければならなかったのだろう。そして、戦場で負った傷が原因で若くしてこの世を去ることになってしまった。


「ひいおじいちゃん、それだけ家族のことを大事に思ってたんじゃない?」


 明は心配性な人だったという話を初めて聞いたときにひとみはそう思った。自分の服が汚れることよりも家族のことが心配で太陽にまで祈るような人だ。二人はお見合いで結婚したと聞いているが、夫婦仲はよかったのだろうなとも思う。そうでなければ、ゆり子が愛おしそうに明のことを語るとは思わない。


「ん? ひとみちゃん、今何て?」


「……ひいおじいちゃんは、家族思いな人だったと思うよって」


「ええ、本当に」


 ゆり子の耳は遠くなってしまった。部活柄、声を張るのは苦ではないからいいのだが、だんだんと、ゆり子の耳は声を拾うのが難しくなってしまった。早口にならないよう、ゆっくりと話すことを心がけている。

 ゆり子はジャスミン茶を啜るとほっと息をつく。


「心配しているときの声が印象的で……」


 ふっとゆり子の言葉が途切れる。ひとみは首を傾げる。いつもだったら、こんな声だったのよ、と声を低くして声真似をしてくれる流れだ。ゆり子の声真似がどこまでの正確なのか定かではないが、祖父の朧気な記憶によるとゆり子の声真似ほど声は細くなかった、とのことだ。心配しているときの声の慌てた感じは特徴を捉えているらしい。

 だが、その声真似がない。


「ひいおばあちゃん?」


 どうしたのだろう、とひとみはゆり子の様子を窺う。


「……どんな声をしていたかしら」


 ひとみの背筋が凍る。今までこの流れを何度も何度も話していたゆり子からそんな言葉が飛び出すとは思わなかった。


「ひいおばあちゃん?」


 喉が緊張していたのか、ひとみは声を絞り出すように言う。冗談だよね、と言いたいのに、ゆり子の呆然とした顔にひとみのそうあってほしいという願いが一瞬にして消される。


「あの人の声……」


 ゆり子の声と手が震えている。愕然とした表情だ。

 少し冷ましたとは言え、ジャスミン茶は熱い。こぼしでもしたら火傷をして大変だと思い、ひとみはゆり子の手からマグカップを取り上げる。


「ひいおばあちゃん、大丈夫?」


 ひとみはゆり子の背を撫でる。食欲が低下したこともあって痩せた曾祖母の背中は薄く、冷たい。こんなにも頼りない背中だっただろうかと、ゆり子の肩を叩いていた幼少期を思い出す。トントントン、と掛け声と共に肩を叩いていたときの背中はもっと真っ直ぐだったのに、薄く、丸くなった背中にひとみの胸が痛む。


「……ええ。ごめんなさいね、ひとみちゃん」


 ゆり子は深呼吸をしてから無理して笑う。


「ちょっとびっくりしちゃって」


「お茶飲める? 落ち着けるといいけど」


 ひとみがマグカップを差し出すと、ゆり子は大事そうにマグカップを受け取る。皺の多い手がひとみの手に触れ、冷たい。


「ひとみちゃんも飲んでいいのよ」


 ひとみはサイドテーブルに置いた自分のマグカップに視線を移す。


「うん」


 ひとみはゆり子の様子を窺いながら一口飲む。爽やかな花の香がふわりと広がる。そよ風のような控えめな香り方をする。味ははっきりしているのに、香は少し控えめと不思議だ。


「美味しいね」


「そうでしょ。ひとみちゃんが上手に淹れてくれたから」


「いやいや、そんなことないよ。茶葉がいいんだって」


 ひとみは説明書きのとおりに淹れただけだ。ひとみが淹れたから美味いというわけではないと思う。

 美味しい、と言ってジャスミン茶を飲むゆり子を横目に、ひとみは明の話から逸れてほっとする。一度、明の話から遠ざけた方がいいかもしれないと思い、ひとみは昨日の店のことを思い出す。


「ねえ、ひいおばあちゃん。お店の人と仲いいみたいだね。言えば伝わるって言ってたし、向こうもゆり子ちゃんって呼んでたし」


「あら、ひとみちゃんの前でもそう呼んでたの? ちょっと恥ずかしいわ」


「私はびっくりしたよ。ちょっと距離近いなって」


 ひ孫とひとみが明かしてもゆり子ちゃん呼びを崩さなかった。

 少し目の細い二十半ばぐらいの男性。ちょん、と結ばれた髪が可愛かった。心地のいい少し高めの声は気さくな感じで、お店の人だからと言えばそうだが、愛嬌のある人だとひとみは思った。


「誰に対してもあんな感じよ」


 分け隔てなく接する。ゆり子はそう思う。あの店で知り合いと行き会うと、ちょっとしたお茶の時間が始まる。彼は楽しそうにお茶を淹れては話に耳を傾けてくれる。彼の淹れたお茶が美味いのと話に花が咲いてしまうために長居してしまうのだ。


「お年寄りに好かれてるような気がする」


「年下よりも年上から好かれそう。まあ、あのお店に子供は行かないと思うから、私ぐらいの子との接点がなさそうっていう意味でもね」


 ひとみは苦笑する。あの店の雰囲気に中学生の自分は不釣り合いだ。格好が部活帰りでジャージだったからこそ、余計に浮いていた気がする。場違いだと思いつつも、居心地は悪くなかった。


「昨日は学生さんお休みだったのかしら?」


「もう一人の店員さん?」


「ええ。しっかりしたお嬢さんでね。クールな感じの子」


「へえ」


 ひとみはジャスミン茶を啜る。ちょうどいい温度になってきた気がする。


「お嬢さんがいたら若い子も入りやすいと思うけどね」


「うーん、男の人も若いっちゃ若いと思うけど。まだ二十半ばぐらいでしょ?」


「そうね。そう言えば、あの子、ずっと若いのよね」


「ずっと?」


 あの店はいつからあるのだろうか。それをゆり子に尋ねると、記憶の糸を手繰っているのか、首を傾げる。


「確か……五年は経っていると思う。私が初めて行った頃からずーっと変わってないの、あの子」


「年齢不詳?」


「ちゃんと年齢訊いてないわね。実年齢は見た目より上なのかしら。時々、思いもしないような年寄りじみたことを言うし……」


 ゆり子の話をしたときは落ち着いた感じだったが、最初は軽い雰囲気だった。話し方からして、若い感じ。あまり年寄りじみたことを言うようなタイプに見えない。むしろ、見た目の年齢より若いように思う。


「そろそろ結婚するような年齢の子だと思うけど、そんなことは本人の自由よね。外野、それも身内でもないお客さんがあれこれ言うのは違うし」


「うん」


 ひとみの偏見だが、あの男は独身を謳歌していそうだ。自分の気が赴くがまま、自由気ままにのらりくらりと暮らしそうだ。


「ひとみちゃんはどんな人と結婚するのかしら」


「まだ先だよ」


 ひとみは苦笑する。まだ十四歳だ。結婚云々以前に恋人もいなければ、好きな人すらいない。正直、想像できない。


「結婚するかどうかもわからないし」


「そうね。……あの頃とは時代が変わったわ」


 ゆり子はマグカップを撫で、窓の外を見つめる。晴れ渡る空に白いふわふわとした雲が漂っている。目を細めて澄んだ青空を眩しそうに見つめる。今の時代、空を見ては鉄の塊から降り注ぐ雨を気にしなくていいのだ。


「好きな人と結婚できるし、結婚しなくてもいい。自由になった」


「……」


 ゆり子と明の結婚はお見合いによるもの。大きな喧嘩もとくになく、夫婦仲は良好。当時の結婚事情をひとみは知らないが、ゆり子たちが若かった当時の結婚は今の時代と比べたら自由などなかっただろう。そんな中、二人は短いながらも仲睦まじい夫婦として暮らせたのはよかったとひとみは思う。

 ゆり子から明の話はよく聞く。祖父の幼い頃の話も聞いた。しかし、戦争の話はほとんど聞いたことがない。夫を亡くした悲しみや戦争の辛い記憶があって話したくないのだろうと思い、無理に訊き出そうともせずに今まで生きてきた。ひとみが知る戦時下の様子は教科書に載っていることや本で読んだこと、映像で見たものぐらいだ。


「あのね、ひとみちゃん。ひとつ、またお遣いを頼んでもいい?」


「お遣い?」


 ひとみは無意識に俯いていた顔を上げる。青空を背にゆり子が微笑んでいる。このまま青空が連れていってしまいそうなほど、ゆり子の笑顔が弱々しい。ベッドの上だからか、余計にそう思わせる。


「ええ。またあのお店にお遣いを頼みたいの」


「夢屋胡蝶さんに?」


 昨日のお遣いを頼まれたときと様子が違う。最期のお遣いを頼むような真剣な声音だ。


「うん。あそこのお店、名前のとおり“夢屋”なのよ」


「夢屋……」


 ひとみが引っかかっていたことだ。お茶を売っている店なのに、なぜ“夢屋”なのか、と。


「あのお店はね、夢を売っているの」


「夢を売っている?」


 夢を売るとはどういうことだ、とひとみは訝しむ。


「夢って寝てるときに見る、あの夢?」


「そうよ。色々な夢を売っているの。ほら、お茶の商品棚の隣にとんぼ玉が並んでなかった?」


「とんぼ玉?」


「そうねえ……。模様がついたビー玉みたいな物って言えば伝わるかしら?」


 ひとみは店内の様子を思い出す。遠目で見たため、模様がついていたかはあまり見えていないが、確かにビー玉らしき球体が並んでいた。


「うん、並んでたけど……。あれ、売り物なの?」


「あれが夢なの」


 あのビー玉が夢。一体何を言っているのだ、とひとみは理解が追いつかない。

 眠っている間に見る夢。触れられる物体として存在しない物をどうやって形にするのか不明だ。

 偽物では。ただのビー玉を夢だと言って売りつけている詐欺ではないかとひとみは疑う。人のよさそうな軽い話しぶりの男が一気に怪しくなる。となると、今までゆり子が買ったお茶も何か変な物だったのではないか、実はジャスミン茶という名前のそれっぽい物を飲んでいるのではないかとぽこぽこと疑いが浮かび上がる。

 そんなことを考えているのが顔に出たのか、ゆり子が小さく笑う。


「変なこと言ってるって思った?」


「……ちょっと怪しいって思った」


「そう思うでしょうね。でも、本当なの。私、一度あそこで夢を買ったことがあるのよ」


「え!? 買ったの!?」


 これは変な詐欺の被害にあっていないかとゆり子のことが心配になる。今のところ、ゆり子がオレオレ詐欺や架空請求などの被害にあったとは聞いていないが、実はあの店で何かあったのではないかとだんだんと疑心暗鬼になっていく。


「私も嘘だと思ったけど、本当だったの。一度、お試ししてから買った。お試しの夢も、買った夢もちゃんとした夢だったんだから」


「でも、怪しいよ。信じられない」


「あら、ひとみちゃんがしっかりしている子でよかった」


「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、そこじゃないよ、ひいおばあちゃん……」


 コロコロと笑うゆり子にひとみは深々とため息をつく。呑気に笑っている場合ではないのだ。現状、ひとみはゆり子が騙されているとしか思えないのだ。


「ひとみちゃんが信じられなくてもいい。だけど、お遣いを引き受けてほしい」


「矛盾してるよ。信じられないから、簡単に引き受けるわけにはいかないって話なんだよ」


 ひとみたちの知らないところで実は被害にあっているのではないかと本当に心配になる。一度、両親や祖父母に相談すべきだろうかとひとみは考え込む。

 そんなひとみの手を冷たい手が握る。か細い手が何とも頼りない。


「お願い、ひとみちゃん。胡蝶さんのところで夢を買ってきてほしいの」


 じっと見つめるゆり子の目がここ最近で一番輝いているような気がする。決意に満ちたその目にひとみは強く反対と言えなかった。

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