#1
白い息を吐きながら
《夢屋 胡蝶》
丸っこい文字が可愛らしい看板だ。蝶と急須のイラストも中々親しみやすい雰囲気だ。
中学校入学を機に越してきてから二年が経とうとしている。これまでこの街の色々なところを歩いてきたつもりだったが、まだまだ知らない店もあるようだ。看板の感じからしてそれほど新しい店という感じではなさそうだ。
部活帰りにお遣いを頼まれたひとみは首を傾げる。茶葉を買ってきてほしいと頼まれ、店の名前を聞いたときから不思議に思っていた。
夢屋とは何だろうか。
そんなことを思いながら窓から店内をそっと覗く。中華風の装いは確かにお茶を扱っていそうな感じだが、なぜ夢屋なのだろうと不思議に思う。そんな店内には誰もいない。留守にしているのか、それとも暖簾の奥にいるのか。ひとみが恐る恐る扉を開けると、カラン、とベルが控えめに鳴る。
「こ、こんにちは……」
ひとみは店内を見渡す。中華料理店のような雰囲気の店内にはテーブルと椅子のセットが二組と商品棚、カウンターぐらいしかない。あとは置物や花、掛け軸や絵があるぐらいだ。あまり広くはない店内だ。
「はーい。少々お待ちくださーい」
間延びした男性の声が暖簾の奥から聞こえる。しばらくすると、チャイナシャツを着た男が暖簾をくぐってカウンターの奥の方から出てくる。ひとみを見るなり、細い目を軽く見開いた男は柔らかく笑う。
「いらっしゃい。何が欲しいのかな?」
子供に接するような声音だ。ひとみは背筋を伸ばして男を見上げる。
「あの、お遣いを頼まれて……。磯貝って言えば通じると言われたのですが」
「磯貝さん? ゆり子ちゃんのこと?」
男は心当たりがあるようですぐに名前を言う。
「はい」
「ふーん?」
男はひとみのことをじろじろと見る。上から下まで見定められているようでひとみの肩に力が入る。
「お孫ちゃん? それとも、ひ孫ちゃん?」
「ひ孫です」
「なるほど、ゆり子ちゃんのひ孫さんか。ひいおばあちゃんのお遣いね。いつものかな?」
「多分……。言えばわかるはずとしか聞いてなくて」
「じゃあ、多分いつものだね。すぐ用意するから、座って待っててね」
どうぞ、と男は椅子を引いてひとみを招く。ひとみが大人しく椅子に座ると、男は籠をひとみの隣に置く。
「荷物置いていいよ」
男はひとみが膝の上にのせたリュックサックに視線をやる。
「ありがとうございます」
「うん。ちょっと待っててね」
男は小さく手を振ると暖簾をくぐって奥へ行ってしまった。
一人ぽつんと残されたひとみはきょろきょろと店内を見渡す。茶葉や茶器が並ぶ商品棚の隣に瓶や小皿が並んでいる。商品なのかわからないが、並んでいる物はビー玉のように見える。ビー玉を売るだろうかと思うも、値札なのか何やら付箋のような物が貼られているのを見ると売り物なのかもしれない。ビー玉の方から言葉で表現するのは難しい、不思議な感じがする。
温かみのある照明を受けてキラキラと輝くビー玉に幼少期を思い出す。ビー玉を転がして遊んだ記憶が薄っすらとある。今思うと何が楽しかったのかわからないが、キラキラと光る物に興味があった当時からすると、遊ぶというよりもキラキラしていたから目を引かれたのかもしれない。
それにしても、曾祖母はいつからこの店に通っているのか。男の様子を見る限り、曾祖母の名前をフルネームで知っていたり、言えばわかる、いつものだね、と伝わるから常連のようだ。こじんまりとした個人経営の店と思えば名前と顔を知っていても不思議ではないが、ゆり子ちゃんと気軽に呼んでいる感じからしてかなり親しいのだと推測する。
「……うーん」
男よりも三倍ほど長生きしているゆり子をちゃんづけで呼ぶ男も男のような気がする。気さくな雰囲気の二十代半ばの男が曾祖母をゆり子ちゃんと呼んでいるのは妙に気になる。自分の身内が見ず知らずの男に呼ばれているからかもしれない。これが赤の他人同士ならそこまで気にはならないだろうか。
ゆり子から店の詳しいことは聞いていない。茶葉を売っている夢屋胡蝶という店で、場所はここ、という情報と店員のことぐらいしか聞いていない。その店員とこんな話をしたと時々聞いていた。話の内容のほとんどはお茶に関することや世間話ぐらいでそれほど話題に出ることはなかった。
不思議な関係だ。そんな風にひとみが思っていると奥から男が姿を現す。盆に白磁の茶杯をのせた男はひとみの席に歩み寄ると、そっと茶杯を置く。湯気の上がる茶杯はちょっと高そうな中華料理店で出てきそうだ。
「あの、これは?」
「柚子茶だよ。柚子、大丈夫かな?」
「はい」
「よかった。外、寒かったでしょ? ちょっと飲んでいきなよ」
「え、いいんですか?」
「いいよ。お遣いの品物はこっちね」
男は商品を茶杯の隣に置く。小さな紙袋には看板にあった蝶と急須のイラストと店の名前がスタンプされている。
「ありがとうございます。……お茶、いただきます」
「どうぞ」
男はニコリと笑うと身を翻す。盆をカウンターに置くと、そのままカウンターに寄りかかる。
「そう言えば、最近ゆり子ちゃん見ないけど体調悪い?」
男の問いかけにひとみは吹きかけていた息を止める。そっと茶杯を下ろしたひとみは小さく頷く。
「……そっか。ごめんね、悪いこと聞いて」
「いえ、大丈夫です」
突然だった。去年の春頃までは元気だった。九十代となればもっとよぼよぼだと思っていたひとみからすると信じられないぐらい元気だった。軽度の認知症になっていたものの、デイサービスを利用しながら日常生活を送っていた。散歩に出かけたり、本を読んだりととくに問題なく過ごしていた。
しかし、夏に倒れてしまい、救急車で運ばれた。老衰だろうと診断され、一度は入院をした。あまり長くはないと医師から本人以外に告げられた。家族の様子から自分の寿命を察したのか、ゆり子は家にいたいと望んだ。迷惑をかけるのはわかっているが、残り少ない時間を家族と家で過ごしたいと。本人と家族と医師で相談した結果、ゆり子の意思を尊重し、家で過ごすことに決まった。
それからと言うもの、ゆり子の外出はめっきり減ってしまった。寝たきりではないため、自分の足で歩くことは一応可能ではあるのだが、距離は各段に減った。彼女の行動範囲は家の中が基本となってしまい、馴染みの店にも顔を出せなくなってしまった。
「曾祖母がお店の方によろしく伝えてと言ってました。それと、長いこと行けなくてごめんなさいって」
「……あんなに元気だったのになあ」
男はぽつりと呟く。同世代の老人にしては元気な方だった。話し方もわりとはっきりしていたし、ゆっくりではあるが、自分の足で歩いていた。
それでも、身体の内に潜む悪い物はじわじわと彼女の身体を侵食していたのだろう。
「本当に突然のことでした」
「だろうね」
ひとみは小さく息をつく。小学校を卒業してからこの地に越してきて二年が経とうとしている。曾祖母の介護のため、曾祖母と祖父母が暮らす家の近くに引っ越してきたのだ。正月やお盆に集まる度に、ゆり子は小さくなっているような気がした。少なくとも、小さい頃の朧気な記憶と比べると、ゆり子はかなり小さくなったように見える。自分が大きくなったからだと思っていたが、元気な姿の内に潜む悪い物のせいで弱っていき、小柄に見えていたのかもしれない。
「最近、死が近いと思っているのか、認知症のせいかわかりませんが、昔の話を何度も何度もするんです」
とくに、ゆり子の夫、ひとみからすると曾祖父の話をよくするようになった。曾祖父は戦争で負った怪我が原因で若くして亡くなったそうだ。二人の息子であるひとみの祖父もあまり覚えていないそうだ。曾祖父のことをよく知るのはゆり子だけで、その曾祖父のことをよく話すのだ。
「ごめんなさい、暗い話になってしまって」
ゆり子のことを知っている相手とは言え、湿った話をしてしまった。ひとみは視線を下げる。柚子茶に映る自分の顔は何とも言えない寂しそうな顔をしている。
「いいよ。人が弱っている姿を見るのは苦しいし、辛いと思う。それも、身内ともなればなおさらだ」
「……はい」
幸いなことに、ひとみは今まで誰かの死に立ち会ったことがない。初めて立ち会う死がゆり子になるかもしれないのだ。
まだ先であってほしい。ゆり子は大丈夫だ。今日もお遣いを頼んできたとき、よろしくね、と手を握ってくれた。冷たい手でひとみの手をしっかりと握った感触を覚えている。力は弱くなってしまったが、それでも確かに手を握られたという感触があった。
弱気になってゆり子に余計な心配をかけたくない。そう思ったひとみは首を横に振る。嫌な気持ちを振り払うように。
ひとみは柚子茶に息を吹きかける。柚子の香がふわりと鼻腔をくすぐる。甘い香のする柚子茶を口に含む。柚子のちょっとした苦みがするも、ちょうどいい甘みの方が強く口の中に広がる。蜂蜜が入っているのだろうか。
「……美味しい」
「よかった」
男は目を細めて笑う。ひとみはコクコクと柚子茶を飲み干していく。ぽかぽかと身体が温まっていく感じと共に、胸の内に沈んでいた重たい何かが少し軽くなった気がする。
「ごちそうさまでした」
ひとみは手を合わせる。
「美味しかったです」
「それは何より」
「あの、お会計を」
「あー、いいよ。ゆり子ちゃんへのお見舞いの品ってことで」
「いえ、でも、」
ひとみはリュックサックから財布を取り出そうとする。お茶もいただいた手前、タダでとはいかない。しかし、そっと近寄ってきた男にその手を止められる。
「いいの。調子がいいときでいいから、声だけでも聞かせてほしいかな。それでお代はチャラ」
ね、と男はニコリと微笑む。
「う……」
申し訳ない気持ちもありつつ、男の有無を言わせない圧にひとみはリュックサックに伸ばした手を下ろす。
「……ありがとうございます」
「いい子だ」
男は満足げに笑う。
ひとみは立ち上がり、リュックサックを背負う。申し訳ないな、と思いつつ、ゆり子に彼の言葉を告げることがひとみにできるせめてもの行動だ。
「……そうだ。あの、お茶の淹れ方って何かコツはありますか?」
ふとゆり子に淹れてあげたいと思った。元気だった頃は自分で淹れていたが、今はそれもままならないほど弱っている。ひとみがゆり子に対してできることは少ないため、せめてお茶を淹れるぐらいのことはしたいと思った。
「コツか……。ちょっと待ってて」
男はカウンターへ走り寄ると、引き出しを開け、紙を取り出す。
「これを参考にしてくれればいいかな」
ひとみは紙を受け取る。手書きの説明書だ。看板と同じ丸い文字でジャスミン茶の淹れ方の説明が書かれている。
「お湯の温度に気をつけてほしいかな。八十度から九十度ぐらいが適温。適温じゃないと、渋みが出たり、旨味がでなかったりするから気をつけて」
他にも細々とあるけど、と男は言う。
「大事なことはそれに書いてあるから」
「わかりました」
ひとみは礼を言うと紙袋に説明書きをいれる。
「今日はありがとうございました。お茶もごちそうさまです」
「どういたしまして。ゆり子ちゃんによろしくね」
「はい」
ひとみは明るく返事をすると、男は小さく頷く。
男に導かれ、店の玄関まで行くと、男が扉を開けてくれる。少し暗くなり始めた空から白い雪がちらついている。
「雪、降ってきたね。傘いる?」
「大丈夫です。家は近くですし、これくらいなら平気です」
「そっか。じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「はい。お邪魔しました」
ひとみは一礼して店を出る。じゃあね、と手を振る男にひとみも手を振り返して家路へと歩き出した。
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