夢屋 胡蝶

真鶴 黎

第一夜 瞳の先の白百合と夜明け

 暗闇の中、真っ白な雪が静かに降り積もる。街灯に照らされた雪の道を男女が歩く。


 《夢屋ゆめや 胡蝶こちょう


 丸みを帯びた可愛らしい文字の店名に蝶と急須が描かれた看板の店。その店の前で男は鍵を取り出すと、店の扉を開ける。カラン、と控えめに鳴ったベルが静かな明朝に吸い込まれる。


「どうぞ」


 女の黒いコートに降りかかった雪を軽く払ってやってから男は女を先に店に入れる。女は会釈をしてから店に入ると、男も続く。中華風の雰囲気の店内の奥、居住スペースの方に二人は向かう。

 二人は履物を脱ぎ、居間に上がる。電気を点けた男はコートを脱ぎ、コートツリーに乱雑に掛けてキッチンへ、女は自分のコートとマフラーとバッグをコートツリーに掛けた後、男のコートを掛け直す。


「望ちゃん、炬燵に入ってて」


 電気ケトルを片手に、男が女、望に声をかける。望は居間の中央に位置する炬燵の電源をいれ、男の言葉に甘えて炬燵に入る。外に比べればマシだが、この部屋も寒い。身震いした望は暖房もつけ、冷えた手に息を吹きかける。こんなに寒い夜に手袋を忘れるなんて、最悪だった。コートのポケットに手をいれていたが、それでも手は冷えるばかり。冷え性の宿命だ。


「ねえ、しゅう


「ん?」


 男、周は水をいれたケトルをセットしてボタンを押す。寒い冬の朝だ。冷えた身体が温まるようにと生姜湯を用意しようと準備する。


「珈琲淹れて」


「珈琲? 寝ないの?」


 周は棚からマグカップを取り出し、時計を見上げる。もう少しで五時になろうとしている長針に細い目をさらに細める。


「寝ると一限遅れる気がするから」


 望は腕を組んで、頭を預ける。周と同じように時計を見上げていると、周が振り向く。


「起こしてあげるから寝ていいよ。でも、温かい物飲んでからね」


「いいから。寝坊したくない」


「遅刻しそうだったら僕が送ってあげるよ。バビューンって」


「人に見られたら困るからやめて」


 周の言うバビューンがどうするつもりなのかはわからない。が、きっとろくでもない方法のような気がする。

 望は気だるげに言うと、周は、そっか、とわざとらしく落胆する。


「僕が起こしてあげるって。だから、珈琲飲んで眠気覚ましなんてやめなよ」


「……じゃあ、白湯頂戴」


「白湯でいいの?」


 周は細い目を見開く。


「白湯がいい」


「うーん、望ちゃんが言うならそうしようか」


 水を沸かすだけで事足りる。至ってシンプルで、時間がかからない注文だ。

 望は再度手に息を吹きかける。雪の降る日というのは本当に寒い。寒いと通り越して冷たい。


「……あ、そうだ」


 望はゆっくりと身体を起こすとコートツリーに掛けたバッグを見上げる。斜め掛けの小さなバッグだ。望は炬燵から出て、バッグから瓶を取り出す。とんぼ玉のようなガラス質の球体が収められた瓶を手に炬燵に戻る。


「言ってくれれば出したのに」


 周が眉を下げて言うと望は瓶を灯にかざす。キラキラと射し込む光の筋に望は眩しそうに目を細める。


「周は炬燵入らないの?」


「お湯が沸いたらね」


 周はまだ湯が沸く音もしないケトルを一瞥する。電気ケトルは本当に便利で、茶が好きな周にとってなくてはならないものだ。温度の調節もしてくれる優れものを重宝している。

 望は瓶を置くと、頬杖をついて周を見上げる。

 二十代半ばほどの男性。中華風の装いを好むこの男はこの店の主である。商売をする立場でありながら、その顔立ちはどことなく胡散臭い。細い目とチャラチャラした話し方のせいで余計に胡散臭く思うのは自分だけだろうかと時々思う。


「ん? 僕に見惚れてる?」


 ニヤリと笑う周にそういうところだ、と思いながら望は無視する。黙っていればそれなりの顔立ちをしていると思うのだが、話すとこれだから、と望は思う。


「照れちゃって」


「そういうところだよね、周って」


「望ちゃんは素直じゃないね。クールすぎるよ」


 やれやれと周は肩を竦める。

 舟橋望ふなはしのぞみ。春から大学二年生になる十九歳。店から徒歩十五分ほどのところにある大学の心理学部在籍の学生。少なくとも、周の前では感情の起伏をあまり見せないクールな娘だ。


「周が明るいだけ」


「そう?」


「まさにそうでしょ」


 軽いその話しぶりなんてとくに。

 望は小さく息をつく。キャンパス内に一定数いる華やかな彼らと重なる。関わることなど必要最低限の部類である彼らと違って周とは色々と事情があって続いている。

 人に言えないことのひとつやふたつあるものだ。


「望ちゃんはもうちょっと明るくてもいいと思うんだけどな。はい、笑顔」


 周はニコリと笑う。


「……胡散臭い」


 どうも周の笑顔は詐欺師のように見える。変な壺でも売りつけてきそうな笑顔だ。ご利益のある壺だよー、と軽い口調で言っている様子が容易に思い浮かぶ。


「胡散臭くても、ぶすっとしてるよりはいいと思わない?」


「それはそうだけど」


「ほらね」


 場の空気がピリピリと張り詰めているよりも、和らいでいる方がいい。場の空気を作り出すのは人間の感情や行動によるものが多く、無愛想な顔をするよりも、にこやかに笑っていた方がいいに決まっている。

 望はそんなことを考えながら、瓶を指で軽く突く。大事な商品であるとんぼ玉のような球体がいくつかころっと転がる。


「ねえ、周。これ、ひとつ借りてもいい?」


「気になる物でもあった?」


 湯が沸き始めたようで、ケトルから音がする。そちらに意識をしつつも、周は瓶に視線をやる。色とりどりの球体を見つめる望の視線がどことなく寂しそうだ。


「……うん」


「いいよ」


 望は瓶のふたを開け、掌に中身を出す。青、赤、黄、白、黒など、様々な色や模様を持つ球体の中から淡い紫色の物を選ぶ。淡い紫の中に金色の筋が何本か入っている物だ。それ以外の物は瓶に戻し、ふたをする。


「ああ、いい物を選んだね。僕もそれは素敵だと思ったんだ」


 周は小さく笑う。懐かしむようなその笑みに望はいつもこの笑顔だったら胡散臭くないのに、と思う。ヘラヘラしているのが胡散臭さの原因だと思う。


「いい値になる?」


「なるね。売るよりも食べちゃいたいぐらい、いい物だろうね」


 周は笑う。まさに周好みの代物なのだ。そんなことを考えながら、そろそろ湯が沸くだろうと思い、ケトルの前に立つ。


「そうだよね。……借りるね」


 望は掌で球体を転がす。コロコロと掌で踊るように転がる球体。光の加減によっては深い藤色にも見える球体だ。

 一月も下旬になろうとしている頃合い。あと二ヶ月もすれば桜の咲く季節だ。降る雪が桜のようだと思う寒い日々が早く終わらないかと願う。寒がりな望からすると、温かな季節になってほしいと思う。

 カチッと湯が沸いたことを知らせる音がする。周はマグカップに湯を注ぎ、居間の方へ運ぶ。マグカップを置き、出掛ける前に脱ぎ散らかした羽織を望に掛ける。


「周が使いなよ」


「いいよ。女の子が身体を冷やすのはよくないからね。って言ってもこんな寒い夜に連れ出している時点でどうなんだって話だけど」


 周はよっこらっせ、と言って炬燵に入る。周の羽織は望には大きく、望をすっぽりと包み込んでいる。


「炬燵っていいよね」


 ふう、と力を抜いた周はマグカップを両手で包み込む。滑らかな触り心地で赤い花の模様があしらわれたマグカップだ。少し値は張ったが、周のお気に入りだ。


「いやー、今年が始まって三週間経とうとしてるよ」


「そうだね」


 望は肩からずり落ちかけた羽織を掛け直す。


「出会って一年が近くなってきたね」


 周は望と出会った日を思い出す。彼女との出会いは三月の頭。雪が少しチラつく日の夕方だった。


「うん」


 望は球体をそっと握る。冷たく、硬い球体を祈るように握る。


「……」


 周はその手を見逃さない。が、気づいていないかのように、白湯に息を吹きかける。白い湯気が周の息によってふわりと揺れる。


「望ちゃんは次二年生か。いや、早いね」


「早かった」


 大学生になってから何だかんだと忙しかった。大学生はもっと遊べるものだと思っていた望だったが、そうではないと思い知らされた。課題に追われることが多く、気づくと小テストだの、中間レポートの提出だの、期末試験の話だのとなり、長期休暇といった感じだった。


「来週テストだっけ?」


「うん。筆記試験がいくつか入ってる」


「レポート終わった?」


「あとは誤字脱字とかの確認をするだけ。そうじゃなければ、今日こうやって夜中に外出しない」


「さすが、望ちゃん」


 周は拍手を送る。もちろん、望がレポートをあらかた終えていたのは知っていた。学生の本分は勉学だ。邪魔をしてはいけないと思っている。とは言っても、望はしっかりした娘であるため、周が望の勉学のことにおいて心配をすることはない。あるとすれば、無理をして体調を崩しやしないかといったところだ。


「テストが終わったらお友達とどこか行くの?」


「うん。まだ日程は調節中なんだけど、この日はお店出てほしいって日ある?」


「店のことはいいよ。お友達との予定を優先してね」


 学生生活は今しかないのだ。店は周一人でも回せるため、望の予定を優先してほしいと思う。


「ちなみに、帰省する予定は?」


「ないよ」


「そう」


 親子間の仲が悪いというわけではない。単純に交通費の問題で帰省しないと望が決めていることを周は知っている。時々、親と通話している声を聞いているため、冷めた親子と周は思っていない。むしろ、親が望のことをよく気にかけている印象だ。女子の一人暮らしともなれば心配になることもあるだろう。

 それも、望のような特別な子は。周は目をすがめながら白湯を飲む。彼女が周の店で働く理由は本当に特別で珍しい体質だからだ。

 望は球体を置き、マグカップを手にする。白湯に息を吹きかけ、一口飲む。少し熱いがこれぐらいなら平気だ。冷えた身体を温めていく。少しずつ白湯を流し込み、最後の一口を飲み干す。


「いい飲みっぷりだね」


「寝たいから」


「そうだったね」


 周は時計を見上げる。五時を過ぎた針がカチと時を進める。


「何時に起きる?」


「七時には起きていたい。遅くても半。もし、半まで起きてこなかったら起こして」


「了解。マグカップは一緒に片付けるからそのままでいいよ」


「ありがとう」


 望は球体を手に立ち上がると、羽織を脱いで周の肩に掛ける。渋い緑の羽織は周に掛けるとちょうどいいサイズだ。細く見える周だが、肩幅は意外としっかりしている。


「羽織もありがとう」


「部屋まで着ていきなよ」


「ううん、いい。周こそ、身体を冷やすのはよくない」


「君よりは丈夫な身体をしているけどね」


 周は苦笑する。最後に寝込んだのはいつだろうかと思うほど、病に縁がない。


「いいから。それじゃあ、おやすみ」


「うん、おやすみなさい。いい夢を見られるといいね」


 周が優しく言うと望は小さく頷き、居間を出る。

 階段を上がり、望にあてられた部屋へ真っ直ぐ向かう。こうして夜、出掛けた後に仮眠をするための部屋を周が貸してくれている。店兼周の自宅のこの建物は一人暮らしをするには広く、二階はほとんど使われていない。周が二階に上がることは稀であるほど、二階の存在は持て余されている。空いているから使っていいよと言われ、一室を仮眠室として望は借りている。

 鍵をかけて、置かせてもらっているジャージに着替えてから布団を敷く。この布団は来客用に用意しているらしいが、ほぼ望の物と化している。泊まりにくるような客もそういないからさ、と周は言っている。

 望は布団にもぐり込み、スマートフォンのアラームを設定する。万が一の保険で六時四十五分から十五分刻みで設定して枕元に置く。


「……」


 望は周から借りた球体を見つめる。暗闇に薄っすらと金色の筋が浮かぶ。祈るようにして球体を握った望は横になると枕元に球体をそっと置き、目を閉じる。

 ふと、あの日の光景が思い浮かぶ。見ず知らずの森林だ。昼と夜の間の空模様を背に望に伸ばされた黒い手、鋭い爪。

 あの日以降、ずっと見ていない物がある。望は無意識に枕元の球体に触れた。




 こんな夢を見た、と言えなくなったのはなぜだろうか。



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