月からの贈り物 Ⅰ
「脆いな。人間」
一瞬だった。
「え」
一瞬にして、ステラの心臓部分に風穴が空いていた。その背後には、いつの間にか移動していた女がいて。赤く染まった右手に、潰れた心臓を握っている。
「────ッッッ!」
目を見開いたルチアが、珠のように汗を浮かべながら持っていた杖を地面に突き立てた直後、大地を割るようにして大樹が顕現した。しかしそれは女──マーニと名乗った月の神の打撃を真正面から受けると同時に、四散する。とはいえ、延命行為としては成立していた。
だが、逆に言えば。
「この樹……成る程、お前はアレの末裔か。だが、貧弱すぎる」
逆に言えば、それは延命行為に過ぎなかったことを意味している。目の前の死を回避するには、ルチアの術は到底足りなかった。
「くっ」
「俺は何も特別なことをしていない。ただ真っ直ぐ歩いて、手を突き出した。それだけだ。……なのに、お前たちはここで終わる。本当に、当代の生命は脆い」
そして。
「…………ほう」
そしてルチアの死は、第三者の手によって回避された。マーニの指先がルチアの額に触れる寸前に、彼女の動きは封じられていたのだ。
「っ、くう……! 心臓を抉られるって痛いね。せめて物理攻撃じゃなくて、魔術攻撃でお願いしたいよ」
いつの間にやら、マーニの肉体の大半は凍結していた。彼女の肉体を足元から浸食するように展開された、ステラの超級魔術によって。
「魔術とやらの攻撃であれば心臓を抉られても良いということか? 俺が言うのもなんだが、狂っているんじゃないか? 人間」
呆れたような口調だが、しかしその表情はどこか楽しげだ。退屈を紛らわすにはちょうど良いくらい。そのくらいの感覚で、マーニはステラへと視線を送る。
「回復……いや違う。時間を巻き戻したのか。そしてその力……そういうことか──」
「キミってかなり危ない人だから、手加減はしないよ。このまま凍結させて──」
「それなりに資格はあるらしい。それなら──」
「──死力を尽くしてキミを殺す」
「──お前に合わせて戦おう」
パキパキ、とステラを周囲の空気が凍結していく。未完成の特級魔術。その発露が、ステラを中心に空間を浸食しているのだ。未だ到達していない領域とはいえ、人類種の頂に限りなく近い力の一端。それを以て、
「面白い」
一方で、マーニ。
「あの力だけかと思ったが……。少し、上がったようだ」
彼女の場合は、その逆だ。先ほどまで放っていた圧倒的な力は抑えられ、ステラやルチアと同じ次元にまで下がっている。それは即ち、大陸最強格すら凌駕する領域から、大陸有数の強者の領域にまで弱体化していることを意味していた。氷を跳ね除けたとはいえ、これでは隙を見せた矢先に再凍結されるだろう。
「……そっちが手加減するんだ」
マーニの変化。それを受け、ステラは思わず戸惑いの表情を浮かべた。浮かべたが、それも一瞬。勝てるならそれで構わないと、彼女は心を切り替えた。
「なら、それを後悔しなよ!」
威勢よく吠えるステラに、マーニは笑みで応じる。しかしマーニにとっては意外なことに、最も速くマーニにその牙を届かせたのは、彼女の前にいたルチアだった。
「私を忘れられては困りますね」
マーニによって四散した樹に成っていた果実が、重力に従って地に落ち、破裂する。そしてマーニの鼻が香りを捉えた瞬間、彼女の神経が痺れた。
「毒か」
「今です、ステラさん!」
「言われずとも!」
そして、マーニの全身を氷が覆い尽くし。
「時間を停止させるよ。悠久の時を過ごせ『
◆◆◆
「ほんと、なんなのあの人……!」
「まさか、これほどとは。……せめて、第一位と第二位がいれ──」
「ていうか月の神? なにそれ意味が分からないよ!」
「…………」
マーニを無力化したステラとルチアは、即座にその場を離脱した。時間を停止させた以上、マーニに動く手段はない。そう分かっていたのに──彼女たちは、どうしようもない悪寒を止めることができなかったのだ。
「オウサマと速く合流しないと」
「ええ……」
互いに、思うところはある。ステラは、ルチアの樹を創造した能力を。ルチアは、ステラの氷属性魔術と時間操作という能力を。それぞれが、見たこともない力に興味を抱いていた。
だが、それを問うような時間はない。会話に花を咲かせるような余裕はないのだ。大陸有数の強者の上澄みにいたスペンサーでさえ無力化した力を用いたというのに、ステラの胸中にあるのは──
「なんだ、逃げるのか」
──瞬間。ステラとルチアの肉体が、地面へ縫い付けられた。
「あがっ」
「ぐっ」
遺跡が揺れ、二人を中心にして地面を亀裂が走る。明らかな異常事態に、しかし二人は伏した体を起こさない。起こせない。
「それは少々期待外れだ。あえて受けてやった意味がない」
落胆したといった心境を隠そうともせず、暗闇から現れたマーニが二人を見下ろした。腕を組み、どこまでも不遜な態度で、彼女は溜息を吐く。
「あそこで逃げるということは、お前たちにアレ以上の攻撃がないことを意味している。……その程度か? その程度の実力で、神に挑もうとしたのか? 人間」
返答は、マーニの全身を叩かんと放たれた吹雪の猛攻だった。
普通の魔術師であれば、この状況下では集中力が足りず、魔術は不発に終わっていたかもしれない。だが、ステラはクロエの魔術を全身で受け続けた特異な身。その異常とも呼べる環境は、如何なる苦境の中でも習得した魔術を放てる驚異の肉体を育てるには十分だった。
だが。
「下位『天の術式』にも届かぬ術。その程度で、神に牙を剥こうなど笑わせる」
だが、足りない。マーニがグッと拳を握ると同時に、猛吹雪はマーニへ直撃することなく大地に吸い込まれる。僅かでも肉体が吹雪に触れれば、ステラの『
「これ以上は特になさそうだな」
工夫があれば、まだ違った。目新しいものを見せてくれるのであれば、マーニはこの
だがどうやらこれ以上はないらしい、とマーニは目を伏せた。格上を相手に出し惜しみをしているのであれば、それはそれで怠惰にも程がある。絶望を前にしてさえ、全力を尽くせない程度の存在でしかない。何かの能力で可能性があっても、それ以外のあらゆる能力が、致命的に欠けている。それを悟ったマーニは、もはやどうでも良いとばかりにこの前座を終わらせることにした。
「では、ここで終わらせると──」
「──ォォォォオオオオオオオオン────ッッッ!」
寸前、獣の遠吠えが遺跡に響く。その声に眉を顰め、マーニは視線ごと顔を動かした。
「この遠吠えは……」
思い当たる節があったのか、マーニが苛立ちを声に乗せた瞬間──彼女の全身に、極大の衝撃が叩きつけられる。そのまま彼女は遺跡の壁を二枚三枚と突き抜けながら吹き飛んでいき、彼女の姿が見えなくなった辺りでステラとルチアの肉体の自由が戻った。そのことを認識した二人はすぐ様起き上がり、そして近くで唸る神狼を見上げる。
「この子は……?」
「私の現時点での最高傑作だ」
「セオドアくん!」
コツコツと靴底の音を鳴らしながら通路を抜け、セオドアはその部屋に足を踏み入れた。いつも浮かべている不敵な笑みを潜め、破壊された壁の向こうを眺めながら。
「ステラ。そしてルチア殿」
「分かってるよ、あの程度で死ぬ訳がないもんね。だから一緒に──」
「──即座に撤退することを勧めよう」
セオドアに対して、何かを言う暇もなかった。
「忌々しい狗に似ているが」
神狼の肉体が四方から押し潰され、そして血飛沫をあげながら爆散する。同時、悠然とした足取りを崩さないままに、女は再び現れた。かすり傷どころか、服に汚れすら付着させていない状態で。
「弱すぎるな。その程度では、神を脅かす獣足りえん。そしてそうであれば、本来の役割を果たせぬそれはもはや再現とは言えんだろう」
かつてのジルの推定では、大陸最強格でさえ全力を尽くさなければ討伐できないであろうという神狼。それを、女は片手間で処理した。処理してしまった。あのジルも、一応は人類最高峰の魔術を以て撃退したというのに。
「終わりか?」
誰も、何も言えない。遅れてやってきた『聖なる妖精』の面々も、竜からの情報伝達で全てを知った竜使族の兵士たちも、女の埒外さに言葉を発することができない。
「なんだ、本当にこの程度か? 人間。だとすれば、お前たちに生きる価値はない」
ズズ、とマーニから禍々しくも神々しいオーラが迸る。
「神を失望させた。それだけで、お前たちが死ぬのには十分過ぎる理由だ」
ルチアが大樹を森のように顕現させ、ステラが次々と氷柱を展開し、セオドアが大量に魔獣を解き放った。
「終われ、人間」
だが、その全ては無意味。小国を滅ぼせる単騎戦力が複数人いたところで、世界を滅ぼせる存在を前には蟻も同然なのだから。
「──いえ、流石に横暴が過ぎるでしょう」
「──誰の許可を得て、我が配下の処分を決める? 下郎」
マーニの攻撃を迎え撃つように、ファヴニールの息吹と特級魔術の一撃が放たれる。両者は数瞬の間拮抗し、爆発。
「……ほう」
拡散すれば容易く国が消し飛んでしまうような余波に直撃して、しかしマーニは微塵も揺るがない。それどころか口の端を持ち上げ、笑っていた。薄く笑みを浮かべながら、彼女は余波を防ぐために展開したであろう結界の内側にいる二人の
「準備運動程度にはなるか、人間?」
竜か。面白い──と、誰にも聞き取れない程の声量でマーニは呟いた。現時点の実力もそこそこの域だが、それ以上に潜在能力に期待できると。
「準備運動? ご冗談を、これから始まるのは閉会式ですよ」
涼しげな表情を浮かべ、シリルはマーニの視線を受け流した。この程度はなんでもないぞと──そんな虚勢を張りながら、彼は内心で冷や汗をかいていた。
(……化け物、ですね)
かつてシリルは、人類最強とジルの戦闘を視察していたことがある。今の感覚は、限りなくその時に近い。むしろ直接対面している以上、当時を凌駕しているとさえ言えるだろう。
(正直、僕一人では厳しい)
ですが、とシリルは横に立つ男を見た。敵であれば恐ろしいことこの上ないが、共闘するのであればこの上なく頼りになる男を。
「……」
その男──ジルは、普段浮かべているのと変わらない氷の表情を浮かべて女を観察していた。両の手をポケットに入れた姿勢を崩すことなく、しかし体内で『神の力』と魔力を練りながら。
「ジル少年。そのマーニって人、月の神って……」
「……」
「……ジル少年?」
焦燥から「オウサマ」と取り繕って呼ぶことができず、普段通りにジルを呼んでしまったステラに注意せず、ジルはマーニを睨む。というより、マーニの奥深くまで探るような視線を送り続けている。魔術の類こそ使用していないが、女の全てを解き明かすと言わんばかりの集中力。
「……」
「ふむ」
マーニの意識がシリルからジル──正確には、ジルの体内で練られている『神の力』へと移る。やや首を傾げていた彼女は、しかし納得したように頷いた。
「随分と混ざりすぎているようだが……目的は釣れたらしい」
「……釣れた、と言ったな女。想定の範囲内ではあるが、先の隕石は偶発的なものではなく、意図的なものだったということか」
マーニが口を開いてようやく、ジルも反応を示した。そのことに、少しだけ表情を緩めるマーニ。
「月の欠片を地上に落とした時点で、お前がこの地へ行きたくなるような心理が微かに働くように仕向けていた。大きな働きではなく、微かな働きで十分なんだ。というよりむしろ、微かでなければならなかった。大きく働いていれば、むしろその肉体が自動的に抵抗し遮断していただろうからな」
「……」
「何故そんなことを、という顔だな。ふふっ。無表情でも分かるぞ、うん。疑問に答えてやると、だ──地上から月を貫通した一撃。これ以上の理由はなく、そして合格だ。俺はお前を認めよう」
「……」
「だからこそ、舞ってみせろ。アース神族でもヴァン神族でもない……最新の神よ。月の神、マーニ様の名を脳に刻みながらな」
「舞ってみせろ、か。……ふん。それは貴様の方だ、女」
「成る程、それも面白そうだ。ならば一緒に舞うとしよう」
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近況ノートに書籍版のカバーイラストを公開しました。
https://kakuyomu.jp/users/yosida777/news/16817330666167027854
めちゃくちゃ神がかったイラストなので、ぜひご覧ください。
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