深淵を覗くとき

「──今この瞬間に、男風呂を覗くべきだと私の直感が告げている」

「何をバカなことを言っているんですか。ほら、髪を流しますよ」


 場面は変わって女風呂。そこで、ソフィアと騎士団長は洗いっこなるものをしていた。現在は髪を洗っていて、体にはタオルが巻かれている。


「だがソフィア。古来より覗きとは、風呂における鉄則だと伝承にもある。男が女風呂を覗くのが定石らしいが、我々が男風呂を覗くことも間違いではないはずだ」

「私はその伝承を知りませんが、多分その伝承自体が間違っています。忘れなさい、アナ」

「だがソフィア。私の直感が告げているんだ。覗くべきだと、覗かねばならないと、そう告げている」

「どんな強迫観念ですか」

「ということで、覗いてくる」

「何をアホなこと言っているんですか!?」


 そう言って、勇み足で男風呂と女風呂を隔てる壁へと歩いていく騎士団長。ソフィアはそれを止めるべく、お湯で髪の泡を流すことなく騎士団長の方へと駆けた。目にシャンプーが入ったせいで、若干涙目なのはご愛嬌である。


「はしたないですよアナ。女子たるもの、淑女であることを心がけるべきです」

「女だからといって、覗きをしてはいけない理由にはならないはずだと思わないか?」

「アナ。覗きは男女関係なくアウトです」

「それは違うぞソフィア。覗きがアウトなんじゃない。覗かれた相手に不快感を与えることがアウトなんだ。覗かれることで人類が幸福になる世界なら、覗きは許容される。覗きがアウトなのは、覗きが人に不快感を与えるからだ。そこを履き違えてはいけない。本質を見誤るな。何故混浴が存在すると思っている」

「え、えっと……」

「私とて、幾ら直感が覗けと言ったところで普通は覗きなんてしない。相手が嫌なことはしない主義だからだ。だがソフィアの言葉が正しいのであれば、上官殿の国の国民は年がら年中脱いでいるのだろう? 覗かれることに問題があるのか? 特に変わらないと思うが」


 ソフィアは敗北した。


「まあ、ソフィアがそこまで言うなら辞めるが……しかし、直感が覗くべきだと告げているのは事実だ。この感覚は一体……」

「流石に風呂を覗くかどうかで、変わる未来はないと思いますが」

「……まあ、それもそうか」


 ◆◆◆


「ジル様。お背中をお流しします」

「ああ」


 キーランに背を向けることに対する不安自体はあったが、背中は自分で洗うよりも他人に洗ってもらう方が効率がいい。現在、俺たち四人は縦に並んでいる状態であり、俺、キーラン、ローランド、ヘクターの順に並んで背中を洗っている。


 風呂に入る前に体を洗うか、風呂に入ってから体を洗うか。この二者択一の問題への結論は、古来より激しい争いを繰り広げていたという。両者の言い分はそれぞれがそれぞれなりの信念を感じさせるものであり、かの"きのこたけのこ戦争"にこそ及ばないまでも、熾烈な生存競争があった。


 共にそれなりの勢力を有した派閥同士の争いである以上、どちらが優れているだとか、どちらが劣っているだとか、そう言い切ることのできる問題ではないだろう。なんなら第三勢力としてかけ湯をしてから風呂に入って体を洗ってまた風呂に入るという組織も存在するらしい。風呂を巡る問題は時代や地域だけでなく、当人たちの信念によって変わるということだ。


 とまあ色々と語ったが、俺は体を洗ってから湯船に浸かるタイプである。


「ローランド、最近前より筋肉付いたんじゃねえか?」

「……たくさんの栄養をとっているからかもしれない。国に身を置くようになってからは、食材の確保が容易だからな。レイラも楽しそうに料理をしている」

「なるほどな。まあ、飯による肉体作りは武者修行の旅だとかでも付き纏う問題だ。結局、キチンとした環境に身を置きつつ追い込んでいった方が肉体的な強さは上になるのかねえ」

「どうだろうな……。野生的な強さという意味では、自然に身を置くのも悪手ではないと思うが」

「それはそうだろうな。けど……いや、まあいいや。ほら、テメェの背中は洗ったぞ。次は俺の方を頼む」

「分かった」

「待て、ローランド。お前は引き続きオレの背中を洗え。アレでは不十分だ」

「なんでだよ。ボスに洗ってもらえよ。俺はまだ洗ってもらってねえんだよ」

「口を慎めヘクター。ジル様に雑事を頼むなど、不敬にもほどがある。死すら生ぬるい。口を慎めヘクター」

「……輪になろう」


 それはこの場にいる全員がそうであったらしく、こうして俺たちは仲良く体を洗っている最中だ。


 なお、俺は王なのでキーランの背中を洗うことはない。部下の背中を懸命に洗うラスボスなど、キャラ崩壊も良いところである。故に俺は三人で輪になって背中を洗い合い始め──たと思いきや、口喧嘩を開始し、そのまま石鹸やらタライやらを投げ始めた男子高校生並みの精神年齢の野郎共を眺めながら、湯船に浸かった。


「貴様ヘクター! もう少し丁寧に洗わんか! ジル様の前に、このような不浄の身で立っていたのか貴様は!」

「人を不潔みたいに言ってんじゃねえ! 普通に石鹸で洗っただろうが!」

「それが粗暴だと言っているのだヘクター! いいか、体を洗うにまず始めに──」

「んな細けえことしてる奴はいねえよ!」

「貴様ヘクター! 石鹸を投げるな!」

「テメェはタライを投げてきたけどな!」

(ローランドは高校生の年齢だが、キーランとヘクター……お前たちはもう大人だろうに……というか、ローランドが遠い目になっているんだが。ローランドが一番大人だった……?)


 まあ正直、精神年齢なんてものは中学生以降ほとんど成長しないと思ってはいるが。大人が大人に見えるのは、立場と社会的地位、体裁や世間の目といったものを意識してそう振る舞っているだけにすぎない。そういったものを考える必要のない場では、人類はみんな中学生である。


 だからどれだけいい歳をしてようと、異世界に転生し、立場だとかを放棄してしまえば、それはもう中学生と変わらない。大企業の社長さんであろうと、異世界に転生すればそれはもう厨二病に逆行するしかないのである。


(しかしほんと、なんだかんだで色々とあるよなこの世界。……どの程度の文明力があるのやら)


 近代とほぼ変わらない部分。近代よりは遅れている部分。近代よりも進んでいる部分。そもそも近代とは根本から異なる魔術的な部分。それらが混ざり合って成立しているのが、この世界である。


 とはいえ、国によっても色々と違う。魔術大国は完全にファンタジー世界をやっているが、ドラコ帝国はイメージとしてはローマ帝国に近い。エクエス王国はそれなりに近代に近しく感じ、マヌスは独特の文化を有している。小国はまちまちで、中世ヨーロッパ風というありきたりなものもあれば、それよりも前時代的だったりもする。


(飛行船やら戦闘機の類がないのは世界観のためなのだろうか。いや、そう考えるとセオドアの技術力は冷静に考えるとおかしい気もするが)


 あの男はあの男で登場する世界感を間違っているのではないだろうか、と思わなくもない。まあその辺は深く考えたところで仕方がないのだろうが──『ふむ。やはり、増しているな?』──。


「────」


 その声に、思わず息が止まる。


『奇怪な存在だ。人類最強……だったか? アレは「神の秘宝」を器にすることで擬似的に「神の力」を扱っていたが、お前はそうではない。お前は、お前自身がきちんと「神の力」を使っている。我輩から見ても、特異だな』


 何故ここにいる? と考えて──当然といえば当然であると思い直す。コレはローランドから一定距離以上離れることができない。だから、風呂に入るときであってもコレが近くにいるのは必定だったのだ。そしてこの距離この声量であれば、ローランドから俺たちの会話は聞こえないだろう。


 キーランとヘクターが騒いでいるのも、悪い方向に繋がってしまっていた。気を抜くべきではなかったか、と苦虫を噛み潰したような表情が浮かぶ。


『始めは信仰を得たことで神格化が始まり、その力を内包するに至ったのかと考えたが……どうやらそうではないらしい。お前は、そういう風に創造されている。しかし、神代回帰の加速具合も含めて、どこまで自覚しているのやら。この一連の全ては、お前の計画の内か? それとも、複数の勢力の思惑が交錯した結果か?』


 獅子身中の虫という言葉ですら生ぬるい。俺が現在確認している中で、最悪にして最凶の存在。それが──いやちょっと待て、神代回帰が加速しているだと?


(原作よりも速いペースで『神の力』を集めているからか?)


 つまり神代回帰はそれが開始してから一定の速度、あるいは予定調和の速度で進行するのではなく、俺が『神の力』を回収するのに比例して進行していくということだろうか。……だとすれば、少しペースを落とすべきか? 邪神に関しても、ジルが完全体になってから降臨していたことを考えると──


『身に余る大望を抱いた人間か。神々の代弁者あるいは神々の降臨を願うものか。それとも神々を喰らおうとする存在か。あるいは、神の一柱が降臨したのか。お前の目的は読めん。だが──ローランドが世話になっている礼として、直々に忠告してやろう。お前の末路は、死であるとな』


 忠告、か。






 ふん。忠告など笑わせる。そんな殊勝な心掛けは、微塵もないだろうに。


「……何を言うかと思えば、貴様の目は節穴のようだな。私が死ぬ? 絶対の王であり、人類最強をも超越した真の最強たる、この私がか?」

『ああ。確かに、お前の肉体は間違いなく人間として最高のものだろうよ。なにせ、そういう風にその肉体は設計されているのだから。そしてだからこそ、お前は死ぬ。お前がお前である限り、お前の死は覆らない』

「……」


 ──設計されている?


『しかし、その言い分だとお前自身が神を信奉している者という可能性は消えたか。奴らであれば、嬉々として神に身を捧げるだろうからな。その点に関しては、ブラフすらしまい。というより、できない』


 それは神々が、後世の人間に『権能』を発現させるように仕組んだという意味……では、ない?


『しかし神々も考えたものだ。何故に奴らはあの二人を残したのかと疑問に思っていたが……くく、成る程な。人間を繁栄させ、増やし、そして満を辞してお前という存在の登場か。これは──』

「…………」


 あの二人を残した。あの二人とはなんだ。……いや待て、この物語の舞台は、北欧神話をモデルにしている。そこからの推測自体は可能だろう。ならばここで言うあの二人とは、ラグナロクの後に出てくるとされる二人の人間か? 


 果たして、こいつはどこまで知っているのか──カマをかけてみるか?


(……いや、ローランドを敵に回しかねないか)


 俺が知っている情報を使えば、こいつに揺さぶりをかけるのはおそらく難しくない。だが、こいつを通して話を聞いたローランドから不信感を抱かれても困る。何より、カマをかけるにはこいつの力は強大だ。鬼が出るか、蛇が出るかどころの問題ではない。はっきり言って、リスクが大きすぎる。


 君子危うきに近寄らず、だ。


『あの女もよくやっているが、これは神々が上手と言えるか。どれだけ未来を把握していようが、過去の改変はできん。……ふん、皮肉なものだな。未来を変えるのは現代での行動だが、既に終わってしまった過去からの干渉には太刀打ちできんとは』


 だが、ここで無視をするのはジルとしておかしい。ソルフィアの発言は挑発行為に近く、その挑発を無視するのはジルらしくないのだ。だからここで黙り込んでしまうのは、これまでの行動が水の泡になってしまうことを意味する。


(……やるしかない、か)


 それに、ソルフィアから舐められてしまうのも問題だ。ソルフィアが俺に対して「こいつ殺れるわ」と認識してしまえば、殺しにくる可能性が高い。そう思う理由は、かつてソルフィアを解析した時に悪寒を抱いたから、というひどく曖昧なものだが。


(ジルとしてのキャラを保ちつつ、教会勢力やローランドと敵対しないような発言を心がけながら、こいつの地雷を踏むことなく、そして知識を有さない無能とも思わせない。そういう会話を、時間ギリギリまで完遂する)


 矛盾なく、今後の行動との整合性も意識しながら全てをこなす。神と敵対する意思を見せたり、神であることを否定すれば教会が敵に回り、逆に神を歓迎する意思を見せれば……おそらくこいつと敵対することになる。知識を持ちすぎていれば違和感を抱かれるだろうし、かといって無知であればそれはそれで終わるという直感がある。臆病風に吹かれるとジルとしてのキャラが崩壊して終了で、かといって蛮勇が過ぎればデッドエンド。


 さて、これを満たしつつ事態をやり過ごすにはどうするかと考えて──よしこうしよう、と結論を出した。


「……憐れだな」

『何?』

「貴様は大海を知らぬ蛙と同じよ。貴様の知る範囲の世界でしか、物事を語っておらん。これを憐れと呼ばずに、なんと呼ぶ? 正に道化。知らぬからこその大言壮語。貴様、実は夢想家か?」

『…………』


 嘲るように言った俺に対する返答は……刺すような殺意と、これまで認識したことのない波動だった。ご丁寧に俺だけに放ってきたそれに、心臓が止まったかのような錯覚を抱いたが、しかしそれを気合と根性で捩じ伏せながら俺は言葉を続けた。


「貴様は私が死ぬなどと口にしたが、私の正体にすら至っておらん。私が只人なのか、神が人間の肉体に降臨した末の存在なのか、それすらもな。正体さえ確定できていない状態で、如何にして私の末路を確定させることができる?」

『その肉体の末路が確定しているのだ。お前がなんであれ、その肉体の末路は変わらん』

たわけ。やはり節穴だな。内面の正体を看破できておらぬというのに、何故肉体は看破できたと思い込んでいる? 貴様のその認識は、正常か?」

『…………』


 俺の言葉に、何を思ったのか黙り込むソルフィア。それを横目に見ながら、俺は言葉を続ける。


「そしてそもそもだが」

『……?』

「私は、予言の類を信じん。私の未来が確定している? ハッ、笑わせる。私の未来は、私だけが決める。他者の意思や思惑の介入など、決して認めん。全て打ち滅ぼしてくれるわ」

『……』

「そしてそれは貴様も同じではないか? そうでなければ、貴様の行動に筋が通らん。なあ──聖女との繋がりを有している者よ」


 ソルフィアが口にしていた「あの女」。これは聖女のことを指しているのだろう。この世界で未来云々の話が出たら、まず間違いなく聖女に関する話と考えていいのは原作からして明らかだ。


 なによりローランドが聖女の命を受けて『世界の終末』を避けるために行動している以上、ソルフィアと聖女にも、ローランドを通して繋がりが存在することの裏は取れている。だから的外れではなく、ソルフィアから「何言ってんだこいつ」と思われることもない。


(まあ、これで問題はないだろう)


 ビビって黙り込むとキャラとしてのジルが死ぬ。かといって、挑発に対して激昂してソルフィアと戦闘を開始すれば普通にジルが死ぬ。ならば解決方法はとても簡単──「アホくさ」と、ソルフィアの発言に対して呆れてしまえばいいのである。


 怒りを通り越して呆れているのだから、ジルがソルフィアに喧嘩を売る理由はない。同時に、ソルフィアに対してギリギリを攻めた強気な発言をすることでソルフィアにビビっていないことのアピールもこなす。『聖女』という単語を出すことでジルの知識も示しつつ、原作知識を利用した発言で底知れなさも演出してみせた。


 これにより、俺はソルフィアをやり過ごすことができ──


『オモシロイ』


 ──瞬間、俺の視界に映ったのは、満天の星空。


『未来を知りながら、未来を越えると謳うか──"人間"』


 いつのまにか風呂からあがり、服を着ていた俺は、動揺を隠しながらそれを見た。


『オモシロイ。オモシロイが、それこそお前のいう大言壮語だ』


 人型のフォルムをした異形。背に展開されしは漆黒の両翼。瞳は紅く、煌びやか。肌の色は青白く、怪しげなオーラがその身を包んでいた。


『だから、それを我輩に示してみろ』


 胸に埋め込まれている翡翠色の宝石が輝くと同時に、重圧が増していく。その重圧は──『何か』や人類最強をも、遥かに超越していた。


『我が名は◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎』


 ノイズが走る。この世界ではその言語を発することができないとでも言うかのように、俺の耳はそれを認識することができなかった。


『往くぞ、人間。ここを死地とするか、それとも乗り越えるか、我輩はそれを見届けよう』


 放たれた閃光。それに対して、俺は迷うことなく『天の術式』光神の盾を展開した。


 だが、


「────」


 だがその閃光は一瞬にして『光神の盾』を破壊し、その背後に立っていた俺の心臓を、貫いた。


 ◆◆◆








 ◆◆◆


『ほう』


 閃光に心臓を貫かれた俺は──倒れることなく、『天の術式』を展開。空に輝く星々を、ソルフィアに向かって降り注がせる。


『死を前にして、お前はそう在ると』

「ハッ」


 心臓が貫かれた。激痛なんて言葉では済まない。完全なる敗北。確定した死。そんな言葉がよぎるが──しかし、捩じ伏せる。なんとしてでも生き延びる。俺は不敵に笑う。なによりも先に、目の前の大敵を討つ──!


『これに気付いたか』


 だが思考は冷静に。一刻を争う事態であるからこそ、焦りは禁物。ソルフィアの言葉を、一言一句聞き逃してはならない。そしてそこから導き出せる解も、並行して解き明かす。


『あるいは、それほどの意思があるのか。いずれにせよ、最低限の資格はあるようだな』


 これに気付いたかという発言から察するに、今この状況はなんらかの仕掛けがあると考えられる。同時に、普通に考えればそろそろ活動停止となってもおかしくないこの肉体が、問題無く稼働しているという事実。


 そもそも、なんの予兆もなくこのような異空間に俺を引きずり込める存在の放つ閃光を、目視できた事実への違和感。そして、俺の意思が大事だとでも言わんばかりの言葉。少しばかり違和感がある『天の術式』の発動。これらを総括すると──


「──幻術。それなりの余興にはなるが、私には通用せん。中々に美しい光景であるから見逃してやったが……飽いたな。私の堪忍袋の尾も、切れるというもの」

『オモシロイ。大幅に制限されているとはいえ、幻想を現実に変換する即死の幻術をよくぞ破った。しかし寛容だな。寛容にすぎるぞ人の王。もしや、我輩に臆したか?』

「私は貴様のことを道化と称しただろう。道化の演出を処すなど、王としての器が知れる。それは、私が最も憂慮すべきことだ。それに貴様はどうでもいいが、ローランドは別だ。あの小僧に感謝するが良い」

『王としての矜持というやつか。神々にしろ、厄介な性質を持っているものだ。お前たちのような存在にとってそれは、自らの命よりも大事らしい。……まあ、そういうことにしてやる』


 そして、世界は元に戻る。どうやら、試練のようなものは乗り越えたらしい。だから奴は幻術世界を閉じたと。俺は温泉に浸かっているし、その隣では長方形の黒い物体ことソルフィアが……いなかった。


『何故に我輩でキャッチボールをしている!?』

「キーランさんがコレでキャッチボールをすべきだって直感が告げていたとかなんとか……まあ実際、この国の石鹸とかを投げるよりはいいだろ」

『良くな──』


 見れば、キーランたちの遊び道具にされていた。……非常に、非常に気が抜ける光景である。


(……しかし)


 幻術世界ではあった。だがだとしても、ジルほどの存在を一瞬にして幻術世界に引きずり込んでくる力量に加えて、『光神の盾』の破壊。その辺を考えると──


(上級魔術を習得していれば、精神攻撃の類は遮断できるはずなのに問答無用とはな。これは、対策が必須……いやそもそも、まで思考を広げておく必要があるか)


 すぐ近くに設置されている地雷。それの除去方法を考えながら、俺は風呂に浸かり続けていた。


「てかキーラン。テメェはボスより大事なものがあるか? あるよな? あるんだよな? あるって言ってくれ」

「ないが?」

「……やべえ。嫌な予感しかしねえ」

「?」


 故に、小声で交わされたそんな会話を聞くことなく、時間は過ぎていく。

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